第73話 花咲 薫の過去の傷 −前−
二回目の桜子ちゃんの死因の話や青柳の証言なんかを聞いてから、過去のことを鮮明に思い出すようになった。昔のことをよく夢に見るようになった。
それで今では、実は人の視線が怖い。女性というものが怖い。だから桜子ちゃんを探しにいくとき、パーカーのフードを被ってマスクをつけていった。誰かに顔が見られないように。俺が「花咲 薫」という人間であることを、知られないように。
小さな頃から、よくモテた。親も姉貴も親戚も、俺をめちゃくちゃに可愛がっていた。
小さな子どもっていうのは甘やかされがちなんだと思うけど、俺に対するのは、たぶん度を超えていた。みんなの目が、なんか違う。そんなことを昔から感じていた。
幼稚園でも女の子に好かれてて、誰が俺と一緒に遊ぶかで、喧嘩が起きることもしばしばだった。担任の女の先生は、俺の世話にやたらと熱心だった。ごはんを食べるのとか、服を着るのとか、できるのによく手伝ってきた。
この頃までは、まだ苦痛ではなかった。
小学校に入ると、女の子からの「好き」が「恋心」なこともあるのだと知った。母さんや父さんは「おませさん」とか言ったけど、当の本人は真剣に恋をしているつもりだったんだろうな、と思う。
一年生の頃から、ラブレターは何枚ももらった。そこに書かれた字はたいてい俺のよりもキレイで、内容よりもそこに感心していた。バレンタインチョコもたくさんもらった。告白ももちろんされた。まだよくわからないから、と全部断った。
学校では、持ち物がよく消えた。えんぴつは毎日減っていて、他には名札や赤白帽や体操服がなくなった。たしか体操服は、一年生のうちに新しいのを三枚も買う羽目になったと記憶している。
帰り道、女の子が何人もつきまとってきたことがあった。走って逃げて帰宅した。それでも家はバレたようで、切手も差出人名もないラブレターが数日後に投函されていた。
男の子には、石を投げつけられたことがある。信号待ちをしていたら、背中を押されたことがある。仲良しのやつもけっこういたけど、一部は俺のことがすごく嫌いみたいだった。
小学二年生の春頃、攫われかけた。
つきまとわれたりするのが嫌で、ひと気が少なめのところを通っていた帰り道。いきなり誰かに抱えられて、気づけば車に乗っていた。めちゃくちゃ怖かった。
このとき助けてくれたのは、当時中三だった姉貴だった。俺は直接見てないから詳しくはわからないけれど、姉貴は俺の乗せられた車を自転車で追いかけて、わざと衝突事故を起こしたらしい。あのときの音と衝撃は俺も覚えている。
姉貴は中学からの帰り道で、俺が車に乗せられたところを偶然見かけた。本当に奇跡だと思う。そこからの行動は早かった、らしい。
一緒にいた友だちに、警察に通報することを頼んだ。自分は、近くをのろのろと走行していたご老人に自転車を借りた。そこから車を追いかけて、通りで突っ込んだ。
俺を乗せた車は、当て逃げした。でも事故のおかげでナンバーを覚えていた人と通報した人が何人かいて、無事に警察がやってきた。そうして犯人は捕まり、俺は保護された。姉貴は救急車で搬送されていた。
「あっ、薫ー。大丈夫? 怖かったねぇ」
「……雪美姉ちゃん」
俺も病院で診てもらったけど、特に何ということはなかった。無理やり乗せられたときに転んでぶつけただけ、泣きすぎて声が枯れただけ。姉貴と比べたら、全然元気だった。
姉貴は顔に擦り傷があって、手と足が包帯でぐるぐる巻きだった。骨が折れたらしい。アクロバティックな馬鹿姉だ。本当に馬鹿だ。
「姉ちゃん、ごめん。絵――」
「んなこと、どうでもいいよ。薫のほうが大事だ」
姉貴はきっぱりと言って笑った。中学で美術部に入っていた姉貴は、最後のコンクールに向けた絵を描いているところだったのに、事故で手を怪我したせいで描けなくなった。俺のせいで、描けなくなってしまった。「どうでもいい」はずないのに、絵が大好きな姉貴は、俺のせいで笑った。
