第14話 紫ノ姫はご機嫌斜め

「ねえ、むらさきさん」

「はい、なんでしょう。………栗田さん?」


 ゴールデンウィーク明け、五月八日の月曜日。


 桜子は、クラスメイトから話しかけられるという、前代未聞の事態に遭遇していた。〝紫ノ姫〟に話しかけるとは、勇気のある人だなぁと思いながら、彼女を見上げる。


 現在桜子の机に手を突いてこちらを見下ろしているのは、栗田くりた 裕歌ゆうかさん……だと、思う。なぜ断定できないのかと言えば、彼女には今まで知っていた栗田さんの面影は多少あるものの、めちゃくちゃイメチェンしていたからだ。


 髪を切って明るく染めて、メイクもばっちり決めるようになって、スカートも短くなって、ピアスもあけている。たぶん栗田さんだと思うが、「別人です。人違いです」と言われても納得してしまうような姿だった。


 彼女が仮に栗田さんだとすると、彼女はなんだかよく見る女たちとよく似た格好に変身していた。そう、つまり。花泥棒先輩に抱かれる女らしい姿になっていた。


 これに気づいたところで嫌な予感がしてきたが、もう会話を始めてしまっていたところなので、時すでに遅しだ。長年ぼっちの桜子は、残念ながら、うまく会話を切り上げて逃げるすべは持ち合わせていない。


「あのね、紫さん。お願いがあるの」

「はい、なんですか」

「花先輩との仲、取り持ってくれない?」

「……なぜに?」


 花泥棒先輩に抱かれる女たちは、彼のことを「花くん」や「花先輩」と呼ぶ。ということはこの女、花泥棒先輩との仲を取り持ってくれと頼んでいるのだ。


 いったいなにが楽しゅうて、好きな人――学校では兄だと思われているが――と他の女との仲を取り持たなければならないんだ。


 桜子が首を傾げると、おそらく栗田さんである彼女は、少し顔をしかめた。顔を顰めたいのはこっちだと言うのに。


「紫さんが、花先輩の妹だから」

「ええ、たしかに私は妹ですよ。でもお兄ちゃんに女を斡旋あっせんするのは私の役目ではないと言うか、お兄ちゃんと仲良くしたいならご自分で頑張ってください」

「冷たいわね。クラスメイトだっていうのに」

「はい。今日までまともに会話したことがなかったクラスメイトですね。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「は? まさかクラスメイトの名前も覚えてないの?」

「残念ながら、お兄ちゃんに関係する事柄以外のことを覚えるのは苦手で。……栗田 裕歌さんで合っていますか?」

「合ってるわよ」

「そうですか」

 

 おそらく栗田さんだった彼女は、いま正式に栗田さんであると判明した。栗田さんからはやや苛ついているような感じを、周囲からはハラハラと見守るような空気を感じながら、桜子はただ無言である。


 言葉遣いがちょっと刺々とげとげしかったかなと、ほんのちょっぴりだけ反省した。基本的に紫月 桜子は、慣れない人間相手には、つっけんどんな物言いしかできない人見知りなのだ。悪気はないので、どうか許して欲しい。


「ちょっと私のことを花先輩に紹介してくれるだけで良いから。ね? お願い」

「はあ……」

「本当お願い! 後生だから」

「えー」

「本当に! 一生のお願いなの!」

「……」


 桜子は察した。こいつ、絶対「うん」と言わせるまで諦めない系女子だ。「一生のお願い」という言葉を、まったく意味も考えずに乱用する類の人間だろう。面倒くさい。


 まったくもって、彼女のお願いは聞き入れたくない。しかしクラスメイトの目もあることだし、あまりにも頑なに断っていたら、冷たい女として桜子の株が下がるかもしれない。まあ、そもそも下がるほど高い位置にいるわけでもなさそうだが。


 クラスメイトにどう思われようと、桜子は痛くもかゆくもないつもりだ。けれどクラスでうまくいっていないと、きっと先輩は心配する。先輩に自ら女を紹介することと、先輩に心配させてしまうこと。桜子はそれらを天秤にかけ、やがて答えを導き出した。

 

「……では、うまくいくかわかんないですけど、とりあえず言っときますね」

「ほんと!? 紫さん!」

「お手洗い行きたいんで、そろそろお話終わっても良いですか?」

「うん、ありがとう。紫さん! お願いね!」


 栗田さんはにっこりスマイルを浮かべて、機嫌良さそうに立ち去っていった。一方の桜子は、朝からご機嫌斜めである。紫ノ姫の様子を察した一部のクラスメイトが戦慄せんりつしているのを感じつつ、トイレに行くため席を立った。


 ムカつく。うざい。私だって誰かに先輩との仲取り持って欲しいくらいだわ。と、心のなかで悪態をつく。ゴールデンウィークが終わったばかりなのに、早く夏休みにならないかな、と思った。


 先輩を他の女に会わせたくない。彼を自分だけのものにしたい。醜い嫉妬でがんじがらめになっているせいで罰が当たったのか、用を終えてトイレの個室から出るとき、ドアに思いきり指を挟んだ。地味に痛い。


