第36話 恋敵 −後−

「だから、先輩なんて別にお兄ちゃんの恋人でもなんでもないじゃないですか」

「貴女、口の利き方には気をつけたほうがいいわよ。私を誰だと思ってるの?」

「お兄ちゃんに抱かれた女のひとりでしょう? ……ただセックスしてもらっただけで調子乗っちゃって、馬鹿みたい」

「なっ……!」


 これはまずいことを言ってしまったなぁ、と自覚したのとほぼ同時に、パァンと頬が鳴った。耳のあたりがじんじんと熱くなる。どうやら桜子は、青柳先輩から平手打ちを食らったらしい。


「お兄ちゃんが、怒りますよ」

「お兄ちゃんお兄ちゃん、って。自分が打たれたって言うのに、自分で怒ることもできないわけ!?」


 殴られた頬を手で押さえながら、桜子は青柳先輩を見上げた。彼女は、きっと花泥棒先輩に本気の恋をしている。そうわかっていても、絶対に手伝うことはしない。なぜなら桜子も、彼に本気の恋をしているからだ。


 桜子が生きていることを許した彼に、叶わない恋をした。そもそも、いま生きていることが、奇跡みたいな人生だった。桜子には、花泥棒先輩しかいない。


「だって、お兄ちゃんしか大切にしてくれないもん。私のこと、なんて」

「は……?」

 

 どうせ、花泥棒先輩への恋に溺れている青柳先輩には、桜子のことなどわからないだろう。桜子が、どれほど先輩に救われたのか。桜子が、どれほど彼を愛しているのか。


「……それで結局、何の用なんですか? 早くしてほしいです」

「花くんが、貴女が近くにいるせいでちゃんとした恋人をつくれないみたいだから。……身の程をわきまえろと、言いに来ただけよ」

「なるほど。かしこまりました。なれると良いですね。お兄ちゃんの恋人に。では、さようなら。青柳先輩」


 冷たい風が吹く秋の朝、彼女に叩かれた左頬だけが熱かった。それ以外の部分は、指先も心臓も、一瞬でひどく冷めきってしまったような気がした。


 そんなに酷くならないと思うけど、腫れたら先輩が心配するだろうな、と。そう思って桜子は、保健室へと足を運んだ。



❀ ❀ ❀



 青柳 明穂。ムカつく女。恋人になれるなら、私のほうがなりたいわ、ボケ。


 そう心のなかで口汚く罵りながら、桜子は購買で買ったパンたちをやけ食いしていた。


 イライラして栗鼠りすみたいに食べ物を頬張っている姿を、紗衣ちゃんと彩奈ちゃんに見られるのは嫌だったので、外のベンチでぼっち飯をしている――いや、していた。のだが。


「あれ? 今日先客いるじゃん――って、紫ノ姫ちゃんだ。久しぶり」


 はて、『久しぶり』と言ってきたこの男はいったい誰だろう。カレーパンを食べながらぼんやりしていると、もうひとりの男がやってきた。


「紫? 紫ってあの――あっ」

「ああ。お兄ちゃんに彼女を寝取られた人」


 浅黒い肌の髪の短い男子生徒を見て、ようやく誰だか思い出した。四月に先輩に彼女を寝取られた、陸上部の副部長さん――最近部長になった――と、そのお連れ様のチャラチャラとした人だ。


「うわ。その言い方ないだろ。それに何ヶ月の話だって……」

「すみませんね。それしか印象なくて。名前なんでしたっけ。……ああ、そうでした。高飛び選手の高藤たかとう先輩だ」

「知ってたんだな。そりゃあどうも」

「俺はとも たくろう。こいつが高藤たかとう しゅん。紫ノ姫ちゃんのお兄ちゃんのクラスの隣の、B組の野郎どもです」

「へえ。改めましてよろしくお願いします。友井先輩、高藤先輩」

「……ああ」


 カレーパンを食べ終えると今度は焼きそばパンの袋を開け、桜子はそれをムシャムシャと食べはじめた。高藤先輩と友井先輩は、ずっとベンチの近くに突っ立ったままだ。


「何してるんですか」

「いや、ここ俺らの定位置だったからさ」

「つまり退けと?」

「そういうわけじゃないけど。……てか、あんた。見かけによらずよく食べるんだな」

「今日は、やけ食いしてるんです」

「兄貴と喧嘩したとか?」

「はい。ほぼ正解です」


 飲むプリンにストローをぶっさし、ホイップクリーム入りのメロンパンを食べはじめる。「カロリー鬼だろ……」と言う高藤先輩のことは無視して、ひたすらにパンを頬張った。


「……なんでまた、喧嘩したんだ?」

「高藤先輩、見ず知らずの後輩の相談に乗る趣味なんてあったんですか?」

「いや、ないけど」

「じゃあ放っておいてくださいよ。叶わない恋しちゃった私の気持ちなんて、どうせわかんないでしょうから」

「あ、紫ノ姫ちゃんそういう系? お兄ちゃんにガチ恋しちゃった系?」

「……お兄ちゃん、いつも他の女とばっかり一緒にいるから、寂しいんです。もっと、私とも一緒にいてほしい」


 いったい桜子は、誰にこんなことをぼやいているのだろう。ただ四月に一度廊下で会っただけ、今日も偶然鉢合わせただけの人に、何を相談しているのだろう。自分に余裕がないのだなということに気づいて、ちょっぴり落ち込んだ。


「……なら、言ってみれば良いんじゃないか?」

「へ?」

 

 桜子はプリンを飲みながら、意外なことに返答をくれた高藤先輩を見上げた。高藤先輩は、やや決まり悪そうに話しつづける。


「俺は、告白してすぐにあの野郎に彼女寝取られたから、あんましわかんないけど。なんか思うことあるなら、言ってみる価値はあると思う。兄貴に恋してるなら、どうなるか知らんけど言ってみても良いと思うし、ただ寂しいって言うのもありだと思う」

「……高藤、先輩」

「安易だけど、恋愛の告白ならクリスマスの日とか良いんじゃない? 定番だけどロマンチックだし、あいつ案外そういうの好きそうじゃん」

「友井先輩……」


 四月のときは道端の蒲公英たんぽぽだったが、今なら花壇の鳳仙花ほうせんかくらいには思えるかもしれない。高藤先輩と友井先輩がアドバイスらしきものをしてくれて、桜子は思わずちょっと感動した。意外と良いやつらじゃないか。


「……そうですね。伝えてみるのも、いいかもです。ありがとうございました。高藤先輩、友井先輩。ちょっとだけ、勇気持てました」

「それは、良かったな」

「食べ終わったので、私もう行きますね。定位置取っちゃってすみません」

「いや、全然平気。またね、紫ちゃん」

「はい、ではまた」


 桜子は足取り軽く、寒空のなかを小走りで駆けていった。


 ――告白。そうだ、告白してみれば良いんだ。


 今まではぐでぐでと一緒にいたせいで忘れかけていたが、男女交際のはじまりなんて大体は告白だろう。彼と男女の仲になりたいなら、告白が必要だったんだ。

 玉砕覚悟でも、一度ははっきり伝えておきたい。私は先輩のことを心から愛していて、唯一の恋人になりたいと、本気で願っているのだと。


 クリスマスイブに、先輩とは遊園地デートをする約束をしている。そこがちょうど良いタイミングだろう。今まで言えなかった告白を、そのときにしよう。彼にしっかりと想いを伝えよう。一年契約が終わっても、貴方の恋人として、隣にいたいのだと。


 桜子は、彼との関係性を変える一歩を踏み出すことを決意した。

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