第79話 四月七日の入学式

「薫くんっ! 会いたかった!!」

「ぅおっ」


 四月の七日、入学式の日の朝。昇降口から数メートル離れた場所で、俺は桜子ちゃんに突進――いや、ハグされた。人目も憚らず、ぎゅうっと抱きしめてくる。こうして直接会うのは、実に一ヶ月ぶりのことだった。


「薫くん……大好き……」

「桜子ちゃん。みんな見てるから、ちょっと、ここでは控えようか」

「好き、好き……。あ、私の制服姿どう? 可愛い?」

「うん、可愛い可愛い。世界一可愛い」

「むぅ、テキトーに言ってるでしょ!」


 不満げにしている彼女の手を引いて、ひと気の少ないところへと移動する。俺の容姿は、遠目から見ても目立つのだ。


 顔のせいでもともと注目されがちだったが、白髪になってからさらに悪化した。マスクをつけていても、完全に安心することはできない。今日も俺は、人の視線に怯えている。


 歩くのと一緒に、ポニーテールにした彼女の長い髪が弾むようにぴょんぴょん揺れているのが、視界の端っこに見えた。ちょっと心が落ち着いて、口元もゆるむ。


「薫くん、どこまでいくの?」

「……ここらへんでいいかな。ごめんね、突然。ちょっと話しておきたいことがある」

「うん、どうしたの?」

「学校では、俺と関わらないでほしい」

「……なんで?」


 彼女は眉を下げ、しゅんと悲しそうな顔をした。胸が痛むが、ここで引くわけにはいかない。


「俺さ、自分で言うのもあれだけど、けっこうモテるの」

「うん。薫くん、かっこいいもんね」

「俺と一緒にいると、嫉妬されて危ない目に遭う。だから、関わらないようにしよう」

「……私のため、ってこと?」

「うん、そう。ごめんね」

「ううん、いいよ。そっか、わかった」


 彼女は泣きそうな顔で笑って、こくりと頷いた。俺を心配させないために、わざと笑ったようだった。


 公立入試の日の夜は『高校でもよろしく』なんて話をしてしまったが、帰ってから気づいた。青柳がいる高校で、桜子ちゃんと仲良くしてはいけないではないか、と。前のように学校で彼女とベタベタいちゃいちゃするのは、確実によろしくない。


 今年の一月、青柳はまた俺に告白してきた。今回は彼女からのメッセージには本当に雑な返信と無視しかしてこなかったのに、まだ俺のことが好きだったらしい。俺は「今は恋愛には興味がないので、すみません」と嘘100パーセントで断った。


