第76話 恋人だった頃の君を想う −後−
「それ、リストカット?」
「え」
声と同時に、彼女が目を開ける。夢から覚めたように、先程よりも怯えたような顔で、俺を見る。
ああ、やっぱり、彼女が好きだ。幸せそうに笑ってほしいとは思うけれど、こんな表情も好きなんだ。
小さな顔も、低めの背も。長い黒髪も、色白の肌も。頬も、唇も。やわらかくて、あたたかい、この体のすべてが、愛おしい。
「薫、くん……?」
「リスカ。なんでしてるの? なんか悩みある?」
「薫くん、なんか変だよ。なんで、そんな怖い顔――」
「怖いのは、俺のほうだよ。なんか相談したいことあったら、勉強以外でも言ってよ」
「おこっ、てる。の……?」
「桜子ちゃんには、怒ってないよ」
本当に、桜子ちゃんには怒っていない。こんなにムシャクシャとするのは、自分自身のせいだ。
どうしても、恋人だった頃の桜子ちゃんを忘れられない。今の彼女を通して俺が見ているのは、二回目の彼女の幻影だ。
怒りの対象は、俺だった。過去二回の彼女を救えなかった俺への怒り。そして今の彼女を助けることもうまくできていない、俺への怒り。
たしかに、リストカットをしているからといって死ぬわけではない。前回の彼女だって、死にたいからしているわけではないと言っていた。俺が知らない頃の彼女だって、したことはあったのだろう。俺は彼女のすべてを知っているわけではない。
けれど俺の知るかぎりでは、彼女は何か嫌なことがあったときに、自らの肌を切ってしまっていた。リストカットには理由があった。しているということは、今の俺が彼女の問題を解決できていないということを意味する。
俺は、彼女が抱える闇を知りたい。彼女を苦しめること、追い詰めることが何なのかを知りたい。解決しなければ、彼女はまた命を絶つかもしれない。
まだ、彼女は呪われていない。まだ死にやすい時期ではない。それでも、できるところから対策していかないと、気が済まなかった。何もしないでいたら、俺の気がどうにかなってしまいそうだった。
だから、俺が桜子ちゃんを助けたいと思って行動するのは――結局は、ただの自己満足だ。俺が彼女に生きていてほしいという、我儘だ。
「桜子ちゃん。……勉強が、つらい?」
「受験勉強は大変だけど、行きたい高校に合格するためだから、頑張れてるよ」
「じゃ、やっぱり、クラスで嫌なことある?」
「ただ……ただ、友だちがいないだけだよ。別に、ひとりでも、平気だよ」
「嫌なことは、ある?」
「ある、けど。でも、みんな、嫌なことあっても、頑張ってるから。桜子だけが、嫌なこと我慢してるんじゃないよ」
「その嫌なことは、俺には教えられない?」
今の俺の姿を昨日の俺が見たら、ぶん殴っていたことだろう。距離感もへったくれもなく、ズケズケと踏み込んでいる。
今日は、単なる勉強会の予定だったのに。彼女から触れてきたとは言え、こんなふうに腰を抱いて、見つめあって。年上の威厳なんかありゃしない。
「かお、薫っ、くん、は。……こんな、桜子のこと、キモいと、思わないの?」
「キモいって、何が? そんなこと思うわけないじゃん」
「桜子ね、たまに学校でも、自分のこと『桜子』って、言っちゃうの。それが『キモい』って。『変』だって。あとね、桜子、ちょっと優しくされただけで、すぐ嬉しくなってヘラヘラしちゃうから……そういうのも、駄目みたい。『友だちなんて思ってない。あんなのただのパシリじゃん』だって。……えへへ。桜子、人と仲良くなるのも苦手なんだぁ」
黒い瞳にうっすらと涙を浮かべて、彼女は笑った。クラスでなんとなく浮いていて、陰口も叩かれている、ということだろうか。思っていたほど深刻ではなさそうだが、本人にとってはつらいはず。過去の性的嫌がらせよりは酷くなくても、彼女が傷ついていることは変わらない。言葉にして比べてはいけない。
「桜子ちゃんはさ、なんで自分のこと『桜子』って言うの? あ、それが駄目とかじゃないよ。ただ気になっただけ」
「……家では、ひとりぼっちで、学校でも、友だちいないから。名前、誰も呼んでくれないの。ちっちゃい頃は、こうじゃなかったんだよ? パパもママも、桜子の名前呼んでくれた。でも、今は……薫くん以外、呼んでくれないから。私が、自分で呼ばなきゃ駄目なの。自分が本当に生きてるのか、誰なのか、わかんなくなっちゃう」
「そっか、うん。……わかった」
これでは、まだ完全ではないだろう。それでも彼女が苦しんでいることについて、多少は知ることができた。めそめそと泣き出した彼女の頭を撫でて、どうするべきか考える。
桜子ちゃんは、たぶん愛に飢えている。言葉遣いが幼い感じなのは、幼い頃の自分のほうが愛されていたという自覚があるからかもしれない。
