第58話 彼女のスカートの −後−
柔らかそうな唇が、可哀想なくらいに震える。彼女が物憂げに視線を落とす。一度こちらを見て、また地面のほうへと視線を向けた。
「ごめんなさい、先輩」
消え入りそうなその言葉のあと、バサッというわりと大きな音がした。
「はっ――!?」
目の前の光景に驚いて、俺は目を見開いた。頭が突沸したように混乱する。
紫月さんは、逃げるように猛スピードでその場から立ち去った。俺は慌てて彼女を追いかける。紫月さんは、意外と足が速かった。
いったい何だったんだ。彼女は何をしているんだ。スカートをめくりあげるなんて。しかも男に見せつけるなんて。馬鹿なんじゃないか。変態なのか。いや、そんなことより――彼女が、とうとう泣いてしまった。
彼女のことが心配でたまらないのに、先程一瞬見た光景が目に貼り付いて、顔が変に熱くなる。だって、まさかあんなことをするとは思わなかったし。まさか――パンツ穿いてないなんて、思わないし。
「紫月さん!」
「や、痛……っ」
あの日話した公園のなかほどで、俺は彼女を捕まえた。そのとき思わず掴んでしまったのは、彼女の左腕だった。そんなに力入れてないつもりだったのに――と首を傾げたあと、以前の彼女のことを思い出す。
一回目の彼女の左手首には、リストカットの傷があったじゃないかと。今回の彼女にも、その傷があるのかもしれない。余計な痛みを与えないように、そっと彼女の左腕から手を離す。
「はな、花咲、先輩……」
紫月さんは、ぼろぼろと涙をこぼしていた。本当に悲しそうに泣いているから、抱きしめて慰めたくなってしまう。でも、自分がそれをしてもいい男なのかは、わからなかった。彼女に触れないままで、俺は彼女に声を掛ける。
「紫月さん。ごめん。手――」
「ごめ、ごめんなさい! ごめんなさい! 違う、違うんです。わた、私は、変態じゃなくて。痴女じゃ、なくて。本当は、ビッチじゃない、から。違うの。先輩。本当に、違うの……! ごめんなさいっ! 許してください!」
叫ぶように謝って、紫月さんはその場に崩れ落ちた。学生鞄が地面にドサリと落ちる。両手で顔を覆って震える彼女の姿は、あまりにも悲惨だと思えた。こんなにつらそうにしている女の子を直に見るのは、きっと今日が初めてだ。
俺は、彼女と仲良くなってから、彼女の悩みを明かしてもらおうと思っていた。けれどどうやら仲良くなる前に、俺は彼女の闇に触れてしまったようだ。
一回目の俺が踏み込めなかった領域に、今の俺は立っている。こんな形で知ることになったのは不本意だが、今ならきっと尋ねても良いだろう。彼女を苦しめるものが、何者なのか。一回目に彼女を死に追い込んだのは、何なのか。
「紫月さん。ちょっとベンチ座ろっか。膝、砂利の上についてたら痛いでしょ?」
俺はしゃがんで、彼女に左手を差し出した。涙でぐちゃぐちゃの顔でこちらを見た彼女が、声にならない声とともに、こくりと頷く。ふたりでベンチに座ったあと、とりあえずポケットティッシュを渡して、彼女が落ち着くのを待った。
「……花咲、先輩。ありがとう、ございます」
「うん。少しは落ちついた?」
「はい」
頷いた彼女の瞳から、またスッと涙が落ちた。頬を伝った雫を俺が指先で拭うと、彼女はうつむく。
「ね、先輩」
「うん、なに?」
「私が露出狂に襲われたって話、聞きました? 私がメンヘラビッチだって、話も?」
「露出狂のは、聞いた。メンヘラとかってのは……まだ、聞いてないけど」
「やっぱり、『ずっと』なんてなかったですね。現実って、残酷」
彼女は上を向いて、わざと明るく振る舞うように笑った。黒い瞳が青い空を映している。やっぱり可愛い子だな、と思った。
紫月さんは、可愛い。可愛くて、もっと幸せに笑っていてほしい。どうか自殺しないで、生きていてほしい。
「あのね、先輩」
「うん」
「私、襲われてないの」
「うん」
「露出狂に会っちゃったのは、本当。でも、見せられた以外は、何にもなかった。クラスの子がね、そういう噂流しただけだから。だから、私はビッチでもないし……私が好きなのは、薫先輩だけですよ」
「うん、わかった。…………ん?」
彼女が襲われていないと聞いて、ビッチではないのだと聞いて、ほっと安心した。クラスの状況は悪そうだが、彼女の口から本当のことを聞けて良かった。――が、気のせいだろうか。彼女がひとつ変なことを言った気がするのだが。
「どうしました? 先輩」
「いや、たぶん聞き間違い」
「何て聞き間違えたんですか?」
「紫月さんが……俺のこと好きって言った、ように聞こえた」
「え……?」
紫月さんの頬が、みるみるうちに真っ赤になった。俺の頬も、なんだかまた熱くなってきている気がする。なんとも言えない空気になっているような気がした。
まさか、彼女が俺を好きなんて。いや、自分がモテるのは理解しているし、最近の彼女は俺を嫌ってはなさそうだと思っていたが――まさか、紫月さんが?
