第65話 図書室で、はじめての

 六月八日、木曜日。本棚整理の当番が回ってきた日。一回目の時には桜子ちゃんのリスカ痕を見て、足をくじいた彼女と一緒に下校した日。


 俺らは一回目とほとんど同じように、本棚をふたりで整理していた。例のとおり、もうひとり当番になっているはずの先輩は来ない。しかしその状況が、俺にとってはもはや都合が良かった。


 日本文学の棚を整理していると、忌々しくも懐かしい本を見つけた。彼女が朗読の約束を破った「レモン哀歌」が載っている、あの『智恵子抄』だ。あの最後の夏の日のことと、二回目の彼女の林檎色に染まった顔を思い出す。


 俺は『智恵子抄』を持って、桜子ちゃんへと近づいた。彼女は真面目に本棚の整理をしている。俺をチラリと一瞥はしたものの、長くは見つめてくれなかった。


「ね、桜子ちゃん」

「なんですか、薫先輩」

「『レモン哀歌』読んで」

「嫌です。今は委員会の仕事中ですよ?」

「俺、桜子ちゃんが読んでくれるまで仕事再開しないから」

「はい? なに子どもみたいなこと言ってるんですか」

「お願い、読んで」


 彼女が冷たい目で俺を睨みつける。そんな視線も好きだった。俺が仕事をサボってそのまま突っ立っているのを、彼女はしばらく放置する。

 

 一分間か、二分間か。俺がぱらぱらと『智恵子抄』のページをめくって手慰みにしていると、細くしなやかな指先が、紙の上にやってきた。桜子ちゃんの手だ。


「仕方ないので、読んであげますよ。ほら、貸して?」

「……うん。ありがと、桜子ちゃん」


 桜子ちゃんの手に『智恵子抄』が渡り、俺は彼女の持つ本のページをめくって「レモン哀歌」を開いた。彼女の目が紙面に印刷された言葉を追ってキョロキョロとする様を、ぼんやりと眺める。


「一行ずつ、ぶつ切れでも良いですか? 先輩」

「うん、なんでもいいよ」


 読み方なんてどうだって良い。君の声が聞けるなら。


 桜子ちゃんはもう一度本を見たあと、「ちょっと屈んでください」と言った。姿勢を低くすると耳元に吐息を感じ、変にぞくりと興奮する。


 吐息まじりの微かな声が、耳に直截に流れ込む。ほんの少し震えた声は、やはり綺麗だった。たぶん、この世界で一番好きな声なんだと思う。


 彼女の長い髪が、俺の肌をときおりくすぐる。彼女の息に熱を感じる。流暢に読めずに、ときどきつっかえてしまうところが愛おしい。


 このとき彼女が読んだ「レモン哀歌」を、あの声を、俺は彼女が四度死んだあとの今でも思い出せる。そのあとのことも、はっきりと覚えている。きっと一生忘れない。


 最後の一音が、余韻をもって離れる。


「やっぱ、声キレイだね。すごく好き」

「あ、りがとう、ございます。薫先輩」


 恥ずかしそうに微笑む唇に、無意識に視線が向かう。やわらかそうだ。先程まで近くにあった、今は離れてしまった熱に、もっと密に触れたいと思った。


「桜子ちゃん」


 名を呼ぶ声が、ほんのちょっと掠れる。彼女は気づいていないかもしれない。


 俺は『智恵子抄』へと手を伸ばし、「レモン哀歌」のページを開いたままの彼女の左手を、そっとほどいた。右手も静かにほどいて、紙の重みを受け止める。


「薫、先輩?」


 彼女が俺を見上げ、どうしたの? というような顔をする。下手な扱いをしたら本が傷むとか、そういうことも心配しているのかもしれない。俺は左手で本を持ち、右手で彼女の左頬を包んだ。ごくりと唾を飲み込む。


