第57話 彼女のスカートの −前−

「あのさー、ハナ」

「なんだー?」


 ある日の昼休み。屋上で、陽一と一緒に弁当を食べていたとき。俺が紙パックのバナナオレを吸っていると、陽一が話を切り出した。


「あんま言いたくないんだけどさ。あのちっちゃい清楚系黒髪女子、やめといたほうが良さげかも」

「紫月さんのこと? なんで?」

「あの子、処女じゃないらしいから」

「はぁ? 別に、俺、処女じゃなきゃ嫌とか、ないけど?」

「嘘だ。明らか動揺してんじゃん」

「……」


 自分では動揺しているつもりはなかったが、陽一が言うならそうなのかもしれない。手に変に力が入って、いつの間にか紙パックが歪んでいた。


 紫月さんが、処女じゃないだとか、メンヘラビッチだとか。そういう話は、一回目の時にもこいつが言っていた。そして俺は、その話を詳しく聞こうとしなかった。


「……なんで、処女じゃないって、お前が知ってんの?」


 正直、二回目の今だって、彼女のそういう話は聞きたくないと思った。けれど同時に、聞かなければならないのだろうな、とも思った。


 一回目の時に紫月さんが自殺した理由を、俺はまだまったくわかっていない。一回目の同じ時期と比べると、ふたりで交わした会話の量は増えていると思うが、まだまだ仲良しには程遠いのだ。


 彼女の自殺を防ぐためには情報が必要だ。そのためには、聞きたくない話も聞いておくべきだろう。たとえそれが、俺にとってつらい現実であったとしても。


「俺が知ってるてか、知ってるやつはけっこー知ってるみたいよ。覚えてる? 入学式の日の午後に露出狂が出た話」

「ああ、そんなのもたしかにあったな」

「あの子、そんときヤられちゃったらしーよ。公には言われてないけどさ。そんで病んでるから面倒くさいし、クラスでも浮いてるっぽい」


 まるで明日の天気の話でもするかのように、陽一はあっさりと酷い内容の話をした。長年幼馴染のような関係をしている男だが、こういうところは理解に苦しむ。


 なぜ人の不幸を――事実なのか、単なる噂に過ぎないのかはわからないが――こんなにも、なんでもないことのように語れるのだろう。


「ハナ、今すげー嫌そうな顔してる」

「そりゃそうだろ。なんか、それは、そういうノリで話す内容じゃない」

「お前は綺麗だからなー、わかんないか。別に俺がおかしいんじゃないと思うけど。大して知らない女子が襲われたって、まあ可哀想にねー、くらいにしか思わないよ。まあ、ハナは同情しちゃうのか。お前は……顔が良いぶん、苦労してきてるもんなぁ」

「……まあ、な」


 陽一が濁したのはきっと、俺の過去のことだろう。小さい頃からモテた――悪い言い方をすれば、性的な目で見られていた――俺は、さらわれそうになったり、突然勝手に体を触られたり、こじらせた恋心による恨みや嫉妬で刃物なんかで傷つけられたりしたことが、今までに何度かあった。


 今でこそ背も伸びて体もそれなりに鍛えているからか、そんな舐めた真似をしてくるやつはそうそういないが、昔はかなり大変だった。


 俺のそういう頃を知っているから、こいつは「非処女で面倒くさい女」だと思っている紫月さんから、俺を守ろうとしてくれているのかもしれない。はっきり言えば、ありがた迷惑というやつだったが。


「陽一には悪いけど、俺はそういう噂で人のこと判断したくない。紫月さんとは、フツーに仲良くしたいから」

「あ、仲良くしたいんだ。やっぱ好きなの?」

「別に、好きじゃないけど。……好きじゃないけど、笑っていてほしいと、思ってる」

「へぇー……」


 陽一がニヨニヨと薄気味悪く笑った。絶対こいつ、俺が紫月さんのことを好きなんだと思ってるんだろう。違うのに。別に、ただの可愛い後輩なだけなのに。


「なあ、薫」

「んだよ、陽一」

「お前がホントに好きな子できたら、俺は応援してやっからさ。ま、頑張れよ」

「……ああ」


 普段はふざけたウザい調子でものを言うのに、たまに真面目になるからムカつく。でも、もし俺が本当に誰かを好きになったとき、陽一が応援してくれたら心強い。そう思ってしまっている自分もいる。


「陽一。……ありがとな」


 そっぽを向いて、ぼそりと呟くように礼を口にすると、陽一は声を上げて笑った。



✿ ✿ ✿



 五月十七日、水曜日の放課後。俺はまた、紫月さんが女友だちと一緒に帰っているように見える光景に遭遇した。前と同じように、彼女は三人の同級生に囲まれて歩いている。隣の陽一も彼女のことに気づいたようで、あっ、と声を上げた。


「あの女子、ハナの好きな子じゃん。非処女と噂のね」

「違う。好きな子じゃない。あとそういう変な噂いい加減やめろ」

「ハナさ、前会ったときは何か話したんでしょ? 今日も話しかけてみれば? 『ねえ、君って処女?』って聞いてきなよ。そんで処女だったら、もう変な噂流れないようにしたげる」

「んなこと聞けとか、デリカシーなさすぎんだろ。お前。ドン引きだわ」


 今日の俺らは紫月さんたちの真後ろにいるので、彼女の顔を見ることはできない。


 あのときは彼女の微笑みを見て安堵してしまったが、もしかしたらあの解釈は間違っていたかもしれない。そう思って、彼女の様子を静かに注意深く見守る。


 ふいに紫月さんがこちらを振り向いて、目を見開いた。小さく首を振った彼女が前を向くと、ひとりの女子生徒が彼女の頭をはたく。友だち同士のじゃれあいとも、いじめだとも取れそうな、ここから見るだけではなんとも微妙な光景だ。


 駅の近くに着くと、また他の女子生徒たちと別れて、彼女はひとりぼっちになる。陽一は、「何かあったら連絡して」と言って、また先に帰っていった。俺はひとり静かに、彼女へと近づいていく。


 今度の彼女はただ突っ立っているだけでなく、俺が話しかける前に、ゆっくりとこちらを振り向いた。黒い瞳を潤ませて、唇をぎゅっと引き結んで。泣きそうなのを、どうにかこらえていると言うような顔で。


 やっぱり、あの女子たちは、彼女の友だちじゃなかったのかもしれない。何か酷いことを言われたのかもしれない。


 泣きそうな顔でこちらを見る彼女をスルーすることなどできるはずもなく、俺は紫月さんに話しかけた。彼女の泣きそうなのには気づかないふりをして、気さくな感じで。


「や、紫月さん。奇遇だね」

「花咲、先輩……」


 いったいどうしたの。何があったの。そう安易に尋ねることができずに、ただ彼女の顔を見る。唇が震えて、さらに瞳が潤んでいた。


 いったい何が、君をそんなふうに悲しませているんだ。視界の端で、彼女がぎゅっと両手でスカートの裾を握るのを捉える。


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