彼女は金魚のように口をパクパクとさせ、ものすごく動揺しているようだった。俺も動揺して、心臓がバクバクとうるさく鳴っていた。
「あ、あ、あ……先輩、あの……し、失礼いたします!」
彼女がベンチから勢いよく立ち上がり、スカートの裾がほんの少しだけめくれた。いま見えたのは太腿だけだったが、それを見て、先程見てしまったところまで思い出す。
今の紫月さんは、パンツを穿いていないのだ。走り去ろうとする彼女を、今度は声で引き止める。
「いや、紫月さん! ちょい待って。あの……ごめん。デリカシーないかもだけど聞くね。ノーパンで帰るの?」
赤い頬をした紫月さんは、そっぽを向いたまま、早口で告げた。
「……最近、ずっとそうです。その、クラスの子に、盗られちゃって。もう一枚も残っていないんです。あの、今日は、花咲先輩に見せてこいって、命じられて、あんなことを。本当、すみません。嫌だと言ったんですが、やらないなら、ネットに実名住所つきでノーパン画像ばら撒くと脅されて。でもそんなの言い訳ですよね。すみません。どうか忘れてください」
「お、おう……」
なんてこった。彼女へのいじめは、かなり深刻なものだったらしい。いま聞いた内容だけでも、かなり酷い扱いをされていることが窺える。
俺のいるクラスはいじめのいの字もないほどに平和だと思うが、同じ学校に通う者と言えど、皆が皆、悪人でないわけではないようだ。
なぜ今まで―― 一回目の時も――まったく気づいてやれなかったのだろう。どうしようもなく悔しくて、苦いものがこみ上げてくるような思いがした。
彼女は、学校でいじめられている。それが原因で、一回目の彼女は命を絶ったのかもしれない。
ならば今回の俺は――彼女が自殺した過去を知っている俺は――彼女を、いじめから救うべきなのだろう。九月一日よりも先の未来の、彼女に会うためには。
「紫月さん、あの……あんま、何て言っていいのかわかんないけど。酷いようだったら、警察とかに相談するのも手だと思うよ」
「そうですね、ありがとうございます。もう帰っていいですか」
先程ついうっかり「好き」と口を滑らせてしまったからか、スカートのなかを見せてしまった気まずさのせいか、彼女は今すぐにでもここを立ち去りたそうだった。無理に引き止めるのは良くないだろうと、手短に終わらせるように心がける。
「ごめん。最後、ひとつだけ。今日俺のクラス体育あったから、ハーパン持ってるんだけど、それ貸そうか? 俺の着たあとのなんて嫌かもだけど、履いてないよりマシじゃない? その状態で電車乗るとか、痴漢とか心配だし」
「……じゃ、あ。お言葉に甘えて」
紫月さんは俺が貸したハーフパンツを穿くと、そそくさと公園から去っていった。サイズはぶかぶかだったようだが、ウエストの紐をきつく縛れば、おそらくある程度は大丈夫だろう。心もとないが、ノーパンよりはずっとましだ。
五月十七日、水曜日。紫月 桜子が、クラスでいじめられていることを知った。彼女の自殺を止めるために、いじめを解決しなければならない。俺は明日からの目標を、彼女へのいじめをなくさせることに決めた。
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