第56話 ふたりの図書委員
ゴールデンウィーク明け、五月九日の火曜日。紫月さんと一緒に図書委員の当番になっている日。
俺は一週間のなかで、火曜日が一番好きになっていた。
「紫月さん、こんにちは。久しぶり」
「こんにちは、花咲先輩」
一足先に図書室に来ていた彼女に声を掛け、隣の席に座る。他の人が来なくて暇なためか、彼女は本を読んでいた。
「何読んでんの?」
「『源氏物語』の現代語訳版です」
「面白い?」
「はい。面白いです」
その簡素な返答のあとは、彼女は何にも言わなかった。細い指が本のページをめくって、紙が擦れる軽い音を立てる。俺は黙って、彼女が本を読む姿を眺めた。
「……あの、先輩?」
「ん? なに?」
こちらを向いた紫月さんは、ちょっと困ったような顔をしていた。そういう表情も可愛いな、と思う。彼女と会うたびにいつも、彼女を可愛いと思っている。
「視線が、気になります」
「ごめん」
「いや、別に謝ってほしかったわけじゃないですけど。先輩は、なんか本読まないんですか?」
「んー。俺、あんま読まないんだよね。なんかオススメの本ないの?」
「ないです。というか、本読まないならなんで図書委員に?」
「図書委員って、けっこう楽じゃん。それに各クラスでひとりずつだし」
「なぜひとりずつなのが理由になるんですか?」
「俺モテるからさー。ふたり組でやる委員会やろうとすると、揉めちゃって大変」
「……」
今日はなんとなくスムーズに会話できている気がして嬉しいな――と思った矢先、紫月さんが黙ってしまった。そっぽを向いて、また本を読みはじめる。どうしたのかと彼女の顔を覗き込んでみると、彼女は死んだ魚のような目をしていた。
「紫月さん、どしたの?」
「別に何も」
「なんか怒らせちゃった?」
「違います」
「あ、モテるって言ったからうざかった? 一応言っとくけど、俺、彼女いないよ」
「……ほんと?」
紫月さんが本から顔を上げて、こちらを見つめる。死んでいた目に、微かな光が戻っていた。心なし嬉しそうに見える。
「うん。今まで、ひとりも彼女いたことない」
「へー、意外です。なら、先輩も私とおんなじ非リアってことですね!」
軽く弾んだ声に、小さく上がる口角。二回目の彼女のなかで一番嬉しそうな顔を、見ることができた。一回目に最後に会った日の彼女と少し被って、胸がキュッと苦しくなる。
「俺が非リアなのが、そんなに嬉しい?」
「別に嬉しくないですけど」
「嬉しそうに見えるんだけど」
「じゃあ先輩の目が悪いんですね。眼科行ってください」
「辛辣だね」
「……ごめんなさい」
紫月さんは沈んだ声でそう言うと、また本を読みはじめてしまった。彼女の扱い方がよくわからない。正直ちょっと面倒くさいと思った。
けれどそんなくだらない理由で、彼女を放っておくわけにはいかないだろう。このままでは、紫月さんはまた自殺するかもしれない。だから俺は、どうにか彼女との会話を続けようとした。
「しーづきさん。ちょっと聞きたいことあるんだけど」
「……なんですか」
「『レモン哀歌』って、何の本に載ってる?」
「『レモン哀歌』ですか? 高村光太郎のですよね。『智恵子抄』に載ってるはずですけど……ああ、中三の国語の教科書にも載ってますよね」
「図書室にその『智恵子抄』? ってあるかな?」
「たぶんあるんじゃないですか」
「じゃ、ちょっと探してくるねー」
「はーい……」
いったい何なんだ、と言いたそうな紫月さんを横目に、俺は本棚の日本文学のコーナーに行って、『智恵子抄』を探しはじめた。まだまだ他の人が図書室に来そうな気配はなく、ここには俺と紫月さんのふたりきりだ。
どこだろうかと、しばらく本の背表紙たちを眺めていると、ふいに細い指が顔の横を通過した。
