第67話 お泊り
彼女の小さな手が、俺の背から腰にかけてを滑る。いつもより艶めかしい手付きに感じるのは、俺が意識しすぎているせいだろうか。
「先輩、大好き」
こんなにもあっさりと、彼女がストレートな愛の言葉を告げてくるのは珍しい。やはり今日の彼女は、いつもとどこか違うようだ。
「桜子、ちゃん」
彼女が俺と目を合わせ、ほんの少し顔を上に向けて、目を閉じる。ここで何かを言うのは無粋だろう。
黙って唇を重ねた。ゆっくりと触れて、だんだんと深くなる。彼女とのキスにも慣れたものだな、とふと思った。
「薫先輩」
切なく甘い彼女の声が、唇と唇の間から漏れる。その声に、心臓がドクドクとうるさくなった。
「ねえ、先輩」
「なに、桜子ちゃん」
濡れた唇がいやらしく艶々と光っている。次の言葉を聞くのにひどく緊張する。やわらかな唇は笑みを浮かべ、彼女は普通の調子で言った。
「数学、教えてくれませんか」
「……えっ?」
「期末の提出課題でワーク出てるんですけど、ひとりじゃあまりわからなくて。先輩、数学得意でしたよね?」
「あっ、うん。超得意。そうだね。良いよ」
そういえば今朝に送られてきたメッセージに、期末考査対策の勉強を一緒にやりたいという旨も書かれていたな。と俺は思い出した。
ひとりで変に舞い上がって、破廉恥なことを考えていた。馬鹿みたいだ。めちゃくちゃ恥ずかしい。
「先輩のために、いつもより食材多めに買ったんですよー」と、桜子ちゃんはスポーツドリンクとクッキーと煎餅を持ってきた。
俺と一緒に過ごす時間のために気を遣ってくれたのだろう。愛を感じる。彼女は俺の前にコップを置いて、スポーツドリンクを注いでくれた。
「ありがと、桜子ちゃん」
「いえいえ。……じゃあ、勉強教えてください。薫先生!」
「うん。どこがわかんないの?」
彼女に寄り添って、一冊の数学のワークをふたりで見る。しばしば手や指が触れ合い、互いにときどき太腿や腰回りに触れる悪戯をした。
夕方頃、彼女はごはんを作ってくれた。オムライスと、モヤシが多めの野菜炒め。互いのオムライスにハートマークを描きあったのは、すごくバカップルっぽかったなと思う。彼女の作る料理は美味しかった。
さすがにお風呂は別々で、彼女は俺に「お先どうぞ」と譲ってくれた。俺が上がって、彼女が入浴を終えるのを待つ間は、頭がおかしくなるんじゃないかというくらいに悶々としていた。
「上がりましたよ、先輩」
お風呂上がりでパジャマ姿の桜子ちゃんは、ものすごく可愛らしかった。湿った髪はなんかエロいし、シャンプーの匂いが鼻をくすぐる。
「ドライヤーなくてタオルドライで、すみません」
「いや、全然大丈夫」
歯磨きをして、完全に就寝できる体制に入る。彼女に手を引かれて、ひとつの布団が敷かれたところに連れてこられた。電気はオレンジ色の豆電球だけにして、部屋は仄暗い感じだ。
「薫先輩」
彼女から俺に口づける。一ヶ月前には想像もできなかったような深い触れ合いを、彼女と俺とはできるようになった。自然に流れされるままに、彼女と一緒の布団に入る。
めくって、触れて、抱きしめ合って。互いの感触と温度をめいいっぱいに感じた夜だったけれど、最後まで結ぶことはしなかった。というより、できなかった。
「かおる、せんぱい。ごめ……ごめん、なさい。ごめんなさい。私……っ」
触れ合いの途中で、彼女がぽろぽろと泣き出した。四月に遭った露出狂のことや、クラスメイトに性的な嫌がらせをされて写真を撮られたときのことなどを思い出して、怖くなってしまったらしい。
互いに中途半端にはだけた服装のまま、俺は彼女を抱きしめて頭を撫でる。怯える彼女に無理をさせる気にはなれなかった。
彼女の心の傷は深い。それにさらに塩を塗るようなことはできない。俺は桜子ちゃんと一緒に生きていたいから、傷つけるようなことをしたくない。
「大丈夫だよ、桜子ちゃん。今日は、普通に寝るだけにしよう。何も怖いことはしない。大丈夫」
「……うん。ごめんね、先輩」
「謝んなくていい。桜子ちゃんは、何も悪くない。……そばにいるから。ひとりにしないから。泣きたいときは、泣いていいよ。つらいことは言って。なんでも聞くから」
「――うんっ。ありがとう。かおる、せんぱい」
彼女がぎゅうっと俺を抱きしめる。彼女がぽつりぽつりと呟くつらい記憶の話を、俺は頷いて聞くことしかできなかった。うまい慰め方を知らなかった。
彼女はだんだんと舌足らずな喋り方になって、寝息を立てはじめた。俺は彼女のつむじにキスをして、愛しいぬくもりを感じて眠った。
桜子ちゃんと過ごす初めての夜はそうして終わって、綺麗な朝を迎えた。
この夜、彼女を抱かなかったことが、正しかったのか。今となってもわからない。俺は彼女との日々を何度も繰り返しても、一度も彼女を抱いていなかった。
どうせ最後には奪われるなら、せめて初めては、俺であったほうが良かっただろうか。なんてことを思う日が、ないわけではない。
過去の記憶を桜子ちゃんが忘れたままでいてくれるのなら、それで良い。あの苦い記憶を俺だけが持っているなら、まだ良い。
けれど、もしも桜子ちゃんが思い出してしまったら、彼女はどうなるのだろう。また自殺してしまうだろうか。また俺から逃げようとするのだろうか。
どうなっても怖いから、思い出してほしくなかった。彼女のつらい過去は、俺だけが覚えていればそれで良かった。それか、彼女の記憶をこの夜のまま、もう進めないでいられたら良かった。
朝になって、彼女が作ってくれたごはんを食べて、ふたりでのんびりと過ごした。土日明けの学校生活は、お泊りデートを経てもさほど変わらなかった。相変わらず手は繋ぐし、ハグもするしキスもする。俺らは普通の高校生カップルだった。
期末考査が終わって、七月の十一日。火曜日。あの夏の日と同じ日を、俺は迎えた。
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