 これでまた桜子ちゃんと交際している姿を青柳に見られたら、どうなるかは高が知れている。あの女は、また俺らを引き裂こうとするのだろう。


 俺らが今まで普通に会えたのは、桜子ちゃんが中学生だったからだ。青柳の魔の手も、他校の見知らぬ中学生にまでは及ばない。でも同校になれば、危険性はぐっと増す。


 桜子ちゃんがあんな目に遭うのは、もう絶対にないようにしたい。いじめも、あの事件も、もうたくさんだ。今度こそ、彼女には普通に学校生活を送ってほしい。


 だから、学校では他人のふりをする。彼女の姿に、見て見ぬふりをする。つらいけれども、我慢するのだ。


 彼女が足を動かして、地面がジャリっと音を立てた。真新しいローファーの爪先がそっぽを向く。彼女は、俺の前から立ち去ろうとしていた。


「じゃあ、行くね。薫くん。バイバイ」

「あ、ちょっと待って」

「……なに?」


 彼女が俺を見上げて、ぽたりと涙をこぼす。やっぱり泣かせてしまった。できることなら、抱きしめて慰めたい。キスをして笑わせたい。


 誰かに見られる可能性を考えたら、止められたけれど。


 彼女と俺が、外で一緒にいるのは良くない。でも今日は、彼女をひとりで家に帰らせるわけにもいかなかった。


 四月七日は、彼女の家の近くに露出狂が出る日でもあるから。放っておけば、あれは彼女のトラウマのひとつとなり、彼女への誹謗中傷も助長する。


「入学式終わったあと。俺の家、来ない? その、一緒にって感じじゃなくて。こっそり付いてきて」

「薫くんのストーカーになって、ってこと?」

「まあ、そんな感じ」

「薫くんも、ほんとは私と一緒にいたい?」

「うん、一緒にいたい」

「そっか。じゃあ、ストーカーになってあげるね」


 彼女は、ふにゃりと弱々しく笑った。「なんかあったらメッセ送って」と言って、俺は彼女の前を去る。かすかに聞こえる泣き声には、決して振り返らなかった。




 入学式が終わり、俺はいつもの電車に乗った。同じ車両の少し離れたところに、桜子ちゃんが乗っている。無事に付いてきてくれているようだ。


 彼女のことをチラチラと確認しつつ、最寄り駅の改札を出て、家へと歩く。彼女は不安そうにキョロキョロしながら歩いていた。


 家のすぐ前で、俺は立ち止まる。数メートル離れた場所にいる彼女も、ぴたりと止まる。おいで、と手招きをすると、また歩きはじめた。無事に合流する。


 玄関先で立ち話というのもなんだし、さっさと家のなかに入った。今はみんな出かけていて、誰もいないはずだ。


「お邪魔します、です」

「うん、いらっしゃい」


 緊張したような面持ちの彼女を、できるだけ温かく迎えようとする。ガチャン、と扉が閉まる音がした。ここにはふたりきりだと、改めて自覚する。……ふいに、何かのスイッチを押された。遠慮がどこかへ飛んでいく。


「桜子ちゃん、大好きだよ」

「へ? え? え?? 薫くん?」


 衝動的に、彼女のことを抱きしめていた。ふたりとも靴を履いたままで、彼女は鞄も持ったままで。彼女の首筋に顔を寄せ、匂いを吸う。新しい制服の匂いに、彼女の匂い。じんわりと心が満たされた。


「あのー、薫くん? どうしたのかな。甘えたさん?」

「ごめん。なんか、抱きしめたくなった」

「なにそれ。びっくりしたでしょ! もう!」

「うん、ごめんね」

「そんな、『ごめん』ばっかり言わないでよ。……桜子、こういうのは、付き合ってからしたいな」

「今までも、けっこういちゃいちゃしてたけど。桜子ちゃんのほうが、俺にいっぱいハグしてきたよ」

「うん、そうだけど。そうだけどさ。ね、薫くん。……桜子のこと、見て?」


 ちょっと震えた声で言われるから、顔を上げざるを得なくなった。もしかしたら、また泣いてしまうかも、と思って。


 桜子ちゃんは、笑っていた。やわらかく微笑んで、俺の前髪をさらりと撫でる。


「雪みたいに綺麗だね」と彼女が言う。「桜子ちゃんも、綺麗で可愛いよ」と俺が言う。


「薫くん。私もね、今日、言いたいことあったの。さっきは泣いちゃって言えなかったけど、聞いてくれるかな」

「うん、聞くよ。どうした?」

「あのね、私……薫くんの彼女に、なりたいです」


 一瞬、息の仕方を忘れる。まったく予想外の驚きだった。


 桜子ちゃんが、頬をぽっと赤らめる。可愛い。ほんのりと瞳を潤ませて、上ずった声で、彼女は俺に言葉を届けた。


「さっき、距離置こうって言われて、ショックだった。でも、入学式の間も考えてみて、それで……恋人になりたいのは、諦められないと思ったの。学校で知らんぷりするのも、ちゃんと守る。他にもルールあったら、それも守る。……か、薫くんと、あんまり一緒にいれなくても、我慢するから。頑張るから。薫くんが、私のこと、好きだったら……恋人に、してくれませんか」


