第77話 おそろいの傷

 あれから俺は、たびたび桜子ちゃんの家を訪ねるようになった。いったいどんな関係で女の子の家に泊まったりなどしているのか、母さんから厳しく問い詰められた。


 いまのところは、「仲がいい後輩ちゃん」だということにしている。完全に納得してくれたわけではないようだが、「付き合うことになったら紹介するから」ということで逃げている。


「好きな人、できたの?」との質問に頷くと、母さんは目に涙を浮かべていた。俺に恋なんてできないと思っていたのだろう。気持ちはわからなくない。


 桜子ちゃんは、受験勉強をよく頑張っていた。友だちやクラスの話をすることは相変わらずなかったが、リストカットはしなくなった。


 秋頃に、俺は宝くじを当てたりした。巻き戻る前の時空と当選番号は変わらなかったらしい。何かあったときに彼女を助けたり支えたりするのに使える、それなりの額の金を手に入れた。競馬や株は、父さんにたまにアドバイスをして、不自然でない程度に当ててもらった。


 前からそこそこの生活をしていた我が家だが、金を得たことで、生活の質がさらに向上した。細かなところで前よりは贅沢をするようになったけれど、無駄遣いというほどの粗い使い方はしていないと思う。


 ひとり暮らしをしていた姉貴は、自分の稼ぎにそのお金をプラスして、ちょっとお高いマンションに引っ越した。実は少し前からストーカー被害に悩んでいたらしい。過去二回の時ではそんな話聞いていなかったから、驚いた。姉貴が平穏に暮らせるようになったなら、当てた甲斐がある。まあ、俺が努力したわけでもないけれど。



 そして、冬。いよいよ桜子ちゃんの高校受験の時期がやってきた。彼女は近所の県立高校が第一志望だが、俺が通っている私立高校も併願推薦で受けることにしていた。


 [明日、薫くんの高校の受験するよ!]

 [頑張ってね。応援してる]

 [いい報告する予定だから、期待しててね]

 [うん。期待しとくよ。今日は早めに寝てね]

 [はい! じゃ、おやすみなさい]

 [おやすみ、桜子ちゃん]

 

 そんなメッセージのやりとりをして、俺も就寝した。明くる朝にも、彼女を応援するメッセージを送った。


 入試の日は、手伝いに参加しない在校生は、自宅学習日になっている。俺は桜子ちゃんの入試がうまくいくことを祈りつつ、だらだらと過ごした。せっかくならボランティア参加して、桜子ちゃんのこと探してみたりしても良かったかな。なんて、いまさらながらに考えてみたりする。


 数日後、桜子ちゃんから『無事に合格しました!!』というメッセージが来た。俺は祝福のメッセージを送って、彼女の今度の公立高校入試もうまくいくことを願った。


 そこで、ふと疑問に思う。


 あんなに勉強を頑張っていて、実力テストの点数も合格圏内だった桜子ちゃんが、公立高校の入試に失敗するのだろうか、と。もちろん油断大敵で、いくら普段の成績が良くたって、入試でうまくいかないこともあるとは理解している。


 過去二回の桜子ちゃんは、俺と同じ高校に通っていた。つまり彼女は、公立高校には合格できなかったということになる。


 今回は、どうだろう。俺と一緒に勉強したから、合格の可能性は上がっているのだろうか。一緒の高校にならなかったら寂しくはあるけれど、彼女をいじめて自殺に追い込むやつがいたような高校だし、第一志望の公立高校に行ければいいのになと思う。


 しかし残念ながら、そうはいかなかったみたいだった。


『もしもし。かおる、くん?』

「あ、桜子ちゃん。こんばんは。……どうした?」


 公立入試の日の夜。桜子ちゃんが電話をかけてきた。スマホ越しに聞こえた声は、泣いていた。


 合格発表前に結果を察せてしまうくらい、手応えが悪かったのだろうか。俺から聞くのもどうかと思い、彼女が話してくれるのを待つ。しばらく泣いているだけだった彼女が、震える声で言った。


