第18話 夜空に咲く花
「夏ですね、先輩」
「そうですね、桜子ちゃん」
今日は、七月の二十五日の火曜日。期末考査ではふたりともまずまずの成績を取り、花泥棒先輩と桜子は夏休みを迎えていた。
からんころんと、薄青色のビー玉がラムネ瓶のなかを転がる。しゅわしゅわとしたラムネを喉に流し込みながら、桜子は先輩と花火を見ていた。色とりどりの花が、闇夜に美しく咲いては、あっけなく散っていく。
一日中だらだらと過ごしていたら、いつの間にか夜になっていた――というのがお決まりになっている、怠惰な今日このごろ。今夜は先輩が、ベランダから花火が見えることに気づいた。どうやらどこかで花火大会をやっているらしい。
しっかり大きく見えるわけではないけれど、せっかくだし見ていようかと、ふたりで仲良くベランダに隣り合って鑑賞している。ちなみに足元には、電気式の蚊取り器のブタさんも、ちょこんと一緒に佇んでいた。
「風流ですねぇ。先輩」
「そうですねぇ。――あ、しだれ柳だ」
「綺麗ですね」
「桜子ちゃんのほうが綺麗だよ」
「ありがとうございます。先輩って、その台詞よく使いますね」
「キザっぽい?」
「そんなことないですけど、なんか照れます。……私って、そんなに綺麗ですか?」
その問いに、先輩はしばらく何も答えなかった。花火よりもずっと先、どこか遠くを見つめて、彼がくいっとラムネを飲む。いったいどうしたのかと尋ねる寸前、桜子は自分の発言のやばさに気づいた。
自分のことを「綺麗ですか」と聞くなんて、口裂け女を筆頭とした面倒くさい女がすることじゃないか。いったいなんてことを聞いてしまったのだ。頬が熱くなり、穴があったら入りたい気持ちでいっぱいになった。が、ここには穴はないので弁明するのが賢い判断だろう。そう考えて、慌てて口を開く。
「あ、あの! 先輩、これは違うんですよ。別に私は口裂け女ではなくてですね。綺麗って言って欲しいわけではなく……いえ、言われれば嬉しいんですけどね! その、ちょっと、何と言うか……忘れて、ください」
弁明失敗。桜子は撃沈した。やけ酒ならぬやけラムネ、一気に
「先輩、なんか喋ってくださいよ」
「ん、ごめん」
まるで幼い子どもをなだめるように、彼は桜子の頭を撫でた。慈しむような、でも切なそうな顔を見て、今度は桜子がだんまりになる。
つらそうな顔を見ていたくなくて、彼ではなく花火を見ることにした。 どこかの花火大会はもうフィナーレを迎えているらしく、夜空は小さなカラフルな火がたくさん煌めいて、花畑のようになっていた。綺麗だな、とは思うけれど、先輩のほうが気になって、あまり花火に集中できない。花が一度散りきって静かになったあと、ようやく先輩は口を開いた。
「桜子ちゃんは、ものすごく綺麗だよ。声がキレイで、笑った顔が可愛くて、ずっと大好き」
その『大好き』の告白は、いつもとどこか違っていた。まるで本当の愛の告白のようで、今までの秘密を白状するような声だった。
私に向けられた告白のはずなのに、彼は私を見ていないみたいだ。そんなおかしな感情を桜子は胸に抱く。
「……だから」
ゆっくりと、ほんの少しだけ震えた声で、彼が言葉を紡いでいく。
ひときわ大きな花が、夜空に咲いた。そこから小さな花が生まれた。チカチカと長く明滅してから、すべてが儚く散っていく。煙のあとだけが残る暗闇には、もう花は咲かない。これからは、静かな暗い夜になる。
桜子は、隣に咲く桜色の花を見た。大好きな花泥棒先輩。本当の名前を、花咲 薫。……大好きな、薫くん。
「桜子ちゃんは、幸せになってね」
その言葉は桜子の幸せを願う言葉だったのに、なぜか見捨てられるように感じた。隣にいる彼のことを、ひどく遠くにいるように感じる。