俺は小学校に行かなくなり、家でプリントを解くばかりになった。心配した母さんが、家から出してくれなくなったのだ。
姉貴が退院したあとに、引っ越しと転校をした。姉貴は今まで仲良しだった友だちと一緒に中学を卒業することもできず、修学旅行も行けず、散々だった。
俺を攫おうとしたのは、近所に住んでいた女の人だった。特に親しくもないおばさんだ。俺が『可愛いから』『遊んであげようと思って』誘拐しようとしたらしい。ちなみに姉貴がご老人に借りた自転車はぶっ壊れたので、親が弁償する羽目になっていた。本当に散々だ。
転校先でも俺はモテたけど、友だちはうまく作れなかった。攫われかけたあとから、家族以外の人に体を触られると泣いてしまうようになっていた。『泣き虫くん』とよく呼ばれてた。
「やーい、泣き虫くん。大丈夫か?」
「なんだよ、お前」
「お前の靴、鯉の池のとこに落っこちてた。拾ってきたんだけどビショビショでさ、どうしよう? 新聞紙詰めとけばいっかな?」
「……お前、誰だっけ」
靴が見つからなくて、帰れずに教室の隅で泣いてたら、ひとりのクラスメイトが話しかけてきた。片手に俺の靴を持っていて、ポタポタと水が垂れている。
クラスメイトは、ニカッと笑った。
「河本 陽一。お前さぁ、クラスメイトの名前くらい覚えろよ。いつまで経っても友だちできねぇぞ?」
「別に、友だちなんていらない。それにお前だって、俺のこと『お前』と『泣き虫くん』としか言わないじゃん」
「――じゃあ、花咲 薫くん?」
夕日の差す教室で、彼を見上げた。彼はとても眩しかった。
「って、『薫くん』なんて俺らしくねーな。なんかキモい。ハナでいい? 二文字のが呼びやすいんだけど、カオにしてもオルにしても、なんか変だもんなー」
「なんで、俺にかまうんだよ」
「んなことよりさ、新聞紙取りたいからそこ退いてよ」
俺の背後にあったクラスの共用ロッカーから、河本 陽一は新聞紙を取り出した。床に敷いて置き場を作り、靴のなかにも詰めていく。
これでよし! という感じで頷いたあと、俺の隣であぐらをかいた。
「てか、なんでとかどうでもよくね? お前さ、きょうだいいる?」
「姉ちゃんがいる」
「え、何才っ? かわいい?」
「今、十四才。中三。めっちゃかわいい」
「ほーん、そうなんだ。姉ちゃんのこと好き?」
「うん」
「今度会わせてよ、かわいい姉ちゃん。姉ちゃんの名前は?」
「雪美」
「もしかして冬生まれ?」
「十二月」
「ああ、やっぱりなー」
「……お前、なんで姉ちゃんのことばっか聞くんだよ」
「え、なんか聞いてほしいことあった? じゃ、ハナって靴のサイズいくつ?」
「19」
「俺は20。やった、俺の勝ち!」
「そのうち抜かすし」
「おう、がんばれ」
「がんばってデカくなるもんでもないけど」
くだらない話をし続けて、外がだんだんと暗くなってきた頃。俺は生乾きの靴を履いて、彼と一緒に下校した。帰りが遅くなったことを、母さんにひどく心配された。なんでもないから大丈夫、友だちと遊んでただけ。と俺は笑った。
それから、俺は陽一とはそこそこに仲良くなった。彼のおかげで人との関係に慣れることができて、他の人ともちょっとずつ仲良くなれた。
陽一はあれでいて意外と配慮をしてくれるやつで、俺に無闇に触ってこようとはしなかった。少しずつ、少しずつ、俺は日常を取り戻した。人に触られても泣かなくなった。
俺が「泣き虫」でなくなると、女の子から話しかけられることが多くなった。男子と比べると苦手意識はあったけど、まあそれなりに話せていた。
バレンタインチョコを、二年生でもたくさんもらった。三年生でもよく告白されて、同様のバレンタインがやってきた。
