第72話 お菓子も、優しさも、名前も −後−

「ジュースとパンとお菓子も買った。なんか食べる?」

「お菓子あげるから、桜子にいたずらしたいってこと?」

「いや、違うけど。今ハロウィンじゃないし、だとしても何かおかしいでしょ」

「うん、そっか。桜子、あんまりお菓子食べたことないから、よくわかんない。えへへっ。桜子、あんまり頭も良くないの。変な子で、ごめんね」

「俺、そんなこと思ってないよ?」


 本当に変な子だとは思っていない。俺が知っていた彼女より、今の彼女は明るくてよく笑うな、とは思って驚いているけれど。


 今の彼女と前に知っていた彼女とでは、違うところがかなりある。けれど一歩間違えたら壊れてしまいそうな儚さや、寂しそうな姿。悲しそうに笑うときの顔は変わらない。


 一人称がときおり「私」ではなく「桜子」になるのには、何か理由があるのだろうか。人の喋り方についてわざわざ細かく尋ねるのも、おかしいだろうか。


 どこまで聞いていいかわからない。深入りしていいのか。変に勘繰ってもいいのか。警戒されずに仲良くできるのは、どこまでだ。


 考えてみてもよくわからないから、俺はとりあえずお菓子をあげることにした。


「んー、じゃあ、俺の好きなお菓子食べてみる? 俺はチョコレートがけっこう好き」

「じゃ、食べるます」

「どうぞ」

「ありがとう、ござります」


 ちょっと変な丁寧語で頷いて、彼女が俺の手からチョコレートをいくつか受け取る。カラフルな砂糖でコーティングされた、小さな丸いチョコレートだ。


「美味しい、です」

「そっか、良かった」

「……薫くん」

「ん?」

「ありがとう」


 食べながら、彼女はぽろぽろと泣きはじめてしまった。ここで泣かれるのは予想外だ。どうしたのだろう。


「えっ、と。桜子ちゃん、大丈夫? なんか、どっか痛かったりする? 具体悪い?」

「ううん。痛くないし、具合悪くないよ。大丈夫。――あのね、嬉しかったの。チョコレートが美味しくて、薫くんが優しくて。薫くんがね、桜子のっ、名前、呼んでくれるから……嬉しい……っ」


 彼女は笑いながら、泣いた。本当に嬉しそうに、笑った。


 こんなことが、そんなにも嬉しいのだろうか。彼女を亡くしたことがある俺は心から待ち望んでいた、こんな時間が。ただ、ふたりで一緒にベンチに座っているだけの時間が。彼女にとっても、こんなことが幸せなのだろうか。


「お菓子も、優しさも、いくらだってあげる、名前も、桜子ちゃんが望むなら、何度だって呼ぶよ」

「ううぅ、幸せすぎて死んじゃう……」

「こんなことで死なないでよ」

「薫くんのこと、好きになっちゃいそう」

「いいよ、なっても」


 桜子ちゃんが、目を丸くしてこちらを見る。俺は微笑んで頷いて、彼女の涙を拭った。



 そのあとは、ふたりでお菓子とパンを食べて、ジュースを飲んだ。雨はだんだんおとなしくなって、やがては晴れ間が見えてきた。


 彼女はスマホを持ってきていたので、連絡先を交換した。彼女の中学の話を聞いたり、俺の高校の話をしたりしていたら、夕方になった。


 彼女が固い声で呟く。


「薫くん。本当に、桜子のこと好きにしていいから……泊めて、くれませんか? お持ち帰り、してくれませんか?」

「自分の体、そういう使い方しちゃ駄目って言ったでしょ。怒るよ」


 桜子ちゃんが、ズボン越しに俺の太腿の上へと手を置く。誘っているつもりなのか、ただ無意識に縋っているだけなのか。どちらにせよ、ちょっとやめてほしい。そんな触れ方をされると、彼女を女として意識してしまう。今は恋人でもないくせに。