しかし愛されたくて生まれた彼女のキャラは、クラスメイトにはなかなか受け入れてもらえず、彼女は浮いた状態となっている。陰口や孤独によってさらに傷つき、彼女は心の痛みを誤魔化すために、手首を切ってしまった。――というところか。
とりあえず、リストカットはやめさせたい。傷のある彼女も好きだけど、彼女がそれで後悔するのは嬉しくない。
無理にやめさせるのは良くないと聞く。でも放置して、癖にさせるのも良くないだろう。二回目の彼女はかなりボロボロだったが、今の彼女の手首には浅い傷しかついていない。切りはじめたばかりだろう。やめるなら、早いほうがいいはずだ。
俺が彼女に愛を与えることは、できる。それで満足してくれるかはわからないし、いつでも一緒にいられるわけではないけれど、彼女の孤独感を少しは埋めることができるはずだ。
彼女が震えた声で、「薫くん」と呼んだ。俺は「ん?」と答える。儚くキレイな声に誘われた。
「今日は……お泊り、してくれる? うち、何もないけど。あげられるものも、ないけど……。ひとりは、寂しいよ」
「メッセのやりとりはしてたけど、俺ら、会うのはまだ二回目だよ?」
「二回目でも、なんでもいい。一緒にいて。寂しい。もう、ひとりじゃ、やだ……」
ぽろぽろと涙をこぼして、彼女は俺にしがみつく。距離を置こうとする台詞をいくつも吐いておきながら、こういうところでは、彼女を押し退けられなかった。
今の桜子ちゃんが俺に求めているのは、きっと恋人関係ではない。ただ単に、ひとりぼっちが寂しいから、唯一優しくしてくれた「薫くん」に頼っているだけなのだ。そう、わかっている。
だから手を出してはいけないし、性的な接触はしないほうがいい。ただ手に触れたり、ハグをしたり、そういうところで止めておかなければならない。
「わかった。いいよ」
軽い口調で、彼女の願いにイエスの答えを出した。このあたりから、もう堕ちはじめていたのだと思う。
二回目の彼女とお泊りデートをするときは、母さんに嘘をついた。陽一の家に泊まりに行く設定にしておいた。
今回は、すでに女の子の家に行っていることまではバレてしまっている。あとで連絡は入れるつもりだが、面倒なことになるかもしれない。
「薫くん、ほんとにいいの?」
「うん。とりあえず、もうちょっと勉強しよっか。そのあと買い物行きたいんだけど、桜子ちゃんも一緒に行く?」
「うんっ! 行くます! 勉強がんばる!」
彼女の黒い瞳が、キラリと輝く。嬉しそうにした顔が、本当に可愛かった。
ふたりで食材などを買ったあと、一緒に簡単なごはんを作って食べた。お風呂は一緒に入るかと聞かれたが、それはしっかりと断った。
「薫くん、寝ましょう?」
「……うん、そだね」
「どうぞ、おいでください!」
桜子ちゃんは布団をぽすぽすと叩いて、隣に来るようにと催促した。一緒に寝るつもりらしい。
同じ布団に入ったからといって何か起こりはしなそうだが、俺は、前に彼女と一緒に眠ったときのことを思い出してしまいそうだ。未完成で、でも一番密接だった触れあいのときを。
「薫くん? 寝ないの?」
「いや、寝るよ。お邪魔します」
「はい、いらっしゃいませ!」
桜子ちゃんはにこにこ笑って、隣に行った俺に布団をかぶせた。彼女から香るシャンプーの匂いとか、お風呂上がりって感じの肌の匂いとか。そういうのを、よく感じさせられた。
「ふへへへ、嬉しい」
「なにが?」
「ひとりぼっちじゃなくて、嬉しい。ありがとう、薫くん」
「どういたしまして」
「手、繋いでもいい?」
「うん、いいよ」
彼女は、あまりにも無邪気に、楽しそうにしていた。あの日の彼女のことを思って、俺が悲しいような気持ちになっていることには、微塵も気づきはしないのだろう。
彼女の小さな手が、俺の手を包んだ。あたたかくて、愛おしい。
「おやすみなさい、薫くん」
「うん。おやすみ、桜子ちゃん」
俺から彼女に触れることは、なんとなくできなかった。触れたら、止まれないような気がしたから。
彼女はすぐに、すやすやと寝息を立てはじめた。穏やかで、幸せそうで、どこか子どもっぽい吐息。
「好きだよ、桜子ちゃん」
思わず呟いた言葉が、今の彼女に向けられたものなのか。それとも、記憶のなかの恋人だった桜子ちゃんに向けられたものなのか。自分でもよくわからない。
俺は桜子ちゃんの寝顔をしばらく見つめていたが、いつの間にか眠っていたらしい。気づいたら朝になっていた。スマホを見て、今日が日曜日で良かったな、と思う。
桜子ちゃんが起きたあと、一緒にごはんを食べたり、勉強を教えたりとして、俺は昼頃に自宅に帰った。お泊りを経て、彼女との距離が縮まったような気がした。
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