第12話 はじめての水族館デート
今日は、五連休の三日目。桜子は、ふんわりとした水色の膝下丈のワンピースに、小さな白いお花の髪飾り――なんて、あまりにも女子を意識しすぎた気恥ずかしい格好で、花泥棒先輩と水族館デートをしていた。
先輩は可愛いと言ってくれたが、どうにもこうにも落ち着かない。安定した紺色のスニーカーを履いているはずなのに、足元がふわふわとしているような気がした。
はぐれないようにと手を繋ぎ、ふたりは初々しいカップルのように館内をのんびり歩いていく。
楽しいしドキドキするし最高の気分だったが、手汗が気になることは、神様にどうにかして欲しかった。もしも次のデートがあったなら、絶対に手汗の対策法を調べてから来ようと、桜子はサメの水槽の前で誓う。
「桜子ちゃん、緊張してる?」
「……ちょっと、してます」
心配そうにこちらを見る先輩に、やや固い笑みを見せる。
水槽が明るくこちらは暗い水族館の空間は、なんとなくロマンティックで、いつも一緒に眠るときの暗闇とは雰囲気が違う。お出かけ用の私服を着た先輩はお洒落でかっこいいし、なんたってデートだし、心臓がどうにかなってしまいそうだ。
「別に取って食おうってわけじゃないし、リラックスしていいよ。俺はいつも通りの俺だから。ほら見て、マグロ。美味しそうじゃない?」
やっぱりデートだなんだと浮かれても、彼は桜子だけを食べてくれない、いつも通りの花泥棒だったらしい。一年契約の同居人という関係は、今日も変わらないのだと突きつけられた。
切なさで胸を痛めながら、彼が美味しそうだと言ったクロマグロを見る。
「すみません、さすがに泳いでるの見て美味しそうとは思わないです。でも……ふふっ、なんか和みました。ありがとうございます」
先程よりうんと柔らかくなった顔で、桜子は笑う。先輩も嬉しそうな顔をして、桜子の頭を撫でた。
こんなに近くにいるのに、恋人じゃない。こんなに大好きなのに、体の関係には至っていない。彼からの愛にときめきながら、そんな寂しいことを考える。
桜子は頭を振り、ひとつの瞬きのあと、どうにか思考を切り替えようとした。こんなふうに彼を独り占めできる特別な時間には、それを精いっぱい楽しまないと損だろう。
今だけは嫌な現実からは目を背けて、恋人のような状態に溺れていたい。
「見て。カクレクマノミとナンヨウハギ」
「あ……すごい、本物だ」
先輩の指差すほうを見てみると、この前の日曜日に彼と見た映画のDVDに出てきたのとそっくりなお魚が、水槽に閉じ込められて、ひらひらと
鮮やかなオレンジ色と青色の彼らを、夢中で目で追いかける。彼に手を引かれて歩きながら他の魚たちも見ていると、水色の大きな魚が視界に入り、小さく声を弾ませた。
「あ、ナポレオンフィッシュもいる……!」
「なに、桜子ちゃんあれ好きなの?」
「先輩にお借りしたゲームで釣ってから、本物はどんな感じなんだろうって気になってて……写真をネットで見たらちょっと怖かったですけど、実際見るとなんか可愛いです」
「桜子ちゃんのが百億倍可愛いよ」
「え、あ、ありがとうございます……?」
ナポレオンフィッシュの百億倍の可愛さがどれほどなのかはよくわからないが、きっと先輩は褒めてくれたつもりなのだろう。桜子は素直に、彼に可愛いと言われたのだと受け取ることにした。
「イワシがいっぱい……キラキラしてる……っ」
「幻想的で綺麗だね。桜子ちゃんのほうがはるかに綺麗だけど」
「すごい!? なんか光ってる?!」
「ウミホタルとかだね」
「ね、先輩! クラゲですよ!? 水信玄餅みたい……って、食べたことないんですけどね。テレビで見ただけで」
「じゃ、そのうち一緒に山梨行ってみようか。夏休みとか」
「良いですね! 楽しみにしてます」