『にゅ、入試、受けられな、かった』

「……え?」

『ケガ、しちゃって。できな、かった』


 怪我をして、入試を受けられなかった。予想外の回答に、理解にしばし時間がかかった。


 彼女は今、怪我をしている。彼女は今、悲しんでいる。それらを理解したあとで、俺は尋ねた。


「桜子ちゃん。今、家にいる?」

『うん、いる』

「そっち行っていい? 会いたい」

『いい、よ』

「じゃあ、今から行く。待ってて」


 今は夜の七時過ぎ。男子高生が出歩いても、特に咎められるような時間帯ではない。社会的には問題ない。


 上着を羽織って、フードを被る。不織布のマスクをつける。鞄を掛けて深呼吸して、家を出た。


 電車に乗ったあと、『ちょっと友だちの家行ってくる』と家族のトークルームにメッセージを入れる。母さんに怒られるかもしれないが、今はそれどころじゃない。


 駅からは走って彼女の家まで向かった。桜子ちゃんのことが心配だった。


 インターホンを押すと『はぁい』という声がして、桜子ちゃんが顔を出す。彼女は目元を赤く腫らしていて、ずっと泣いていたことが見てとれた。


「こんばんは、桜子ちゃん。お邪魔するね」

「うん。こんばんは、薫くん。どうぞ」


 彼女がぐすぐすと鼻をすすりながら、俺を迎え入れる。部屋はいつもより荒れていた。


「ごめんなさい、散らかってて。片付け、できてなくて」

「いや、大丈夫。……桜子ちゃんは、大丈夫? 怪我したって言ってたし、心配した」


 桜子ちゃんは「心配してくれて、ありがとう」と言って、かすかに微笑む。羽織っていたカーディガンの袖をまくると、両腕に包帯が巻かれていた。怪我をしたのは腕だったらしい。


「朝ね、お母さんが、帰ってきたの。酔ってて、暴れて、大変だった。それで……なんでか、今日に限って、ナイフで腕切られちゃって。お母さんがお金置いて出てったから、病院は行けたけど……入試は、無理だった。行っても遅刻で受けれない教科もあるし、縫合してもらっても、すぐに字が書ける状態じゃなくて。……悔しい」


 彼女が流す涙の量が、ぶわっと増えた。ぼろぼろとあふれさせて、床の上にしゃがみこむ。


 スカートをめくりあげて逃げていった、あの日の彼女を思い出させる姿だった。弱くて脆くて、可哀想で……可愛い。


 とくん、と心臓が鳴った。愛おしくて愛おしくて、すぐにでも抱きしめてしまいたかった。


「俺、さ」


 愛の告白をするときかのように、心臓が強く速く脈打っている。声がほんのすこし掠れた。


「こんなこと言っても、慰めにはならないと思うんだけど。ごめん、わかってるんだけど……俺も、腕に傷があるんだよね」

「へ?」

「中学のとき、部活仲間にカッターで切られたことがあるんだ。ほら、これ」


 彼女に腕を見られたことが、過去にないわけではない。初めて夜をともにした日、仄暗いなかで確実に見られた。


 でもこれは、そのときとはちょっと違う。秘密を明かして、彼女の目に焼き付けたい傷だった。


 上着を脱いで、下に着ていたシャツの袖をまくる。彼女のそばにしゃがみこみ、見せる。


 両腕に残る古傷。部活仲間にカッターで切られた。色恋沙汰で嫉妬された結果だ。青柳 明穂という女が関わってできた傷だ。


 君と同じように、俺もあの女に傷つけられたんだ。


「もう塞がってるし、普段はそんな目立たないと思うけどね。……おそろい? まあ、こんなのじゃ嬉しくないか」

「……かおる、くん」


 彼女が目を丸くして、俺を見上げる。「さわっても、いい?」と聞かれた。頷いた。彼女が撫でる。優しく触れる。ぞくぞくとして、甘かった。


「切られたとき、痛かった?」

「うん、痛かった」

「病院行って、縫合とかした?」

「した。ちょっと怖かったね」

「……薫くんも、一緒なんだ」


 とくんと跳ねて、再びときめく。彼女の言葉が嬉しかった。笑いだしてしまいたいほどに。


 傷痕に口づけが落とされ、彼女の涙でほんのりと濡れる。甘美な心地よさを感じさせられた。酩酊するような、って、たぶんこういうことを言うんだと思う。


「薫くん。愚痴、吐いてもいい?」

「うん。いくらでも」

「――悔しい。つらい。痛かった。なんでこんなことに、って、めっちゃムカつく。入試の日に限ってこんなことになるなんて、意味わかんない」

「うん、そうだよね。桜子ちゃん、勉強頑張ってたもんね」

「なんでお母さんは、私のお母さんなんだろうとか、思った。もう会いたくないなって、思った。……でもね。薫くんが来てくれて、嬉しかったよ。傷のことも、ちょっとだけ、嫌じゃなくなった」

「うん、そっか。なら、来て良かったのかな」

「うん。来てくれて、ありがとう。あと、勉強。今までいっぱい教えてくれて、ありがとう」

「どういたしまして。――お疲れさま、桜子ちゃん。受験勉強、いっぱい頑張ったね」

「……うん。ありがとう」


 ほろりと涙をこぼしたあと、彼女は「高校でも、よろしくね」と言って笑った。深いことは考えずに、俺も「うん、よろしく」と答えた。


 彼女としばらく話したあと、俺は自分の家へと帰った。案の定、母さんに叱られた。唇が勝手にニヤニヤしていたせいで、余計に怒らせてしまったと思う。


 彼女と傷を共有できたことが、嬉しかったんだ。

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