第15話 さくらんぼソーダと雨の日

 ゴールデンウィークのだらだら癖が抜けずに、いつまでも腑抜けていてはいけない。二週間後には、一学期の中間考査がある。


 今日は、五月十日の水曜日。一応真面目なふたりは、家できちんと試験対策に励もうとしていた。が、鞄を探しても桜子の筆箱が見つからない。どうやら学校に忘れてきてしまったようだ。


「せんぱーい。学校に筆箱忘れてきちゃったので、シャーペンとかちょっと借りてもいいですかー?」

「うん、いいよー。俺の鞄漁ってみてー」

「はーい」


 本棚から参考書を探し出そうとしている先輩に声を掛け、彼の鞄を漁ってみる。筆箱はあっさり見つかったので良かったのだが、それと同時に余計なものまで見てしまった。


「0.02mm」と外箱に書いてあるそれは、彼の必需品のひとつだろう。まったく男の人とはご縁がない桜子は、いま初めてこれを目にした。避妊具というと大仰なイメージがあったが、意外とペラペラでちっちゃい袋に入っているんだな。と、ついまじまじと眺める。


「桜子ちゃん。筆箱まだ見つかんない?」

「え、あ。筆箱はもう見つけました」

「ん? じゃあ何見て――って、コンドームか。なに、気になるの?」

「べ、別にそんなんじゃないですし! 早く勉強しましょう」

「うん。そだね」


 先輩の鞄のファスナーを閉めて、あのパッケージがもう見えないようにした。けれどいまさら隠しても、今日はあれが常に気になってしまって、勉強に全力集中できないであろうことは確かだ。


「今日もさくらんぼソーダ飲む?」

「はい、飲みます」

「じゃあ持ってくね」

「ありがとうございますー」

  

 先輩がキッチンに行って、一本のさくらんぼソーダのペットボトルと、ピンクと水色のコップを持ってくる。これは前に桜子が飲んだときに気に入ったものを、つい最近、先輩が箱買いさせてくれたものだ。ふたりの家のキッチンの隅っこには今、段ボール箱に入ったさくらんぼソーダが、どーんと鎮座している。


 薄い赤色のしゅわしゅわしたソーダを先輩がコップに注いでくれて、それを飲みながらふたりでお勉強。500ミリリットルのソーダはひとりで飲むと多すぎるから、飲むときはいつもふたりではんぶんこにしていた。一杯ずつ注ぐと、少しだけペットボトルにソーダが残る。その分は先輩が譲ってくれるので、桜子はいつも、彼より多めにソーダを飲むことができた。そんなちょっとした優しさにもときめいて、彼のことが大好きだ。


「テスト頑張ろーね、桜子ちゃん」

「はい、先輩」


 こんな言葉でめちゃくちゃ頑張ろうと思えてしまうなんて、我ながら単純な脳細胞だと思う。けれどそんな自分も悪くないと思えるような、恋をしていた。



❀ ❀ ❀



「あ」

「あ」


 互いに間抜けに口をぽかんと開けて固まったのは、五月の終わり頃の昼休みのこと。廊下で思いがけず、花泥棒先輩に遭遇してしまった。


 彼の腕には女が引っついていたが、たしか彼女は、三年の青柳あおやぎ 明穂あきほ先輩だ。花泥棒先輩と付きあっていた頃があるとか、単なるセフレに過ぎないだとか、はたまた婚約者だとか、いろいろな噂がされている人である。


 先輩曰く、そういった噂たちは全部でまかせらしいが、彼女が先輩と親しい――と言うか、しょっちゅうにゃんにゃんしている仲であることは間違いないだろう。


 学校では桜子は、〝花泥棒の妹〟。どんなに胸のなかがざわめいていても、浮気された恋人のように彼に詰め寄るのは契約違反だ。だから口をついて出そうになる言葉を必死にこらえ、〝妹〟の範囲内で抑えるようにしないといけない。


「お兄ちゃん、またその人とえっちしてたの? うちのクラスの栗田さんのことは、もう飽きちゃった?」

「別にそういうんじゃないよ」

「ふーん。ま、どうでも良いけどね。じゃあね、お兄ちゃん」

「……うん」


 今の演技は、うまくできていただろうか。〝花泥棒の妹〟のキャラは、ちゃんと確立できているだろうか。そんな不安を胸に抱きながら、平然とした〝紫ノ姫〟の顔で彼の横を通り過ぎた。


 彼が他の女を抱くのは当たり前。それにさっさと慣れないといけない。


 この関係は偽りの関係だ。一年で終わる契約関係だ。学校で彼の〝妹〟を演じて、家では〝お嫁さん〟のように一緒に暮らすだけ。彼からの一途な愛を求めてはいけない。そうやって何度も自分に言い聞かせる。


 そもそも契約時に、性行為はしないということになっていたのだから、彼が抱いてくれなくて当然なのだ、とも。


 そう。だから。どうにもならないことで胸を痛めるのは、ただの愚か者だ。



❀ ❀ ❀



 六月のある日、今日の天気はしとしと雨。花泥棒先輩と相合傘をして家に帰る。灰色の空から雨粒が落ちて、傘に当たると音を立てて跳ねていく。この季節にぴったりの綺麗な花を見つけて、桜子は声を弾ませた。


