第68話 あの日、夏の日

 一回目に桜子ちゃんと最後に会ったあの日――七月の十一日の火曜日を、二回目の時でも迎えた。


 今日の桜子ちゃんは、学校に遅刻した。だから朝は会うことができなかった。


 二時間目の化学の授業のあと、彼女のクラスへと足を運んでみる。一年F組の教室は化学実験室から近かったのだ。


 廊下に彼女がいるのを見つけ、声を掛ける。


「おはよ、桜子ちゃん」

「あ、薫先輩。おはようございます」


 桜子ちゃんは一回目と同じように、左目には眼帯をつけて、水色の薄手のカーディガンを羽織っていた。髪型は前と違って、よく見るハーフアップスタイルだ。ポニーテールじゃないことがちょっと残念だけど、今日も俺の彼女は可愛い。


 次の授業の準備を終えた彼女と一緒に、廊下の壁にもたれて会話する。


「ところで桜子ちゃん。目どうしたの?」


 一回目の時は、ものもらいだと言っていた。今回もきっとそうだろう。だけど何も聞かないのは変かなと思って、尋ねてみた。彼女は前と同じような口調で、あっけらかんと返事する。


「ああ、お母さんに灰皿投げつけられましたー」

「そうなんだ、お大事に。……えっ?」


 一度そのまま流しそうになったあと、彼女が前と違うことを言ったのに気づいた。聞き間違いなら良いがと思ったものの、残念なことにそうではなかったようだ。彼女がぴらりと眼帯をめくる。息を呑む俺を見て、くすくすと笑った。


 いったい、どうして。前と違う事態になったのか。それとも……一回目の彼女が、俺に嘘をついていたのか。


「お岩さんみたいでしょー。きもいですよね」

「桜子ちゃん。その。……大丈夫?」

「はい。こんなことには慣れてますから」


 そう言って彼女は、今度は前髪をかきあげた。今までは気づいていなかったが、彼女は額にも傷痕があった。「これも灰皿のせいですよ」と彼女は笑う。一回目も二回目も、今日の彼女はよく笑う。


「お母さん、しばらく家にいるつもりみたいで」

「……うん」

「私が勝手なことすると怒られるから、夏休み中、デートできないかもです。……ごめんなさい」


 彼女は俺の腕に絡みついて、寂しそうにそう言った。俺も寂しいから、彼女の頭を撫でて腰を抱き寄せて、できるだけ近くに感じられるようにする。


 またやってるよ、という呆れた視線や、リア充爆発しろ、という嫉妬の視線。廊下を通る生徒たちからそんなものを向けられていることを、なんとなくだけど感じた。


「薫先輩」

「ん?」

「しばらく会えなくても……私のこと、好きでいてくれますか?」


 彼女の右目から、ぽたりと雫が落ちる。俺はそれを指先で拭って、唇に一瞬のキスをした。


「うん。絶対好きだよ」


 桜子ちゃんは嬉しそうに笑った。「絶対ですよ」と言って、ふたりで小指の先を絡めあう。



 あの日も彼女は笑った。

 あの日も彼女と約束をした。

 これは、偶然のことだったのだろうか。



 午前授業の日や自宅学習日が多くなって、彼女と会える時間も自然と減った。夏休みに入ると、本当に何日も会えなくなった。


 会ったときには、彼女はいつも疲れているみたいな顔をしていた。ぼーっとしていることが多くなって、あまり笑顔を見せなくなった。


 母親とのことがうまくいってないのだろうと、俺は楽観的な心配をしていた。どうにか彼女を癒そうと、できるだけ楽しい話をするようにした。


 八月一日の火曜日。桜子ちゃんの家を訪ねた。彼女の母親がおとなしいという朝の時間帯に、こっそりと。


 インターホンを押してしばらく待っていると、玄関ドアがガチャリと開く。そこには、やつれた顔をした桜子ちゃんがいた。


 彼女の左瞼には未だに傷痕が残っていて、痛々しかった。首元にも痣ができていて、Tシャツと肩との境目にも傷らしきものが見える。


 まずいな、とは思った。でも下手なことをして、悪化させるのが怖かった。


「こんにちは、先輩。久しぶり、ですね」

「うん。最近どう?」

 

 明らかに良くはなさそうなのに、そんなことを聞いた。彼女は曇った表情のまま、「まあ、ぼちぼちです」と答える。


 俺がどんな話をしても、彼女はにこりとも笑わなかった。死んだような目で俺を見て、ときどき瞳を潤ませるときにだけ、彼女が生きていることを実感できる。また失いそうな気がして怖くなった。胸が変にざわめく。


「桜子ちゃん。なんか、俺にできることあるかな? 困ってるなら、手貸すよ。警察とか、児童相談所に――」

「ねえ、薫先輩。――……キス、して」


 桜子ちゃんは背伸びをして、目を瞑ってこちらに顔を向けた。俺は応える。


 ほんの少し触れ合う軽いキスのあと、彼女はさっと顔を離した。久しぶりのキスがこんなにライトでは物足りない。そう思ってもう一度キスをしようとすると、彼女は呟いた。


「先輩。別れましょっか」

「え」


 キスする寸前で、俺は止まる。桜子ちゃんは、今日初めての笑みを見せていた。唇がふるふると震えている。頬の筋肉が強張っている。やたらと瞬きが多い。……きっと、泣かないように無理をしていた。