「先輩は? 幸せに、ならないんですか?」
「俺は幸せになれないよ。俺は、汚い花泥棒だから」
「先輩は、どうして――」
「桜子ちゃん」
桜子の言葉は、花泥棒先輩のはっきりとした声にさえぎられた。勝手に拒絶されたような気になって、もう一度尋ねようとすることはできなかった。先輩が逃げていってしまうような気がして怖いのに、一歩先まで踏み込むことができない。
「はい、先輩」
臆病な恋心が、おとなしい返事をさせた。
「水族館でした話、覚えてる?」
「なんのことですか?」
「クラゲが水信玄餅みたいって話」
「はい、覚えてますよ」
「水信玄餅、食べにいこーよ」
「と、言いますと?」
「来週から山梨行こう。レンタル別荘。保護者だとか言って姉貴とその彼氏もおんなじとこ泊まるけど、部屋は完全に分けてるからそんな気まずくはならないと思う。……いい?」
「先輩と、旅行ってことですか?」
桜子は平静を装って、先輩に確認した。唇が緩んでふにゃふにゃになってしまいそうなのを、どうにか制御しようと努力したが、ほとんどうまくいっていなかったかもしれない。
「うん、旅行。ちょっといつもと違うとこで、のんびり過ごそう」
「先輩」
「うん? 嫌?」
桜子がぶんぶんと激しく首を振ると、髪がバサバサと左右に揺れた。手に持ったラムネ瓶のなかのビー玉も、コロコロと音を立てて転がった。その様子が面白かったのか、先輩がふふっと笑う。
「嫌なわけ、ないです。めっちゃ嬉しい。ハグしたい」
「いいよ、おいで」
「先輩。大好きです」
ぎゅうっと強く抱きしめると、彼も同じように返してくれる。嬉しくって幸せで仕方がなくて、甘える子猫のように、桜子は先輩の胸に顔を擦り寄せた。
「俺も、大好き。もうちょっとしたら、部屋のなか入ろうね」
「はい。もうちょっとしたら」
もう花火は上がっていないけれど、まだベランダでこの時間の余韻に浸っていたい。思う存分ハグをしてから、ふたりは部屋のなかに戻った。
空になったラムネ瓶の蓋を先輩が開けてくれて、中のビー玉を取り出してキッチンの水道で洗う。まんまるの薄青色を、桜子は部屋のLEDライトに透かしてみた。
「これ、宝物にしますね」
「こんなのも宝物になるの?」
「はい! 先輩と花火を見た、今日の思い出です」
他人にとってはどうでもいい、ただのビー玉かもしれない。けれど桜子にとっては、大事な宝物のひとつになった。花泥棒先輩と過ごす日々が、彼との思い出すべてが、かけがえのない宝物だった。
自分の部屋の箪笥の引き出しを開け、実家から持ってきた、幼い頃から使っている宝箱にこっそりビー玉を入れる。イルカのストラップはスマホにつけているが、それ以外の大事な思い出は、すべてこの箱のなかにしまってあった。幼い頃に遊園地で買ってもらった桜のヘアピンとか、うまくできた折り紙だとか。
しばらく感傷に浸ったあと、桜子はふいに思い出す。そういえば、蚊取り器のブタさんをベランダに出しっぱなしだったな、と。
ベランダを見てみると、やっぱりブタさんは寂しそうにぽつねんと佇んでいた。 ごめんよ、と軽く謝りながら、ブタさんを部屋のなかに救出する。どうやら先輩はトイレに行っているようだった。桜子は小さな声で、手のなかのブタさんにこっそり話しかける。
「あのね、先輩と旅行に行くの。……ふふふっ」
思わずただの蚊取り器に話しかけるくらいには、桜子は浮かれていた。決して変わるはずのない、印刷されたブタさんの表情が、そのときだけは呆れ顔に見えた。
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