第75話 恋人だった頃の君を想う −前−

 あれから桜子ちゃんとは、毎日トークアプリでメッセージのやりとりをする仲になった。「おはよう」とか「おやすみ」の挨拶はもちろん、SNSで見たおもしろ動画を送り合ってみたり、しりとりをしてみたり、くだらないことを話したりと、いろいろな会話をスマホの画面上でした。


 九月になって学校が始まると、学校関連の話が多くなった。ふたりともいろいろな話をしたけれど、桜子ちゃんからとある話題が出てこないことに、俺は気づいた。


 桜子ちゃんは、今日の授業で何を学んだかとか、今日は先生がこんな面白いことを言っていた、とかは教えてくれるけど、クラスメイトや友だちの話はまったくしないのだ。

 

「クラスはどう?」と聞いてみても、「普通です」「まあまあです」などと短い返事しかしてくれない。中学生のときも、クラスでうまくいっていなかったのだろうか。


 これまで出会った高校生の彼女は、今の中学生の彼女よりも、暗くて影のある雰囲気だった。彼女が変わったのは、中学で何かつらいことがあったからかもしれない。それは同級生と関連することで、もしかしたら――彼女は中学でも、いじめられたりしていたのかもしれない。


 彼女が抱えるつらいことを、俺が全部消し去ってやりたい。今度こそ、彼女を死なせないようにしたい。


 今の桜子ちゃんもだいぶ俺に懐いてくれているとは思うが、どこまでなら許されるのだろう。なまじっか二回目の彼女と交際をしていたときの記憶があるので、俺にとっては普通の距離感でも、彼女には近すぎるかもしれない。どの程度の距離で接すればいいのか。それが難しい。


 俺は彼女との距離感をはかることに苦戦しながら、メッセージのやりとりを続けた。メッセージだけでは、やはり彼女の隠そうとしている学校生活のことまでは知ることができなかった。


 ある日、俺は彼女との距離を縮めるチャンスを得た。受験勉強がうまく進まずに困っているという彼女に、直接会って勉強を教えてあげることになったのだ。


 ふたりで相談した結果、勉強会の場所は彼女の家にすることに決まった。そうして俺はまた、フードとマスクで身を守り、彼女の家を訪れた。


「薫くん、いらっしゃい! あれ? 風邪?」

「いや、全然元気。あー……、あれだ、風邪の予防!」

「そっか、まだ秋なのにえらいねぇ。冬はインフルとか怖いから私もつけるけど。洗面所こっちだよ」

「ん、ありがと」


 手洗いうがいをしてから、リビングへと向かう。


「薫くん、数学教えてほしいな」

「うん、いいよ。どこがわかんないの?」

「あのね、この図形のやつ。桜子、数学みんな苦手だけど、図形が特に苦手」

「ああ、これね。コツ掴めば簡単だよ。三角形の合同条件とか、そういうのは覚えてる?」

「覚えるのまでは、できる。でも問題がうまく解けない……」

「おっけー。任せて。俺がちゃんと解けるようにしたげる――」


 桜子ちゃんは、数学が苦手だ。それは二回目の彼女と過ごした日々で知っている。


 ノートに書く字の綺麗さは、今の彼女もあまり変わらない。幼い感じの言葉遣いには、まだやや違和感があるけれど、可愛らしいので俺的には問題ない。


「――薫くん、さっすが。わかりやすい!」

「そう? ありがと」

「ふへへっ、薫くん。大好きっ!」


 満面の笑みでそう言って、彼女は俺に抱きついてきた。付き合ってもないのに、なかなかな接触をしてくるものだ。


「お、れも。まあ、好きだよ」

「ほんと? 桜子のこと、好き?」

「うん。好きだよ」

「やったぁ、嬉しいー」


 桜子ちゃんが、俺の体に顔を擦り寄せる。手懐けられた猫のようだ。俺が距離感を気にしているのが馬鹿みたいに思えるくらい、彼女は俺にベタベタと甘えてくる。


 触られて悪い気はしないが、恋人でもない男にこんなふうにするのは、少しばかり危険ではなかろうか。調子に乗られて、もっと先まで求められたらどうするつもりなのだろう。俺は彼女の肩を軽く叩いて、声を掛けた。


「あの、桜子ちゃん? ちょっと、距離が近くないかな?」

「へっ? ――あっ、ごめんなさい!」


 桜子ちゃんは我に返ったように、すばやく俺の体から離れた。手を中途半端に浮かせたまま、怯えたような表情を見せる。


 別に怒ったり怖がらせたりするつもりはなかったのだが、失敗しただろうか。彼女がしゅんとした様子で、小さな声で俺に問いかける。


「ごめん、なさい。……嫌、でしたか?」

「ううん。まったく嫌じゃないけど。なんか、びっくりしたかも」

「あの、ごめんなさい。か、薫くんが、優しいから、嬉しくて。ごめんなさい。こんな、ことして」

「いや、そんな謝んなくていいんだけどさ。……ちょっと、いいかな?」


 俺って悪いやつだな。と、ふと思う。


 彼女にこうして触れられて、戸惑いながらも嬉しいと思っている。彼女なら、怖くなかった。嫌悪しなかった。


 恋人として過ごした日々を、俺だけが覚えている。彼女を女として、恋愛対象として見ている。キスの感触も、彼女から強請られる喜びも、俺だけが知っている。女の子に好かれたいと、そう思ったのは彼女に対してが初めてだ。やっぱり彼女は、俺の特別だった。


 小さな子どもを騙しているような気分だ。何も知らない彼女との触れ合いで、俺は過去の彼女を思い出す。失われた日々を、求めてしまう。


 先程離れた彼女の体を、そっと抱き寄せた。頭を撫でて、彼女を俺の胸元にもたれさせる。愛しい恋人は、ゆっくりと眠るように目を瞑った。


 俺がちらりと視線を向ける先は、左の手首。やはり、そうか。見間違えではなかったか。


 彼女の左手首には、また、細く赤い傷があった。


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