再び悪意に襲われた。
「いだっ」
もらったものを食べていると、舌に鋭い痛みを感じた。チョコレートとは少し違う、ぬるりとした感触と生臭い血の味がする。
異物を口から吐き出すと、四角い銀色の何かだった。手で触るのは怖いから、箸でつまんで洗ってみる。
それは、鉛筆削りの刃だった。
「薫、どうした?」
「ね、えちゃん」
シンクのそばで立ちすくむ俺に、姉貴が話しかける。ひょっこりと覗き込んで、訝しげな顔をした。
「なに、これ」
「チョコのなかに、入ってた」
「怪我したの?」
「口のなか切ったっぽい。でも、たぶん大丈夫」
「――もらったやつ、全部捨てな。他のもなんか危ないかもしれない。姉ちゃんとママからの以外は、食べちゃ駄目」
「うん、わかった。……あのさ、母さんには、言わないでくれる? 心配させたくない」
姉貴は数秒の間を空けてから、うん、と頷いた。俺は姉貴に迷惑ばっかりかけていた。
「薫、その怪我なに?」
「……もらった手紙開けようとしたら、中にカッターの刃が入ってて」
「また、ママには言うなって?」
「うん、言わないでほしい。……ごめん」
「わかった。姉ちゃんには、なんかあったら言ってね」
「ありがと、姉ちゃん」
これは、小学四年生の春のこと。切れたのは親指で、別に大した怪我ではなかった。
そして、その年の九月。俺は数名の女子高生に絡まれて、公園のトイレへと連れて行かれた。勢いに圧されて断れなかった。
怖くてなんだかよくわからなかったけど、たぶん性的な遊びのお誘いをされていたのだと思う。近くで迫られたとき、前の誘拐未遂のことがフラッシュバックした。
過呼吸になって、吐いた。「キモい」とか「最悪」とか言われた。罵詈雑言が飛ぶ。
女子高生がいなくなったあとで、男子トイレに行って口をゆすいで、吐瀉物で汚れたTシャツを水洗いした。外に出て、壁にもたれてしゃがみこむ。ぐちゃぐちゃに丸めたシャツを握りしめて嗚咽した。
「……薫」
聞こえた声に顔を上げたが、涙のせいで見えはしなかった。でも、誰なのかはもちろんわかる。雪美姉ちゃんだ。
「姉貴、なんでいんの」
「あんたこそ、どうしたのよ。具合悪い? 救急車呼ぼっか?」
「いや、いい。大丈夫」
「……ママに、まだ言わないの?」
「うん、言わない」
姉貴は泣きそうな顔をしていた。俺が落ち着いた頃、一緒に帰宅した。
その何日かあとから、姉貴の雰囲気がどこか暗くなった。俺は絡まれた日から、マスクをつけないと外に出られなくなった。
五年生のある日、登校中に知らない女の人に抱きつかれた。怖くて逃げた。下校中、すれ違いざまに太腿をナイフで刺された。うずくまっていたら、誰かが通報してくれて、救急車で運ばれて……もう、人生に疲れたな、なんてことを車内で思っていた。
「薫、なんで今まで言わなかったの……っ」
「ごめん、母さん。……ごめん」
母さんに、いよいよバレた。姉貴がとうとう包み隠さず話したのだ。ここまで来れば、仕方ないかなとは思う。なぜか姉貴が怒られてた。
何日か入院はしたけれど、命に別状はなかった。また学校に行けなくなった。それから母さんは、俺に対して過保護だ。ずっとずっと心配性だ。
家に帰ると、姉貴の黒髪が金髪になっていた。高校に行かなくなっていた。いろんな男と遊び歩いていると、本人から聞いた。母さんや父さんが怒っていたけれど、姉貴はそんなの聞いたことじゃない様子だった。
姉貴は俺の前で、すべてを諦めたような顔で笑ってた。美大を目指していたはずなのに、予備校に行くのもやめて、きっぱりと絵を描かなくなった。小さなイラストさえも。
姉貴は大学を受けることなく、高校卒業後の一年間、どこかに消えた。
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