第23話 嫌な想像を否定して

 楽しかった夏休みも、もうすぐ終わり。八月の二十四日の木曜日、花泥棒先輩と一緒に、桜子は実家に来ていた。一、二週間に一度掃除をしに帰る、恒例行事である。先輩と手分けして、いつも通りに順調に、部屋を綺麗にしていった。


「あれ?」


 お風呂場を掃除していたとき、桜子は妙なものを見つけた。妙なものと言っても普段よく見慣れている、けれど、ここにあるのは違和感があるもの。


 お風呂場の排水溝にあったのは、数本の桜色の髪の毛だった。それと一緒に、これまた見慣れた――こちらは最近はあまり見ていないが、長年見てきた――赤みのある茶色の長い髪も、そこに残っていた。


 言わずもがな、桜色の髪の毛と言えば、花泥棒先輩だ。けれど桜子の記憶によれば、彼をこの家の浴室に入れたことはないはずだった。帰ってきたときにお風呂場を掃除するのは、いつも桜子の担当だ。


 もしかしたら、自分の服か何かに付いていた彼の髪が、いま掃除していたときに、ここに落ちたのかもしれない。そう考えてから数秒後、やっぱりそれはないなと首を振った。


 猫じゃあるまいし、こんなに桜子に彼の髪がくっついていることは、あり得ないだろう。掃除しに来るたびに毎回排水溝も確認しているから、この髪たちが、この一週間の間にここにやってきたものであるということは確かだ。


 そして桜色よりも問題なのは、赤茶色の髪の毛。赤茶色の髪なんて、別段珍しくもない、どこにでもいる髪の色かもしれない。けれどその抜け毛を見てぱっと思いついたのは、自分の母の姿だった。


 この家は、前まで桜子が母とふたりで暮らしていた家だ。当然この家の鍵を母も持っていて、母はいつでもここに帰ってくることができる。まあ、ここ数年はほとんど帰ってこなかったうえに、帰ってきてもろくなことなどなかったが。


 母のものらしき髪の毛と、桜色の髪の毛が、ぐちゃぐちゃに絡まり合っている。おかしな想像をしてしまい、桜子は思わず吐き気を覚えた。まさか、そんなことはありえない。


  なんとなくいつもより念入りに浴槽や壁をこすって、髪の毛をティッシュペーパーで包んで、桜子はリビングへと向かった。ゴミ袋のなかにそれを放り投げる。この家の掃除をしても大した量のゴミは出ないので、いつもまとめて先輩と暮らしている家に持ち帰って、そこのゴミ出しの日に捨てることにしていた。


  母がもしも万が一にも帰ってきていたのなら、サニタリーボックスも確認しておいたほうが良いかもしれない。もしそこに生理用品が捨てられていたら、あの嫌な推測は間違っていたのだと安心することもできる。


 そう思ってトイレに行って蓋を開け、桜子は愕然とした。嫌な推測がさらに信憑性を持つことになるなんて、思ってもいなかった。


  そこに捨てられていたのは、使用済みのコンドームだった。しかも、それは以前先輩の鞄に入っていたものと、おそらく同じものだった。袋の色と柄が、あのとき見たものと一緒だったのだ。


 コンドーム界隈のことはよくわからない。桜子が知らないだけで、もしかしたら、これはとてもオーソドックスなものなのかもしれない。もしかしたら、みんなこれを使っているというものなのかもしれない。


  けれど彼が持っていたのと同じものをこの家で見て、お風呂場にあった髪のことも考えると、どうしてもめちゃくちゃ悪い想像をした。おまけに先輩は二日前に、桜子を雪美さんに託して、どこか外へと出かけていたのだ。


 もしかしたら。もしかしたら、その日。花泥棒先輩が、桜子の母と、セックスしていたのかもしれない、なんて。 なんて、嫌な想像をしているんだろう。


 こちらも何枚ものティッシュペーパーで包んで、ゴミ袋のなかへと入れる。まったく触りたくなかったが、先輩に片付けさせるのも嫌だった。念入りに念入りに手を洗う。


「……ねえ、先輩」


 近くにやってきた先輩に、桜子は話しかけた。先輩は、普通の顔で返事をする。


「ん、なに?  桜子ちゃん」

「先輩って、私の母と会ったこと、ない、ですよね」


  声が震えて、喉がカラカラに乾いた。どうか、あの嫌な想像を否定してほしい。否定されたところで、それが真実でないかもしれないのだということはわかっていたが。

 それでも否定してほしかった。否定されなければ、息もまともにできなくなってしまいそうなくらいに、先輩が母と肉体関係を持っていたらと思うと嫌だった。先輩が、柔らかく微笑む。


「ないよ」

「……っ、そう、ですよね。あはは。変なこと聞いちゃって、すみません」


 桜子も、ぎこちなく笑った。そうだ、そんなはずないのだ。桜子に「大好き」と言う先輩が、桜子の母と関係を持つはずがない。いくら母が男とお金が大好きで、先輩が若くて顔が良くてお金を持っていたとしても、ふたりが出会うことなんて、奇跡に近いことだろう。それに、未成年である先輩に、母が手を出していたら、それは犯罪だ。だから、あれは、ただの悪い想像に過ぎない。


 先輩と一緒に、先輩の家へと帰る。彼と一緒にごはんを食べて、一緒に夏休みの宿題をしたり、ゲームをしたり、いつも通りに過ごす。いつも通りに、彼の腕のなかで眠りにつく。


 何もかもいつも通りだったのに、胸のわだかまりは消えなかった。夢のなかに、想像したのよりも生々しい光景が出てきて、目覚めた桜子はトイレで吐いた。先輩がものすごく心配してくれたけれど、彼からの愛を疑っている自分に気づくと、そう気遣われることも、つらかった。つらくて苦い、恋だった。

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