「……ははっ」


 乾いた笑いが口から漏れる。その直後先輩から送られてきたメッセージは、また「図書室で待ってて」だった。朝から踏んだり蹴ったりだ。


 いま何かを送ったら、ものすごく酷いことを先輩に言ってしまうことになりそう。だから桜子はスマホをそのままロックして、既読無視をすることにした。



❀ ❀ ❀



「お兄ちゃん、うざい。……嫌い」

「どうしたの桜子ちゃん。今日はご機嫌斜めだね。ん?」


 今日も、花泥棒先輩とふたりで一緒に帰る。図書室で待たされた桜子は、ぶーぶーと文句を垂れながら、先輩の隣を歩いていた。やさぐれて、道端の小石をコツンと蹴る。また先輩が他の女とえっちした。ひどい。私とはしてくれないのに。


 今日は本当に、散々な一日だった。朝から良くないことばかりだったが、授業中にシャーペンのキャップを落としたらそのままなくしてしまったし、苦手な数学ではなぜか二回も当てられてしまったし、掃除のときは他の班の子が持っていたチリトリにぶつかって、スカートがホコリまみれになった。


 学校に来たら、嫌なことばっかりだ。おまけに栗田さんから頼まれたことを言わなければならないとなって、もう大声で泣き喚きたい気分だった。


「お兄ちゃんが、モテるから、ムカつく」

「あら、嫉妬かな? 可愛い」

「可愛くない! 嫉妬じゃないっ! ……クラスの、栗田 裕歌さんって子が、お兄ちゃんと仲良くしたいんだって。さくらだって、お兄ちゃんともっと仲良くしたいのに」


 ぎゅうぅっと、先輩の腕を強く掴む。けれども彼は、桜子がどんなに力を入れて掴んだところで平気なようで、まったく咎めてもくれなかった。むしろ、彼の腕のたくましさを改めて実感した桜子のほうが、ときめいて心動かされてしまったくらいだ。なんて魅力的な男なんだ。ムカつく。


「桜子ちゃんは俺の一番だから、桜子ちゃんが一番仲良しで大好きだよ」

「なら、もっと過激ないちゃいちゃしてよ。他の女の子とばっかり、そーゆーことする。うざい。もうやだ……」


 せきを切ったように、突然ぼたぼたと涙が出てきた。先輩が驚いたような困ったような顔をしたが、当の本人、桜子もびっくりだ。泣くつもりはなかったはずなのに、大粒の涙がとめどなく流れていく。今、ものすごく面倒くさい女になってる。こんな自分は嫌だ。本当に嫌だ。


 どうしてこんなにすぐ泣いてしまうのだろう。彼に甘やかされているから、涙もろくなってしまったのだろうか。前はもっと、痛くてもつらくても我慢できたはずなのに。


 彼が申し訳なさそうな声を出して、桜子の頭をぽんぽんと撫でる。

 

「ごめんね、桜子ちゃん。でも桜子ちゃんには、自分のこと大事にして欲しいから。だから、そういうのはまだ駄目だよ」

「じゃあ、お兄ちゃんも自分のこと大事にしてよ。なんでいっつも、いっつも……。――今度は、私が置いていかれるの? 今度は私が、ひとりになるの?」


 口をついて出たその言葉のあと、先輩が息を呑む気配がした。彼のほうを見てみたが、涙で視界がぐにゃぐにゃで、全然表情がわからない。


「桜子ちゃん」


 優しい手が頭に伸びて、抱きしめられて、彼の汗の匂いとシャボンの香りに包まれる。


 他の人は歩いていないとは言え、道の真ん中でいったい何をしてるんだ。そう思っても、彼から離れることができなかった。流れる涙が、彼の白いシャツを濡らしていく。桜子が濡らした彼のシャツは、ひどく冷たくなっていった。


「ごめん。本当にごめん。……言ってどうにかなることじゃないかもだけど、なにも思い出さなくて良いんだよ。今の桜子ちゃんが元気でいてくれれば、それで良いから」

「……なんの、話?」


『なにも思い出さなくて良い』って、なんのことだろう。なにか忘れてる気がするのと、関係あるのかな。そんなことを考えていると、なんだか眠たくなってきて、彼に抱きしめられたまま寝てしまいそうになった。死ぬときは、彼に抱きしめられて死にたいな。なんて、不吉なことをぼんやりと考える。


「なんでもないよ。落ち着いたら、お家帰ろうね」

「……うん」


 自分が鼻をすする音と、彼の心臓の音と、ふたりの呼吸の音しか聞こえない。ただただ静かな時間が過ぎる。まるで、この世界に、ふたりきりになってしまったみたいな感覚だった。


 ひとしきり泣いたあと、桜子は彼からそっと離れる。泣きやんだときには、なぜ泣いていたのかも、なにを彼に言ったのかも、あまり覚えていなかった。


「ごめんね、お兄ちゃん。もう、だいじょうぶ」

「うん。じゃ、帰ろっか」

「うん。帰ろう」


 いつも通りに手を繋いで、ふたり一緒に帰宅する。洗面台で顔を洗っても桜子の目元は真っ赤に腫れていて、彼は笑いながら、冷たい濡れタオルを用意してくれた。


 桜子も花泥棒先輩も、家ではまったくいつも通りだった。

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