第53話 夏の日の彼女は

「暇ですね、花咲先輩」

「うん、そうだね」


 一学期期末考査が終わったあとの、七月の放課後の図書室。本の貸し借りに来る人がまったくおらず、紫月さんと俺は暇を持て余していた。


「てか、紫月さん。目どうしたの? ちょっとさっきから気になってたんだけど」

「ああ、これですか? ただのものもらいですよー」


 その日は、左目に眼帯を着けていた紫月さん。彼女は夏になっても長袖のブラウスを着ていた。「クーラー効いてて寒いので」と言って、図書室で俺と会うときには薄手のカーディガンも着ている。


 あの日以来彼女の手首を見てしまうことは一度もなくて、今も傷があるのかどうかはわからなかった。


「今日ポニーテールなんだね。爽やかでいい感じじゃん」

「……ありがとう、ございます」


 今日の彼女の髪型はポニーテールで、色白のうなじがちょっぴりえろい。ほんのりと頬を染めた彼女は、口角を少しだけ上げて微笑んだ。


 なんとなく、彼女とはだんだん仲良くなれた気がしている。満面のにっこり笑顔は見たことがないけれど、作り笑いじゃなさそうな微笑みはよく見られるし、よく彼女から話しかけてくれるから。


「……先輩って、好きな本とかありますか?」

「んー、なんだろ。あんま本読まないんだよね。漫画は読むけど」

「そうなんですか……」


 俺の答えに、紫月さんがしゅんと落ち込んでしまったように見えた――いや、明らかに落ち込んでいた。寂しそうな顔をさせ続けたくなくて、俺はどうにか話を続けようとする。


「紫月さんは、何か好きなのあんの?」


 そう尋ねると、彼女の表情から寂しさが消えた。ほんのちょっとだけ嬉しそうに、彼女は本の話をする。その表情が可愛くて、他のやつらには見せたくないなと思った。


「定番ですけど、『人間失格』と『こころ』は好きです。最近は、『源氏物語』の現代語訳されたのを読んでます」

「へぇー」


『人間失格』も『こころ』も、俺はちゃんと読んだことはなかった。明治や大正の文豪が書いた文章は堅苦しいイメージがあって、あまり進んで読もうと思えなかったのだ。


 ただぼんやりと、どちらも暗い感じの話だった気がするな、ということは覚えていた。だから彼女の口からその題名を聞いたとき、紫月さんらしいと思った。


 彼女の心の闇に触れられずに、けれど明るい笑顔が見てみたいと、楽観的に願った。


「先輩の好みに合うかは分かりませんけど、こういう文学作品を漫画にしたのって最近よく出てるみたいですよ。私は、『源氏物語』の漫画は特に気になってます」

「なに、エロ漫画?」

「もう、先輩ったら。性描写はまあありますけど、そういうのじゃないです……と、思いますよ?」


 彼女が「エロ漫画」という単語だけで恥ずかしそうに頬を染めるから、本当に純粋な子なのだなと思った。俺は本当に、なんにも知らなかったのだ。


 エアコンのせいで空気が乾燥している図書室で、控えめな声で彼女と話す。鈴が鳴るような声で、彼女がときどき可愛く笑う。友だちと馬鹿笑いする時間も楽しかったけれど、彼女と過ごす穏やかな時間も好きだった。


「紫月さんって、声キレイだよね。詩の朗読とかしてほしい声」

「そうなんですか? 今まで声褒められたことなんてなかったですけど……例えばどんな詩がいいと思います?」

「教科書に出てたようなのしか俺知らないけど、『レモン哀歌』とか」

「あ、あれ良いですよねー。お望みでしたら、夏休み明けにでも読みましょうか? 練習しときますよー?」


 ちょっとふざけたような調子で、彼女が尋ねる。そのとき本当に、彼女が〝普通の女子高生〟に見えた。最初の印象とは違った意味の、どちらかと言えば良い意味で。


 彼女がクラスで誰かと仲良くしたり、笑ったりする姿を想像できるような、明るさを見たのだ。今の彼女になら、リスカ痕なんてないのではないかと思った。


 きっとこのときの俺は、自分でも気づかないうちにフィルターがかかっていた目で、彼女の表面の理想的なところばかりを見ていたのだろう。なんにも気づけなかった。

 

「じゃ、楽しみにしとく」

「あっ、冗談じゃなかったんですね。じゃあ練習します。……そういえば今日、夏休み前最後の当番でしたっけ」

 

 彼女がまた寂しそうな瞳で遠くを見つめるから、勘違いしてしまいそうになる。彼女も毎週火曜日の昼休みと放課後を、居心地良く思っているのではないかと。


 ふたりで話せるこの時間を、彼女も愛おしいと思っているのではないかと。


「うん、そうだね。次会えるのは夏休み明け」

「そうなんですね。……先輩。今日特にご用事なかったら、一緒に帰ってもいいですか?」

「うん、いいよ」



 放課後の当番のあと、彼女と一緒に昇降口を出る。春には薄紅色の花で彼女とその同級生たちの入学を祝った桜並木は、青々とした葉っぱで生い茂っていた。


 木漏れ日に照らされた彼女の顔をふと見て、息を呑む。出会った日には平凡だと思っていた顔が、嬉しそうに綻んでいて、過去最高に可愛く思えたのだ。


「紫月さん、なんか嬉しそうだね」

「はい、嬉しいです。なんでだと思いますかー?」

「……もうすぐ夏休みだから?」

「ぶっぶー、不正解でーす」


 いったいどうしたのだろうと、一周回って心配になるくらい、彼女はケラケラと楽しそうに笑う。帰り道、ずっと彼女は笑ったままだった。


「じゃあね、紫月さん。また九月に」

「はい、花咲先輩。送ってくれてありがとうございました。……またね、です」


 そう言って、彼女の家の前で手を振って別れた。しばらく歩いてから気まぐれに振り返ると、まだ彼女はこちらを見て突っ立っていて、腕をぶんぶんと振って「またね」と口パクした。