「あ、お兄ちゃん。見て、紫陽花あじさい咲いてるよ」

「本当だ。綺麗だね」 

「うん。さくらね、あのピンクっぽいのが好き」

「ああ、あれ可愛いね。桜子ちゃんみたい」


 通学路に咲く紫陽花にはしゃぎながら、桜子はときおり水たまりに靴をわざと突っ込んでぴちゃぴちゃとさせた。「あんまりやりすぎないようにね」と言う先輩に、「はーい」と返事をしながら、大して程度を変えずに靴も靴下も濡らしていく。


 そんな子どもっぽいことをしていると、向かいから同じく相合傘をして歩く、仲睦まじいカップルらしき人がいた。こっそり見てしまった女の人の薬指には、綺麗な指輪がはまっている。


「ねぇねぇ、お兄ちゃん。六月と言えばー?」

「言えばー?」

「ジューンブライド! さくら、大人になったらお兄ちゃんと結婚したいなぁ」

「桜子ちゃんは、きっと綺麗で幸せな花嫁さんになれるよ。結婚式するときは、お兄ちゃんも招待してね」

「お兄ちゃんは、さくらのこと幸せにしてくれないの?」

「俺はお兄ちゃんだから、桜子ちゃんとは結婚できないよ。……ごめんね」

「……そっかぁ」


 彼の『ごめんね』はどうしたって、「お兄ちゃん」の言う言葉には聞こえなかった。あんまりにも申し訳なさそうに言われるから、本当に『桜子ちゃんとは結婚できない』と言われてるのだと感じる。花泥棒先輩は、桜子と結婚するつもりはないのだ。


 彼が桜子と一緒にいてくれる理由なんて、冷静に考えれば、そう大したことではないのかもしれない。ただ、桜子の顔に「一目惚れ」して、そのままの勢いで占いをしてもらったら、桜子が「今年死にやすい」と言われたから。優しい彼は、その占いを馬鹿みたいに信じて、ただ「死にやすい女の子」を助けようと思ってくれただけなのかもしれない。


 占い師に言われたから、一年間一緒にいてくれるだけ。兄妹を演じたりお嫁さんのように暮らしたりするのも、こちらに条件を提示することで、桜子が彼からの厚意を受け入れやすくなるようにしてくれただけ。

 どんなに甘い言葉を囁かれても、契約が終わればお別れなのだ。そこを勘違いしてはいけない。彼からの愛の言葉は、例えば、桜子の生きるモチベーションを上げさせるためだけのものかもしれない。


 一生一緒にいてくれるつもりはない彼に、体を使われない代わりに、心を散々もてあそばれている。そんなふうに考えて、彼を嫌いになれば良い。手酷くフラれて心がズタズタになる前に、恋心がなくなってしまえば良い。

 

「お兄ちゃんと結婚できないなら、さくらはずっと独身でいいよ」


 彼は桜子を、女として愛しているわけではない。彼は、桜子との将来を考えてはいない。


 それがわかっていても諦められない、粘着質な初恋だった。



❀ ❀ ❀



 六月のある日、今日の天気はざあざあ雨。花泥棒先輩と、委員会の当番で本棚の整理をしている。


 強い雨粒が窓ガラスを叩いて、大きな音を立てていた。ときおり雷も鳴っていた。気圧のせいか何なのか、ツキンと一瞬頭が痛む。


 ぱっと雷が一瞬光るのと似たように、白い髪の男がこちらに傘を差し出す光景が、まぶたの裏に見えた。


「っ……」

「どうしたの、桜子ちゃん」

「あ、ちょっと頭痛くなっただけ……だよ」


 心配そうな顔をした花泥棒先輩のほうを、曖昧な笑顔でちらりと見る。やっぱりあれは、彼だったような気がした。ストレスで髪の色が抜けてしまったという彼なら、純白の髪でいたときがあってもおかしくない。


「お兄ちゃん、ちょっとお耳貸して」

「ん、はい」


 屈んでくれた先輩の耳元に唇を寄せ、小さな声で尋ねる。


「花泥棒先輩。私たち……前にこんな雨の日に、会ったことがありませんか?」


 先輩の肩がびくりと揺れる。顔を離すと、先輩は桜子の頭を撫でて、痛ましげに笑った。


「ないよ」


 その簡素な否定をあっさり信じられるほど、桜子は素直ではなかった。けれどこれ以上追及する勇気はなくて、本棚の本に手を掛ける。


 先程一瞬見た光景を、どうにか思い出そうとした。傘を持っていない桜子はびしょ濡れでどこかに座っていて、彼はこちらに傘を差し出して立っていた。雨がざあざあと降っていて、とても寒い日だった。今日よりも、強い雨だった。


「桜子ちゃん。高いところは俺がやるよ」

「あ……ありがとう。お兄ちゃん」


 こんなふうに彼が高いところの本棚を整理しようとする光景も、昔どこかで見たような気がした。


 先輩は何かを隠している。そして桜子は、何かを忘れている。この違和感は、この喪失感は、いったい何なのだろう。


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