 桜子ちゃんは悲しそうな顔で俺を見つめた。捨てられた子猫を想起させるような顔だ。揺らぐから、やめてくれ。


「でも……っ、ひとりで外で寝るのは、怖い」

「お家、帰らないの?」

「帰ってきちゃ駄目って、お母さんが言ったの。なんて名前だかは忘れたけど、その人と過ごすから、私は邪魔なんだって。……桜子、お母さんの子なのに」

「一回帰ってみなよ。お母さん、もうどっか外に行ってるかもじゃん。桜子ちゃんのお家までは、付いてってあげるから。お母さんがまだいたら、それはそのとき考えよう」

「……うん、わかった」


 不安そうに震える手を、そっと掴む。振りほどかれなかったから、繋いでいて良いのだろう。そういうことにしておく。


 ふたりで手を繋いで、彼女の家へと向かう。空いている手に彼女は傘を、俺は傘と買い物袋を持って。


 彼女の暮らすアパートの部屋の明かりは、点いていなかった。彼女が玄関のノブに、ゆっくりと手を掛ける。ガチャリと開いた。鍵はかかっていなかったらしい。


「……お母さん?」


 桜子ちゃんがそう呟いて、家のなかへと入る。俺もお邪魔する。


 玄関には、母親のものらしき靴はなかった。彼女は部屋の電気を点けて、トイレやお風呂場までも見にいっていた。すべての部屋を確認していくつもりらしい。


 俺は彼女をリビングで待った。彼女が戻ってきて、俺と視線を合わす。小さな呟きと一緒に、一粒の涙を零した。


「おかあさん、いない」


 いないなら、良かったじゃん。って、俺は思ったけど。彼女にとっては、単純にそう言える話ではなかったらしい。


 彼女は、今日一番に寂しそうな顔をしていた。彼女に傷をつけた母親なのに。その身を売るように言った母親なのに。


 ゆくゆくは彼女を自殺に追い詰めるかもしれない、そんなやつなのに。


「おかあさん……」


 母親はここ数年ほとんど家に帰ってこないのだと、前の桜子ちゃんが言っていた。帰ってくると怒鳴られて、しばしば暴力を振るわれて、性的な嫌なことも言われたりすると言っていた。


 彼女だって、母親のことがただ嫌いなのだとばかり思っていた。けれど今の桜子ちゃんを見るに、それは違う。


 これは、好きか嫌いかのどちらかに分類できるような、そんな簡単な話ではないのだ。


「桜子ちゃん、俺、帰るね。残ったお菓子とかは置いてくから、あとで食べてね。絆創膏も、説明書読んで貼り替えて。さっき買った傘はあげる」

「うちに泊まるのは、嫌?」

「今日初めて会った男を泊まらせようとするなんて、危機感が足りないと思う。もっと自分のこと大事にして、考えて」

「寂しいって……寂しいって思うのは、駄目なこと?」

「ううん、駄目じゃない」


 彼女に注意しておいて俺だって、初対面の女の子相手にするべきじゃない振る舞いばかりを今日はしている。あんなに優しくしたり、物をあげたり、手を繋いだり――こんなふうに、抱きしめたり。


「俺、今日は自分の家帰らないと駄目だから。寂しかったらメッセ送って。すぐ返信できないときもあるけど、桜子ちゃんには、できるだけ早く返信する」

「くだらないことでも、送っていいの? 『おはよう』とか『おやすみ』とか」

「うん。いいよ。会いたかったら、また今度約束して会おう。だから、今日はバイバイね」

「わかった。バイバイする」


 どちらからともなく身を離し、玄関へと向かった。靴を履くために屈んだ俺の髪を、彼女がふいにさらりと撫でる。


「薫くんの髪、雪みたいで綺麗」

「うん、ありがと。じゃ、またね」

「うん! またね!」


 彼女が俺に笑顔で手を振る。またね、という言葉にチクリと胸を刺されながら、俺も手を振り返した。ガチャリと扉が閉まる。小さくため息をついたあと、俺は彼女の家をあとにした。

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