にこやかにふたりは魚たちを見て回り、昼食をとるためにレストランへと移動した。先輩はマグロカツカレーを、桜子はエビとわかめのクリームスパゲッティを注文する。美味しい。が、水槽で泳いでいたマグロやエビのことを考えるとちょっぴり気まずく、心が痛い。
「桜子ちゃん、楽しかった?」
「はい、楽しかったです。ありがとうございます、先輩」
「うん、それなら良かった。俺も楽しかったよ。ありがとう」
彼が本当に幸せそうに笑う。優しくて甘くて、大好きな花泥棒先輩。デート先でも先輩は紳士だということを、今日はよくよく知った。
段差があるところでは、『気をつけてね』と教えてくれた。こちらのペースに合わせて歩いてくれて、桜子が他の人とぶつかってしまいそうになると、すぐに気づいて抱き寄せてくれた。『可愛い』『綺麗』『大好き』と、たくさん言ってくれた。
今日も桜子は彼に愛されていた。
今日も桜子は、彼に溺れるような恋をしていた。
「……やっぱり、好きだな」
「俺も、桜子ちゃんのこと大好き」
「……へ?」
彼から言われた言葉の、いつもと違う部分に引っかかって、小さく声を上げた。彼は当たり前のことを口にするように、もう一度その違和感を唇に乗せる。
「ん? 俺も好きだよ」
「俺も?」
「うん、俺も」
「ま……まさか。さっき、私、好きって言ってました……?」
「うん、言ってた。今の桜子ちゃんに言われるのは初めてだね。嬉しい」
花泥棒先輩が、ゆるゆるに頬を緩めた。とろけたような先輩の顔にドキリとした後、ぼっと顔が熱くなる。どうしよう、『好き』なんて言うつもりなかったのに。心のなかの声が、うっかり零れてしまったようだ。
〝妹〟じゃないときに言ったら、フラれてしまうかもしれない。彼はまだ、〝もうこの世にいない好きな人〟のことを想っているから、桜子の恋は叶わない。
一年契約の同居人に過ぎない桜子の恋心は、迷惑で隠すべきものだと思っていた。だから必死に我慢して、〝妹〟としての愛しか伝えてこなかったつもりだった。
それなのに彼は、ただの桜子からの『好き』の言葉を、『嬉しい』と言った。もしかしたら、と期待する。桜子の好意は、否定されないのではないかと。
「好きって……言っても、良いんですか」
「もちろん。何百回でも言っていいよ」
「迷惑じゃ、ないですか?」
「迷惑なわけない。俺は、桜子ちゃんのこと愛してるから」
桜子の瞳から、涙がぽろりと零れ落ちた。彼の声があまりにも優しくて、愛に満ち溢れていた。好意を受け入れてもらえることが、こんなにも嬉しいだなんて。
「先輩、好きです」
「うん、俺も好き」
「いっぱい大好きです」
「俺もいっぱい大好き」
「先輩に……恋、しちゃいました」
「うん、ありがとう」
最後の言葉にだけは、同じ思いを返してくれない。それは先輩が、本当は桜子に恋しているわけではないのだということかもしれなかったが、今の気持ちは切なさよりも、「好き」と言えるようになった嬉しさのほうが
ごはんを食べたらお土産店で、おそろいのストラップを買う。銀色のイルカが球体の天然石を抱えているデザインで、桜子は薄ピンク色のローズクォーツのものを、花泥棒先輩は紫色のアメジストのものを選んだ。
スマホにストラップを付けて、桜子はにやける。太陽の光に照らされたイルカがキラリと光った。
「私、今日のこと絶対忘れません。このイルカさんは宝物にします」
「俺も忘れないよ。何があっても」
先輩と手を繋いで、駅へと歩く。
二〇一七年、五月五日の金曜日。桜子は花泥棒先輩に「好き」と言えるようになった。イルカのストラップが宝物に加わった。楽しいはじめてのデートだった。
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