第29話 文化祭一日目、紫の上

「やっほ、桜子ちゃん」

「え、はな――お兄ちゃん!?」


 いったい誰が来るのだろうと思っていたら、やってきたのは花泥棒先輩だった。てっきり彼はもう自分のクラスのシフトに入っているのだとばかり思っていたのだが。


 そういえば、紗衣ちゃんが『一番目のお客さん以外とはお話ししちゃ駄目』と言っていたなと思い出し、桜子はいまさらその意味を理解する。紗衣ちゃんはきっと、花泥棒先輩がここに来るということを言おうとしていたのだ。今はふたりきりのようだけれど、桜子はしっかりと、紫の上役の姿で〝紫ノ姫〟を演じる。


「お兄ちゃん、なんでここに? 他のお客さんはいないの?」

「へへっ、俺だけファストパス使ったんだー」

「力でねじ伏せたってこと?」

「そうとも言うね」

「まったく、お兄ちゃんったら」

「三分間だけ、桜子ちゃんのお友だちに頼んで、時間もらったんだ。いいお友だちができたね」

「うん。さくら、友だちできて嬉しいよ」


 先輩がいつも通りに頭を撫でようとしたようだったが、彼の手は中途半端に空で止まった。


「お兄ちゃん?」

「いや、今は髪の毛ボサボサにしちゃ悪いなって」

「うん。そだね。ねえ、お兄ちゃん、この格好どう思う? 紫の上、似合ってる?」


 桜子が身につけているのは、紗衣ちゃんが作ってくれた十二単風の衣装で、『源氏物語』の「たまかずら」の巻の「きぬくばり」で出てきたものをイメージしたものだ。紅梅の文様が織られための御小袿おんこうちきっぽいのものが一番上にきていて、袖口はピンクのグラデーションのこうばいがさねのようになっている。

 

 お化粧は彩奈ちゃんにやってもらって、花泥棒先輩にしてもらうときよりも、どこか色気のある仕上がりとなっていた。平安らしさはあまり出さずに、現代の「おフェロメイク」の進化版の「メェロメイク」というのを彩奈ちゃんは桜子にほどこしてくれたらしい。

 唇は内側が濃い赤色になるようにグラデーションにしてもらい、艶々のさくらんぼみたいに仕上がった。先輩が、キスしたいと思ってくれたらいいなーと、桜子は淡い期待をする。赤い照明のせいで、どちらかと言うとホラーな感じに見えているかもしれないが。


「いつもと違う感じの可愛い、って感じかな。桜子ちゃんは美人さんだね。すごく綺麗だよ」

「ふへへっ、ありがと。お兄ちゃん!」

「クイズしないの?」

「あっ、そっか。お兄ちゃんには、さくらがクイズ出さないとなのか」

「うん」

「えっとねー、じゃあ……質問は、『紫の上は、幸せだったと思う?』で。さくら、お兄ちゃんの考えが聞いてみたいな」


 紫の上は幸せだったか。『源氏物語』に関して聞く問いとしては、ありきたりだったかもしれない。


 紫の上は、源氏の最愛の女性だったと言われるひと。長年源氏と連れ添ったひと。けれどすべてを手に入れられたというわけではなく、正式な妻としては迎えられていないし、源氏との間に子どもはできていないし、出家を願ってもさせてもらえなかった。

 長い間源氏の浮気に心を痛めていた紫の上。源氏の正妻の座を女三宮おんなさんのみやにとられてしまった紫の上。彼女は最後には、源氏よりも先に旅立った。


 源氏の最愛の女性、紫の上。彼女は――紫の上は、はたして幸せだったのだろうか。


 平安の世のフィクションの物語と、現実の平成の世が違うことはわかっている。けれどなんとなく桜子は、紫の上に自分を重ねて見てしまうところがあった。彼女とまるっきり同じ状況というわけではない。けれどどこか、彼女は私に似ている気がする。


 何秒間か、十数秒間か。しばし黙っていた花泥棒先輩は、桜子を真っ直ぐに見つめて口を開いた。


「幸せだったとは、言いきれない。と、俺は思う。意見っていうか、俺の願望みたいなとこもあるけど。源氏に対しては完全に愛想尽かしててほしいし、失望しててほしい。幸せだったなんて、思ってほしくないかな。なんなら恨んでてほしい」


 その言葉は、紫の上にではなく、桜子に向けられたような気がした。他の女とばかり肌を重ねる先輩に、桜子が愛想を尽かして失望して、彼と過ごす日々を幸せだと思わないでほしいと、言われているように思った。


 そういえば、源氏は紫の上に、藤壺の面影を重ねていた。そういうところも考えると、なんとなく、花泥棒先輩の今は亡き彼女さんに重ねられている自分と紫の上には、やはり通ずるところがあると思ってしまう。

 藤壺の面影を求め続け、その面影を持つことを期待して女三宮を正妻にした節がある源氏が一番愛していたのは、紫の上ではなく藤壺かもしれない。花泥棒先輩が一番に愛しているのも、桜子ではなく、死別してしまった前の彼女さんなのかもしれない。


 私は、彼に一番に愛される女ではないかもしれない。そう思うと悲しくなった。どうしたって彼女を越えられない。先輩が例の彼女さんのことを忘れる日は、きっと永遠に来ない。


 桜子は悲しみを見せないようにして、できるだけ柔らかく微笑んだ。


「残念。さくらとは解釈違いみたいだから、ハズレ扱いね」

「桜子ちゃんは、幸せだったと思う派なの?」

「うん。好きな人が、他の女と遊んでても――自分が一番だったら、死ぬときには、幸せだったなって思えると思う。もし、万が一、一番じゃなくても……好きな人にいっぱい愛されてたら、幸せだよ」


 もしも桜子が、このまま死んだとしても。きっとこの人生を、幸せじゃなかったとは思わないだろう。


 花泥棒先輩と過ごした日々を思えば桜子は、幸せだったと思って死ねるはずだ。紫の上がどうだったかは、わからないけれど。


 桜子は笑って、先輩にひとつの飴を差し出した。


「まあ、死んでみないとわかんないけどね。はい、景品の飴」

「そっか。ね、飴。食べさせてくんない? そろそろ時間やばめだけど」

「そういうサービスないんだけどなぁ。ま、仕方ないから食べさせてあげるね。お兄ちゃんには、トクベツ」


 桜子は透明の小袋に入った飴を取り出すと、先輩の唇まで持っていった。ころんと、先輩の口のなかに飴が入る。彼の口元に、苦笑が浮かんだように見えた。


「また、レモン味だ」

「あ、そうなんだ。照明赤だから、何味かわかんないんだよねー」

「またあとでね、桜子ちゃん。バイバイ」

「うん。バイバイ。お兄ちゃん」


 桜子は小さく手を振って、出口へと向かっていく花泥棒先輩を見送った。そのあとは他の幽霊役の子が出したクイズの正誤に合わせて、やってきたお客さんに、ひたすら飴を渡すだけの役割を演じた。

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