 その夏の日の彼女は、本当に楽しそうに生きていた。


 俺は当たり前のように、九月になったら火曜日の昼休みと放課後にはまた彼女と過ごすのだと思っていたし、彼女が休みの間に練習した詩の朗読を聞かせてもらえると思っていた。


 彼女が死ぬなんて、まったく思っていなかった。

 


✿ ✿ ✿



 [ハナー、今日休校だってね]


 九月一日の朝、通学電車で陽一から送られてきたメッセージ。スマホの通知欄を見ると、なるほどたしかに学校からの連絡メールが送られてきている。


 それを見るよりかこいつに尋ねたほうが早いだろうと、俺は陽一に事の子細を聞いてみた。学校内外での噂もいろいろと知っているやつなら、連絡メール以上の情報も持っているかもしれないとも思った。


 [は? なんで? もっと早く休校連絡来てれば今日もっと寝坊できたのにな笑]


 休校になるという異常事態。なにか悪いことが起きたのだとはわかっていたはずだった。


 けれど、夏休み明けの登校日と言えばとにかく面倒くさいもので、それが潰れるならもっと早く教えてほしかったということばかりが頭にあって、理由なんて正直大して気にしていなかった。

 

 ただ、話のネタとして。なにかあればみんなで好き勝手に噂して騒ぎ立てるのが、俺たちの〝普通〟だった。そのノリに乗るためだけに聞いたようなものだった。


 [それな。なんか、飛び降り自殺だって。警察とか来てるみたい。ま、9月1日の自殺なんてあるあるか]


 自殺。まさか自分の学校で、と多少は驚いたものの、ただそれだけでは哀れみも悲しみも抱かなかった。


 [学校で自殺とかめっちゃ迷惑じゃん。で、誰が死んだん?]


 同じ学び舎に通う、知らない誰かさんが死んだって、変わらず日々は巡っていく。悲しみを引きずってつらいのは、その人と関わりがあった人だけだろう。


 そう、思っていた。




 [1Fの紫月らしーよ]




「……は?」


 画面に表示された文字が信じられなくて、思わず声を上げる。同じ車両に乗っていた何人かがちらりとこちらを見た気がしたが、そんなことはどうでもよかった。


 何度も何度も同じ文字を見直す。



 『1Fの紫月らしーよ』


 

 けれども何度見ようとも、そこにある文字は変わらない。そして〝1Fの紫月〟に該当する人間は、あの紫月 桜子だけだった。


 まだまだ夏の暑さが残る九月一日、スマホを握る自分の手を妙に冷たく感じた。血が通っていないようでいて、けれどいつもより重たい手。


 紫月さんが、死んだ?

 学校で飛び降り自殺して? なんで?


 まったく意味がわからずに、これが悪い夢であることを期待した。そのまま電車に揺られて、いつも通りに学校へと向かう。


 けれどそこに広がる光景はいつも通りではなく、警察がいた。近所の人もなぜか集まっていて、どうしても異常事態が起きたことを突きつけられた。


 最後に会ったときは笑っていたのに。

 詩の朗読、聞かせてくれるはずなのに。


『またね』って、言ったのに。


 紫月 桜子は、そんなことどうでも良かったらしい。詩の朗読も、また会うことも、楽しみにしていたのは俺だけだったようだ。

 

 どうしてこんなにも切なくて、胸が苦しくなるのだろう。彼女に心をもてあそばれたようで、ものすごく憎たらしかった。



 彼女の自殺の報道が、テレビのニュース番組でやっていた。翌日、緊急で開かれた全校集会でも言われた。ネットニュースにも出てきたらしい。掲示板サイトにも出てきたらしい。


 ただ俺は、テレビのニュースを一度見たきり、彼女の自殺についての他の報道を見られなくなった。彼女のことが書かれたものを見てしまうのが怖くて、SNSアプリも開けなかった。


 九月十二日の火曜日。図書室に行っても、紫月さんが来ない。その日のカウンター業務に来た図書委員は俺ひとりだった。司書の先生が、「当番変えたほうがいいかしらねぇ」なんて言う。


 当番表の「花咲 薫」の隣には、まだ「紫月 桜子」の名前が残っているのに、現実の俺の隣に彼女はいなかった。


 彼女の通夜や葬儀は、ひっそりと静かに終えられたらしい。


 紫月 桜子は、もうどこにもいなかった。クーラーが効いて乾燥した図書室にも、桜並木の木漏れ日の下にも、外壁の薄汚れたアパートにも――


 彼女は、いない。

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