 泣くのをこらえているのか、彼女の眉間には皺が寄っていた。出会った頃――三回目の二〇一六年、八月――と比べて、彼女はちょっと大人になったみたいだ。表情や雰囲気が、なんとなく。


 俺はもちろん彼女のことが大好きだ。けれどすぐに承諾する気にはなれなくて、確認する。


 桜子ちゃんはけっこう可愛いし、恋人を作ろうと思えば作れる子だと思う。過去の彼女と比べて今の彼女は明るくて、陰気な感じはほとんどない。彼女の相手は、はたして俺でいいのだろうか。


「桜子ちゃんは、俺と本当に付き合いたい?」

「うん、付き合いたい」

「学校では、なんもしないよ。話もしない」

「うん、わかってる」

「できるだけ、会うのもこっそりにしたいから……本当に、土日くらいしか会えないと思う。デートも、たぶんできない」


 学校でも、出かけた先でも、誰かに見られたらと思うと恐ろしい。彼女がまた誰かに恨まれたら。襲われてしまったら。


 近くで守りたい思いもあるけれど、俺がそばにいるせいで危険な目に遭うこともある。二回目の時では、それをよくよく思い出させてもらった。今回は慎重に行動していきたい。


「それでもいいよ」


 と彼女は笑った。涙が、すーっと瞳から落ちる。綺麗に静かに、泣き笑う。


「じゃあ……今日から、付き合いましょうか。紫月 桜子さん、俺の恋人になってください」


 改めて、ちょっとちゃんとした挨拶を。俺は彼女に手を差し出して、握り返されるのを待った。


「はい、喜んで。よろしくお願いします、花咲 薫くん。……いい彼女に、なりますね」


 ――『いい彼女』。そのワードを聞いて、あるメッセージのことが思い出される。スマホ画面が脳裏に浮かぶ。


『いい彼女になれるように頑張ります。よろしくお願いします』


 二回目の彼女と交際を始めた日。俺の想いに、彼女が返事をくれたとき。彼女はそんなメッセージを送ってきた。あのときは嬉しかったな。なんて、遠い日のように思い出す。


「うん。俺も、いい彼氏になれるように頑張るね」


 彼女とぎゅっと手を握り合い、ハグをした。



 三回目の四月七日。俺らはまた恋人になった。


 思っていたよりも早く帰ってきた母さんに、桜子ちゃんのことが早速バレた。「付き合ったら紹介する」とは前々から言っていたし、誤魔化すと面倒くさいことになるだろう。そう思って、俺は彼女を紹介した。彼女が家にいるときは大したことは言ってこなかったが、帰ると質問攻めにしてきた。


 どこで会ったか。どんなメッセージのやりとりをしているのか。いつから好きになったのか。どちらから告白したのか……――なんて、事細かに、しつこいくらいに。スリーサイズまで聞かれたが、ちょっとそれはわからない。いや、バストサイズは知ってるけど、親になんて言いたくないし。


 なにはともあれ、桜子ちゃんとの交際は、一応は認めてくれたみたいだった。良かった良かった。


 夕方頃に、また学校からの連絡メールが来た。例の露出狂についての情報で、文面は過去と変わらない。しかし、桜子ちゃんが被害に遭っていないのは確かなことだった。その時間帯、彼女は俺と一緒にいて、彼女が俺の家を出たのは露出狂が取り押さえられたあとのことだったから。


 四月七日の露出狂は回避した。あとは九月一日に、彼女が自殺しなければいい。そこから来年の四月一日まで生きられれば、「死にやすい」呪いは解けるはずだ。


 彼女のクラスでのいじめ。バイト先でのセクハラ及びパワハラ。学校での性的暴行に、母親にやらされる援助交際。虐待なんかもすべてひっくるめて、俺が回避させてみせる。


 九月に笑って生きる彼女に会うため、俺は決意を固くした。

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