第24話 九月一日 −前−

 八月三十一日、木曜日の夜。明日から始まる学校に備えて、桜子が鞄の中身を確認していると、先輩に後ろからハグされた。


「桜子ちゃん、今夜は寝かせないよ」


 良い声が耳元でそう囁くも、簡単には騙されない。こんな台詞を言ってきたって、きっと彼は今日も桜子を抱かないのだろう。いったいなんのつもりだと、桜子は彼のほうを振り返った。


「なんかデジャヴですね。出会った日にも似たようなこと言われた気がします。明日は学校なので、今日は早く寝ましょう?」

「桜子ちゃん、今日は徹夜でゲームしよう」

「はいはい――って、ゲーム?」

「うん。ゲーム」

「徹夜でゲーム」

「うん。徹夜でゲーム」


 夏休み最終日に、徹夜でゲーム。先輩は、明日の朝、寝坊してしまうことが怖くないのだろうか。驚きのあまり聞き返した桜子に、先輩はにっこりと笑った。可愛い。こんな顔をされちゃ困る。ときめいてしまうじゃないか。


「ゲームって、なんのゲームやるつもりです? マメカートなら、私絶対負けるのでやりませんよ」

「豆カーじゃないって。いきものの森だよ」

「いきものの森……って、あれ、徹夜でやるようなゲームでしたっけ。スローライフものだと思ってたんですけど」


〝いきものの森〟は、折りたたみ式携帯ゲーム機で遊べる、シュミレーションゲームソフトのことである。いきものたちが暮らす村に人間のアバターが引っ越して、虫をとったり釣りをしたり、季節のイベントに参加したりして、ゆるりと生活していくゲームだ。3Dに見えちゃったりもするそのゲーム機がこの家には二台あり、ソフトも二個あるので、桜子と先輩はそれぞれの村でアバターを作って村長をやっていた。


「リゾートで高額虫乱獲しちゃおうぜ、桜子ちゃん」

「うわー、環境破壊。先輩ったらいけないんだー」

「一緒に家のローン完済目指そ?」

「たしかに部屋の増築はしたいですね」

「じゃ、遊ぼっか」

「仕方ないですね。遊びます」


 先輩からピンク色のゲーム機を受け取り、電源を入れる。いきものの森を開くと、花泥棒先輩の桜色の髪に憧れて、髪をピンク色にしてしまった――という、なんとも恥ずかしいアバターが家から出てきた。たぶんスルーしてくれると思うけれど、もし先輩に聞かれたら、ピンクが好きだからピンクにしたのだということにしておこう。


「通信プレイってどうやるんでしたっけ」

「駅からじゃない? あの、上のほうのやつ」

「あー、あれですね。了解ですー。先輩のほう行けば良いんですよね?」

「うん。そうそう。開けとくね」

「はーい」


 ピンク髪女子のアバターが電車に乗って、先輩の村へと出かけていく。彼女を出迎えてくれた、先輩のアバターの男の子の髪は、ありきたりな黒髪のままだった。


「先輩は髪の毛黒なんですね」

「うん。俺もともと髪黒かったしね」

「雪美さんみたいに?」

「そう。姉貴とおんなじような髪だったんだよ。今の姿からじゃ、想像できないだろーけど」

「でも、先輩は黒髪でもかっこいいでしょうね」

「ん、ありがと」


 先輩が軽く微笑んで、桜子の髪を撫でた。ちょっと悲しそうな顔をしているのを見て、なんでだろうと首を傾げる。桜子はアバターをしばらく先輩の村で走らせてから、彼のアバターと一緒にリゾートの島に出かけた。ここで虫を大量捕獲して、村に帰ったらそれを売ってガッポガッポと儲けてやるのだ。たまに魚を釣ったりミニゲームをしたりしながら虫をとって、村に置いてきては、またリゾートへ出かけるというのを繰り返した。


 やがて日付が変わって、九月の一日になる。いつもは夜十一時頃にはベッドに入るものだが、まったく移動する気配がないので、先輩は今夜は本気で徹夜するつもりらしい。桜子は起きていられるだろうか。


「紫月さん」


 先輩の声に驚いて、桜子はホソアカクワガタをとり逃がした。先輩のほうを見ると、彼はなんだかおかしな表情をしていた。寂しそうな、悲しそうな、でも少し喜んでもいそうな――変な顔だ。


「え、突然なんです? 先輩。名字呼びなんて気味悪い」

「ひどいな。ただ、ちょっと呼んでみたかっただけだよ」

「なんかよそよそしくて、その呼び方嫌なんですけど」

「うん。ごめんね、桜子ちゃん」

「虫とり飽きたんで、素潜り行っても良いですか?」

「うん、いいよ」

 

 虫とりを一旦やめて、桜子と先輩のアバターはマリンスーツを着て海に潜る。しばらく素潜りをして、また虫をとり、ときどき魚を釣り……というのを繰り返していると、気づけば二時を過ぎていた。もうすぐ丑三つ時になってしまう。こんな遅くまで先輩と起きていたのは、きっとこれが初めてだ。


「先輩。ほんとに寝ないんですか?」

「うん。寝れない」

「ねえ、先輩。先輩は……なにを、そんなに恐れてるんですか?」


 先輩が、比較的とりやすいはずのカブトムシをとり逃がした。ちらりとこちらを見た先輩の表情は、やや引きつっている。


「え? なんのこと?」

「今日の先輩、ずっと不安そうだから」

「そう? そんなこと……なくはない、のかな」

「なんかあるなら、私だって話聞くくらいはできますよ。〝お嫁さん〟なら、夫を癒やすのも役目だと思うんですけど」

「うーん。そうかなぁ」


 先輩は、しばらく黙っていた。けれどまた虫をとり逃がしてばかりだから、ゲームに集中しているというわけでもないのだろう。お嫁さんぶった桜子は、静かに彼の喋りはじめるのを待つ。ラッキーなことに、その間にオウゴンオニクワガタを捕まえられた。これは儲けられる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る