第16話 4.9パーセントと検索履歴 −前−
雨ばっかりの六月が終わって、七月になった。もうすぐ夏休みがやってくる。
けれども楽しいバケーションを謳歌するためには、目前に迫った期末考査をきちんとこなさなければならない。成績不振になって、補講だ面談だと夏休み中に登校するはめになったら、気分が萎えてしまう。
というわけで、桜子と先輩は、ただいま試験勉強に励んでいるところだ。
「せーんぱい、コーヒー淹れてきましたー」
「ん、ありがと桜子ちゃん。大好き」
「私も先輩のこと大好きです」
インスタントのブラックコーヒーを彼の近くに置き、自分のところにはアイスカフェオレを置く。
一年生である桜子よりも試験科目が多い二年生の先輩を見て、なんだか大変そうだなと思った。来年は彼は受験生になるのだから、きっともっと大変になるのだろう。 一年契約は三月で終わりなので、受験勉強に励む先輩をそばで見守れるかは不透明だが。アイスカフェオレを飲む桜子に、先輩が話しかける。
「ねぇ、桜子ちゃん」
「なんですか、先輩」
「桜子ちゃんの夢って何?」
「夢、ですか? 将来どうしたいかってことです?」
「そーそー。今までそういうの聞いたことなかったからさ」
「そうですねぇ……」
夢と言われて、 真っ先にぱっと思いついたのは、「先輩のお嫁さんになりたいです」――だったが、これを言って真面目に断られたら泣く。下手にメンタルがやられたら、期末考査に影響してしまうかもしれない。
桜子は思案する。ぶっちゃけると、桜子は、将来の夢らしい夢は持っていなかった。それなりにお金を稼いで〝普通〟の水準で生きていければ満足だという、なんともドライな具合だ。
けれどもきっと先輩が求めているのは、そんなつまらない回答ではないだろう。ただ少なくとも、数学Iでこんなに苦戦しているのだから、理系に進むのは確実に無理だ。そうなると、二年生では文系コースを選ぶことになるだろう。しかしそこから先の進路のことは、まだあまりわからなかった。
「……私は、まだあんまり将来の夢とか、考えてないんですけど」
「うん」
どうせこれ以上考えても何かが出てくるわけではないだろうと、桜子はいま思っていることをそのまま告げることにした。先輩の相槌が優しくて、つまらない話でも良かったのかと、ちょっと安心する。
「でも、本は好きだから、本に関われる仕事だと楽しそうだなって思います。司書とか目指してみるのもいいかなって、ちょっと思ったり。たったいま思いついただけですけど」
「うん。いいんじゃない? 桜子ちゃん、司書さん似合いそうだし」
「ありがとうございます。先輩は、なにか夢ってあるんですか?」
先輩は特進クラスだから、ちゃんと将来のことをいろいろ考えていそうなイメージがある。先輩は曖昧な微笑を浮かべて、静かに告げた。
「来年の四月に、桜子ちゃんとお花見に行くこと」
「え?」
「そんなくだらないこと、って思った?」
「う……」
人の夢を馬鹿にするつもりはないが、たしかにそう思った。自分は彼と結婚する夢を言えなかったから、彼の口から自分の名が出てくるなんて思っていなかった。
それに来年の四月と言ったら、もうこの同棲契約が終わっている頃だ。契約が終わればお別れになることをたびたび仄めかしてくる彼が、漠然とした未来ではなく、〝来年の四月の桜子〟のことを言ってきたのは、これがきっと初めてだった。
「これは、4.9パーセントの確率の夢だよ」
「か、確率?」
不意に数学っぽい単語を出され、典型的な文系女子な桜子は面食らう。前に数学Aの教科書の確率のページをちょっと見てみたら、これはヤバそうだと即座に感じたものだ。なんとなく、楽しくない話が始まる予感がした。
「4.9パーセントっていうのは、当たりが1パーセントの確率のガチャで五回引いて、当たりがひとつ以上出る確率」
「なるほど? そうなんですねー」
「四回全部はずれて、ようやく五回目に当たるって確率は1パーセントよりも低い。でも五回目だろうと何回目だろうと、そのとき引いて当たりが出る確率は、やっぱり1パーセントなんだよね」
「へぇ。そうなんですかー。先輩、いま数学でもやってました?」
「いや、今やってるのは化学。まあとにかく俺は、どうせ信じるなら高い確率を信じていたいから、4.9パーセントだと思ってる」
「……先輩がお花見行きたいなら、私は何回でも行くのに」
確率のことはよくわからなかったけれど、4.9パーセントなんてあまりにも低すぎる気がした。来年の春に桜子と一緒にいられる確率を、なぜ彼はこんなに低く見積もっているのだろう。
「じゃあ、約束してくれる? 来年の四月に、俺と一緒にお花見行くって」
「はい、良いですよ」
先輩が差し出してきた小指と自分の小指とを絡め合わせて、桜子は彼と指切りの約束を交わした。
「今度は破らないでね」
「破りませんよ。……私って、先輩との約束破ったことってありましたっけ」
「んー、どうだったかな」
「なんですかそれ」
先輩がまた、なにかをはぐらかすような顔をした。絡まった小指をほどいて、彼が桜子の頭を撫でる。
「来年の四月、絶対お花見行こうね」
「はい、先輩」
笑顔の彼に、こちらも笑顔で返事をした。来年もきっと桜子は、先輩と一緒にいたいと思っているだろう。今はふたりで仲良く、試験勉強に励む。しかしどんなに頑張っても、やっぱり数学はあまりうまくいかなかった。桜子は、先輩の勉強のきりが良さそうなところで、恐る恐る声を掛ける。
「数学教えてほしいです」と小さくお願いすると、彼は「いいよ」と快諾してくれた。彼に隣で教えてもらいながら解いたら、驚くほどにうまくいって、課題がよく進んだ。
優しい彼が、何かを隠しているのはわかっていた。けれどもいつも誤魔化されるから、そのまま宙ぶらりんでいた。もっと仲良くなったら、いつか教えてくれるかな。と、淡い期待をしていた。
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