「先輩のことは、好き、ですよ。でも、最近しんどくて。だから、別れたほうが、良いと、思います」


 今まで彼女から「別れましょう」と言われたことは何度もある。今回のこの言葉は、今までのなかで一番真剣味が強くて、けれど一番、本当は別れたくないという気持ちを感じさせるものだった。こんなところで、唯々諾々と破局を許すような俺ではない。


「ごめんけど、すぐ別れるとかは無理」

「そう、ですか」


 彼女は沈んだ声で返事をした。瞳を覆う、涙の膜が厚くなる。


 今すぐは無理だとしても、また笑ってほしい。また普通にデートをしたい。キスをして喜ぶ彼女が、見たい。


 彼女を引きとめたかった。生きていてほしかった。


「一旦距離置くのはアリだけど、俺は桜子ちゃんのこと、好きだから。別れたくない、かな」

「……うん」

「しんどいなら、しばらく会いにこないから。そういう時間も必要だよね。うん。……何かあったら、連絡して」

「うん」


 彼女はうつむいてしまって、もう俺の顔を見ようとはしなかった。逃げようとする腕をそっと掴んで、彼女の顔を覗き込む。今にも泣きそうな、愛しい恋人の顔を見る。


 ゆっくりと言葉を発し、しっかりと伝えようとした。


「九月一日の朝、ここに迎えにくるから。その日にまた会おう。ね、一緒に学校行こう? そのときもまだ別れたかったら、言って。考えるから」

「……はい、先輩」

「じゃあ、約束ね」


 また彼女と俺は約束を交わした。そうしてバイバイと手を振った。


 なぜ、もっと彼女を気にかけなかったのか。無理やりにも彼女の心の傷を暴けばよかった。


 下手なことをしたら、失敗したら、余計に悪化する。そんなことを心配するのではなく、何かしておけばよかった。


 警察か、何かの相談ダイヤルに電話していればよかった。怪我をしてるなら、病院に連れて行くべきだった。具合が悪そうだったんだから、婦人科とかにも行っていれば。


 彼女が笑わない理由も、彼女が別れようと言った理由も、母親だけが原因ではなかったのだ。もっと早く気づいていれば。俺がちゃんと気づいていれば。……彼女は、自殺しなかったかもしれないのに。


 後悔してもしきれない。彼女の死体が頭から離れない。繰り返すたびに酷い死に方をする彼女のことが、忘れられない。



 ✿ ✿ ✿ 



 八月二十一日の月曜日の夜。陽一から送られてきた画像に、俺は自分の目を疑った。


 [お前のカノジョ、援交してるけど。それでもまだ付き合うの?]


 そこに写っていたのは、おっさんと一緒にラブホ街を歩く桜子ちゃんの姿だった。何枚もの写真で、すべて違う男と、彼女は男と腕を絡め合わせて歩いている。


 [やめといたほうがいいって、言ったじゃん。もう別れなよ。お前が傷つくの、俺もう見たくない]


 何と返信したら良いのかわからなかった。彼女がこんなことをしているなんて信じられなくて、認めたくなくて、でもすぐに彼女に確認する勇気はなかった。


 陽一のメッセージには、既読スルーをした。悪いことをしたとは思う。でも、返信しようとは考えられないくらいショックだった。


 翌日。八月二十二日の火曜日。桜子ちゃんに電話した。


「……もしもし、桜子ちゃん?」

『もしも、し。先輩。どうしましたっ、か』

 

 電話越しに聞こえる彼女の声は、なんとなくいつもと違っていた。元気もないようだし、ときどき苦しそうな声も聞こえる。何かあったのだろうか。


「桜子ちゃん、もしかして体調悪い? そっち行こうか?」

『う、ううんっ、だいじょうぶ、です。ちょっと、最近、吐き気が……っ、あって。あんまり、調子よくない、だけです』

「そっか。お大事にね。……それで、一個聞きたいことあるんだけどさ。桜子ちゃんは――俺以外の男とは、変なことしてないよね?」

『へ、変なことって。なんの、ことですか。先輩』

「……援助交際とか?」


 あけすけに言ったその言葉に、桜子ちゃんは返事をくれなかった。そんなことしてませんよ、とは言ってくれなかった。この沈黙の意味を、俺は察してしまう。……なんで。桜子ちゃん。なんで。


『してるって、言ったら……別れ、ますか。先輩。ふふっ、ふふふっ、ふ、ははっ』


 どこか狂気じみた笑い声を彼女が上げた。壊れてしまったような声に、ぞわっと鳥肌が立つ。


「……桜子ちゃん?」

『本当、馬鹿みたい。本当に……馬鹿ですよ』

「桜子ちゃん。どういう意味――」


 彼女は何かを嘲るような言葉を吐いたあと、一方的に電話を切った。かけ直しても繋がらず、別の日にかけ直しても、また繋がらなかった。


 彼女と音信不通になって、約一週間。八月三十一日に送ったメッセージにも、ついぞ既読はつかなかった。


 一回目の彼女が自殺した、九月一日がやってきた。


 俺は前に約束したとおり、一緒に登校するために彼女の家へと向かった。インターホンを鳴らしても彼女は出てこなくて、メッセージを送っても電話をしても反応がない。


 一回目の彼女が死んだ時間が、どんどん近づいてくる。

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