第35話 恋敵 −前−

 本格的に肌寒い、十一月になった。ある日のお昼休みのこと、桜子は廊下を全速力で走り抜けて、飛ぶように階段を下りていた。やばい。やばい。やばい。


 息が上がって苦しくなっても、足が痛くなってきても、走るのを止められなかった。上履きのまま外に出て、冷たい空気を思いっきり吸い込む。過去最悪に嫌な光景を見てしまった桜子は、かなりのショックを受けていた。あの教室から、花泥棒先輩から、一刻も早く離れたかった。



 桜子はクラスで、国語総合の係をやっている。教科担当の唐田先生から、「古典の助動詞の冊子を今度の授業で使うから、事前に国語教材室に取りにきて、配布しておくように」との連絡を今日の朝に受け、桜子はお昼休みに国語教材室に向かった。薄い冊子だからひとりで十分運べる重さだとのことだったので、紗衣ちゃんや彩奈ちゃんとは一緒にいなかった。


 国語教材室は東棟の三階にある。桜子は二階の教室から三階に上がって、冊子を取りにいこうとした。けれどそのとき、不運にも見てしまったのだ。講義室のひとつで、花泥棒先輩が、他の女を抱いている真っ最中であった光景を。電気の点いていない教室で、他の女と繋がっていた彼の姿を。


 相手の女は、三年の青柳あおやぎ あきだった。青柳先輩は、おそらく花泥棒先輩に抱かれた回数ナンバーワンの女子生徒だ。彼女だセフレだ婚約者だと、さんざんいろいろ噂されている人である。ある意味、〝紫ノ姫〟に次いで、〝花泥棒〟関連で特別視されている人だとも言えた。


 そんな彼女が、今まさに、花泥棒先輩に抱かれている。彼女のほうは、まあ、抱かれる女らしい表情をしていたからまだ良い。問題は花泥棒先輩のほうだった。


 彼が他の女とキスをする姿や、太腿に触ったりしていちゃいちゃする姿は、過去にも目にしたことがある。先輩は、彼女たちを好いているように見える表情で、彼女たちに触れていた。嫌そうな素振りは見せずに、笑顔でいる彼を見て、まんざらでもないのだろうと桜子は思っていた。だから、女を抱くときも、そうなのだろうとばかり思っていた。


 彼の表情を見て、あんなに恐ろしく思ったことはない。あんなに彼が冷たい表情をしていたのを、桜子は今まで見たことがなかった。青柳先輩を抱く花泥棒先輩の表情は、ひどく暗く冷たく、生気がなかった。絶望、という言葉も頭に浮かんだ。


 花泥棒先輩は、女を抱いても、まったく満足してなさそうだった。楽しくなさそうだった。気持ちよくなさそうだった。むしろ、彼女に向けられていたのは――恨みや憎悪といった感情のように思えた。


 好きな人が他の女を抱いている。生々しい現実を見て、気分が悪くなる。けれどそれ以上につらかったのは、彼のあんな表情を見てしまったことだった。


 何と言っていいのか、よくわからない。彼の表情の意味を、きっと桜子は正しく理解できていない。

 ただひとつ言えるのは、女を抱くことで、花泥棒先輩が傷ついているように思えたということ。彼は自分を傷つけるように女を抱いているのだと感じたということだった。


 どうしても、わからない。先輩のことが、わからない。なんで、あんなに怖い顔をして、女を抱くのだろう。もし仮に桜子が抱かれる日が来たら、同じようにあの冷たい表情を、真っ直ぐに向けられてしまうのだろうか。そうなるのは怖いな、と思う。


「あっれ、ハナの妹じゃん」

「……陽一」


 花泥棒先輩のことを悶々と考えていると、彼のお友だちであるチャラ男こと陽一が、桜子に声を掛けてきた。こんなときに話しかけてくるなんて空気が読めない男だ。


「なんか妹、俺のこと睨みつけてない?」

「いえ、別に」

「機嫌悪いね。ハナと喧嘩した?」

「喧嘩じゃないです。……お兄ちゃんはたぶん、私のこと気づいてないし」

「あー、ね。今日は――……ああ、青柳 明穂か。ま、元気出せって」

「触んないでください。キモい」


 なぜか桜子の頭のほうに手を伸ばしてきた陽一を、桜子は全力で避ける。髪の毛一本たりとも、花泥棒先輩でない男に触らせるつもりはない。


「ごめんごめん」と軽く謝る陽一に、あの講義室の前を通らずに国語教材室に行く道を教えてもらって、桜子は無事に古典の助動詞の冊子を配布することができた。陽一には多少は感謝しているが、しつこくいろいろ話しかけてきたところは、とてもウザかった。

 


❀ ❀ ❀



 枯れた落ち葉が風に巻き上げられ、カラカラと音を立てているのが聞こえる。十一月のある日の朝。


「紫月さん。貴女、花くんにべったりしすぎじゃない?」

「……はぁ?」


 桜子は、青柳先輩に校舎裏に呼び出され、どういうわけか睨みつけられていた。受験生だと言うのに後輩をいびる暇があるだなんて、よっぽど成績が良いのだろうか。それとも、今やるべきことの取捨選択ができない馬鹿なのだろうか。


 青柳先輩が、刺々しい声で言い放つ。


「紫月さん。貴女、花くんのこと好きでしょう」

「そりゃあ、もちろん。お兄ちゃんなんだから好きに決まってます」

「そういうことじゃないわ。貴女たち、本当は兄妹じゃないでしょ」

「兄妹ですよ。血の繋がりはないですけど、親の離婚と再婚のいろいろを経て、今は兄妹です」


 とは言っているものも、そういう「設定」なだけで、実際は花泥棒先輩のご両親は離婚の気配もないくらいに夫婦円満らしいが。羨ましいことこのうえない。


「じゃあ、妹だってことにしておいてあげるわ。でも、貴女はこの年にもなって恥ずかしいとは思わないの? あんなに兄離れできてないなんて」

「別に全然恥ずかしくないですね。私、お兄ちゃんいないと死んじゃうと思いますし」

「花くんとは違って馬鹿なのね。そういう依存状態が恥ずかしいって言ってるの」

「私としては、ただお兄ちゃんとセックスしたことがあるだけの先輩が、こんなふうに私に突っかかってくることのほうが恥ずかしいと思いますけどね」

「……なんですって?」


 ついうっかり口を滑らせてしまったかもしれない。花も恥じらうお年頃の女子高生が、特に親しくもない人の前で「セックス」なんて単語を口にするのは、あまりよろしくないような気がした。下品だと言われかねない。が、どうせこの女に言えたことではないだろうと、知らんぷりをすることにした。


 桜子の声にも、しだいにとげが含まれはじめる。

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