「先輩、本探すの遅いですね。それでも図書委員ですか?」
紫月さんが『智恵子抄』を本棚から抜いて、俺に「はい」と手渡してきた。彼女はさっさとカウンターへと戻っていく。
「あ、ありがと紫月さん。まじ感謝」
「どういたしまして」
彼女が椅子に座って、また『源氏物語』を読みはじめる。俺は彼女の隣で、『智恵子抄』の目次ページを開いた。「レモン哀歌」の載っているページを開いて、それをゆっくりと黙読していく。なんとなく、やっぱり綺麗な詩で、彼女の声に似合いそうだと思った。
隣にいる紫月さんの横顔を見て、そして桜色の唇に視線を向ける。ちっちゃくて、柔らかそうだな、と思った。あの唇にキスをしたら、どんな感じなんだろう、とも考える。
しばらく眺めてから、今の俺めっちゃ変態っぽくない? と気づいた。キスをしたら――なんて、まるで彼女を恋愛対象として見てしまっているかのようではないか。
「先輩。なんでそんな見てくるんですか」
「え、あ。いや、紫月さんが可愛いから、つい」
「は……?」
こちらを向いた紫月さんが、目をまんまるに見開いた。彼女の黒い瞳に俺の顔が映ってるの、なんか良い。萌える。
彼女の表情が、こいつ頭おかしいんじゃね? と言っているように見える――と思ったら、だんだんと彼女の頬が
「紫月さん、暑い? 顔真っ赤なんだけど……」
「あ、これは違っ、あの、見ないでください!」
紫月さんは両手で頬を覆って、勢いよく真後ろに顔を逸らした。小さな肩が小刻みに震えている。もしや泣いているのだろうか。そう思い、その肩に軽く触れてみた。
「ひゃぁっ」
「うわ。あ、ごめん」
紫月さんが上げた声が妙に色っぽくて、驚いてさっと手を離す。心拍数が上がって、なんだかちょっと変な気を起こしそうになった。あんな声も出せるのか、と先程の声を思い出す。また聞きたいな、と思った。
「先輩。ほんと、やめてください」
「ごめん。もう触んない」
「違う。そうじゃなくて……いや、そうなんですけど。可愛い、とか、安易に言わないでください。無理」
「うん。わかった。でも、可愛いと思ってるのは本当だよ」
「だから、それ……! やめて、ください。照れちゃって、ずっと、熱いままになっちゃうから。駄目です」
長い黒髪の隙間から覗く耳が朱色だから、きっと頬も朱いままなのだろう。照れている顔を見たくてたまらなくなったが、そこまでしていい関係性だとは思えなかった。なんとなく、まだ、そこまでの関係ではない気がする。
ガラリと扉が開いて、眼鏡をかけた男子生徒が入ってきた。図書室が、ふたりきりの空間ではなくなったのだ。紫月さんはまだ熱が冷めないようなので、俺がカウンター業務をするべきだろう。『智恵子抄』を閉じて端に置き、バーコードリーダーの準備をする。
「返却ねがいします」
男子生徒の持ってきた本と学生証のバーコードを、ピッと読み取っていく。ディスプレイを確認するとき、こちらを振り返った紫月さんと、一瞬だけ目が合った。
「はい。どうぞ」
「あざっしたー」
男子生徒が去っていくと、紫月さんはしっかりと顔を上げて、前を向いて姿勢正しく座り直した。まだほんのりと顔が赤いが、多少は落ち着いたのだろう。
「お見苦しい姿をお見せして、すみませんでした」
「ううん。大丈夫。もう暑くない?」
「はい。大丈夫です」
彼女が『源氏物語』を机の隅のほうに置き直すのを見て、もうふたりとも、ただの〝図書委員〟になったのだな、と思った。また扉が開いて、ふたりの女子生徒が入ってきた。そろそろ、図書室が賑わいはじめる頃だろう。俺は紫月さんの隣で、真面目に図書委員の業務に励んだ。
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