 ここは図書室の隅で、ひと気はない。他の本棚も盾になって、まさに秘密の場所のようだった。その秘密をさらに深めるように、本の影に隠れて――唇を、重ねた。


 彼女が驚いたように、声にならない声を上げる。もっと聞きたい。もっと触れたい。


 角度を変えてもう一度触れ、慎重にゆっくりと舐める。必死に抑え込んだような可愛い声のあと、やわらかな重みが胸に乗っかった。


 目を開けると、桜子ちゃんが俺に抱きついていた。『智恵子抄』を閉じて、手近な本棚に一旦置く。


「桜子ちゃん。……いきなり、ごめん。大丈夫?」

 

 俺の胸元に顔をこすりつけるように、彼女はふるふると首を振る。大丈夫じゃないらしい。


「せ、んぱい」

「なに、桜子ちゃん」

「びっくり、して。なんか、力入らなくて……動けなくなっちゃいました」


 えへへ、と力なく笑う声が聞こえる。驚きのあまり腰が抜けてしまったというところだろうか。彼女の体を支えようと腰を抱くと、あられもない小さな声がシャツの生地に吸い込まれた。


「せんぱい、いま、さわんないで……っ」

「あ、うん。ごめん」


 今は余計な動きをしないほうが良いのだと、俺は悟った。これ以上触れないように、動かないようにと気をつける。


 いきなりキスをしたせいで、彼女は今、たぶん刺激に敏感になっているのだろう。図書室を利用している他の生徒たちも、ここから数メートル離れたところに一応いるのだ。彼女の艶めかしい声を聞かせるわけにはいかない。


 黙って、ぬくもりと重みを受け止める。互いが生きている証の、呼吸や心臓の音以外には、何も聞こえない。心地よくて、くすぐったくもある。


「――あなたたち、いったい何をしているの?」

「げっ」


 突然聞こえた声に、ふたりして肩を震わせた。なんてことはない、ただの司書先生の声だったのだが、心臓に悪いことこのうえない。先生は呆れ顔だった。


 顔を真っ赤にした桜子ちゃんは頼りにならなそうなので、俺が慌てて弁明する。


「あ、いや。やましいことはしてないっすよ。ただ……虫が、窓から入ってきただけで」

「窓から虫が?」


 換気のために数センチ開いているし、あり得なくはない。訝しげに眉を上げた司書先生の顔を見て、言い訳を重ねる。


「そう、でっかいスズメバチみたいなのが飛んできて! 紫月さんが驚いて腰抜かしちゃったみたいなんです。いやー、無事に受け止められて良かったですね。女の子に怪我させちゃ大変だし」

「……そうね」

「あの、私、悪気はないんです……。ただ、本当にびっくりして」


 桜子ちゃんが申し訳なさそうに言う。司書先生はしばらく俺のほうをじっと見たあと、「まあ、落ち着いたらちゃんと仕事再開しなさいよ」と言って去っていった。


 完全にその姿が見えなくなってから、俺は大きくため息をつく。めっちゃ焦ったし緊張した。馬鹿みたいに疲れた。


「……落ち着いたら、本棚整理再開しようね。桜子ちゃん」

「先輩の、馬鹿。勝手に、あんなことするなんて」

「ごめんね。嫌だった?」

「嫌ではない、ですけど。嬉しかったですけど」

「うん、そっか。なら良かった」


 先程のキスについて、ちょっぴり反省する。デートしたときなんかに、そういう雰囲気になってからしたほうが良かったかもしれない。俺と同じように、彼女もたぶん初めてだったし。


 覚悟とかロマンティックな空気とか、そういうのがない状態でのファーストキスにしてしまった。次にキスするときはファーストではないけれど、もっとうまくやろうと思う。


「桜子ちゃん。……好きだよ」


 彼女の体を抱きしめて、髪の匂いを嗅ぐ。彼女が歩けるように復活してから本棚整理を再開して、ふたりで一緒に帰宅した。


 帰り道では、ふたりとも正気に戻っていて――というか、図書室での接触の記憶が恥ずかしくなってきて、互いにドギマギとしていた。

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