第7話 ふたりの出会いは入学式で
彼と出会った日のことを、桜子は今も鮮明に覚えている。
紫月 桜子と、「花泥棒先輩」。
彼の本当の名前を、「花咲 薫」。
ふたりの出会いは、この学校に桜子が入学した日の放課後のことだった。
入学式をお昼頃に終えて、ところどころ
ローファーを揃えて下に置き、その中に足を入れる。慣れないちょっと窮屈なそれを履いて、昇降口から出た。
昇降口から校門まで行く途中の道には、何本かの桜の木が生えている。名前に〝桜〟がつく桜子は、桜の花が好きだった。
桜並木を見ながら歩いていると、その木の幹の一本に寄りかかる男子生徒がひとりいて、彼は新入生たちの視線を
誰もがしばし彼に釘付けになり、その前を通り過ぎるときには歩みが遅くなる。通り過ぎた後も首を伸ばして、できるだけ長くその姿を見ようとする。
華やかな見た目のイケメン――いや、雅なる貴公子と言ったほうが適切だろうか。もちろん制服姿でもかっこよかったが、彼には和装も似合う気がした。とかく彼は、爽やかな顔立ちをした絶世の美男子だったのだ。
皮肉なことに桜子はその容姿から、『源氏物語』の光源氏が現代に生まれ変わったらこんな姿なのだろうかと考えた。けれどまさか下半身の方が源氏らしい奔放具合だなんて、そのときは考えもしなかった。
ひときわ目を引く、日の光に透ける柔らかく淡いピンク色。
「桜餅……」
気づいたときには、そう呟いていた。
彼の髪は頭上に咲く花と同じ色だったのだが、頭の丸みも合わせて見てみると、その頭は桜餅のようだと思われたのだ。緑色の布を載せたらまさに桜餅になれるだろうと、桜子はその姿を脳内で想像する。
先程の声に気づいたのか、彼がこちらを真っ直ぐに見た。脳内の桜餅男がぱちんと消えて、目の前の彼に集中する。
桜の木の幹のような茶色い瞳が大きく見開かれ、怒らせてしまったのだろうかと心配になった。その奇抜な髪色は彼にとても似合っていたが、彼が〝不良〟なるものである可能性もあると思ったのだ。
それなりの距離があるので彼が不良だとしてもいきなり殴られたりはしないだろうが、いったいどうなることだろう。合成皮革の学生鞄の取っ手を握り締め、息を潜めた。
彼の唇が開かれ、紡がれる言葉を恐怖して待つ。風が吹いて桜の花びらが舞い散るなか、彼ははっきりと声を出した。
柔らかくも耳に残る、どこか懐かしい気がする声を。
「桜子ちゃん」
「……へっ?」
今、私の名前を呼んだの? ――と驚いて、
そのとき彼の茶色い瞳が一瞬潤んだように見えたのは気のせいだったのか、今でもわからない。
「桜子ちゃん、入学おめでとう」
「えっと、どうも……?」
近くで見ると、その髪に桜の花びらを模したヘアピンが付けられていることに気づく。
彼も、桜の花が好きなのだろうか。もしかしたら桜の花が好きだから、同じ字を持つ桜子に目を付けていたのだろうか。
そう予想しつつも、なんとなくそれが完璧な正解ではないことは察していた。そんな気まぐれではなく、まるで前から知っていたかのように、彼は桜子の名を呼ぶことに慣れているように思われたのだ。
「俺は、
「はぁ……」
わざわざご丁寧に、漢字の説明までしてくれた。
まさか本人からも、『源氏物語』という単語を聞くことになるとは驚きだ。なるほど彼は、雅なる貴公子でも、光の君ではなく薫の君のほうだったらしい。
花咲 薫という名前を、心のなかでひっそりと呟いてみる。その響きが、頭のなかにしっとりと染み込む。
春のような、綺麗な名前のひとだなと思った。名は体を表すというが、本当にこのひとは、〝花咲薫〟っぽいひとだ。
桜色の髪が風に吹かれる様は、可憐な花を思い起こさせる。
凛々しく咲き誇るように、キラキラとしている雰囲気がある。
風に乗せられた良い薫りのように、彼はひとを惹きつける。
花咲 薫。きっとこの名はもう忘れられない。
「これからよろしくね、桜子ちゃん」
彼は笑顔で、こちらにさっと手を差し出す。
特に部活や同好会に入る予定もない桜子は何の関わり合いになる相手として「よろしく」されているのか、てんでわからなかったのだが、とりあえずそう言われたのでこちらもそう言い返すことにした。いわゆる社交辞令のつもりだった。
「こちらこそ、これからよろしくお願いします。花咲先輩」
周りの視線を気にしつつも彼の手を取り、がちがちに緊張しながらの握手をした。
温かく大きなその手に触れた瞬間、なぜか突然に目頭が熱くなる。
その現象を不思議に思いながらきっかり十秒数えたところで、そろそろ良いだろうと手を離そうとした。けれども彼ががっしりと掴んでいるせいで、なかなか離すことができない。
困惑気味に見上げると、満面の笑みを見せられた。耳元に顔を近づけられ、ぞわっと鳥肌が立つ。
「あ、あの……?」
「桜子ちゃん、
「へっ?」
本日二度目の「へっ?」である。このとき、きっと桜子の表情は引きつっていたことだろう。
さすがに出会ったばかりの男の人の家にのこのこ付いていくほど、桜子は尻の軽い女ではないつもりだった。けれど桜子の手を掴んだまま、彼はどこかへと歩き出す。
「えっ、先輩?」
「ちょっとだけお話ししよ? コーヒー
「えっ、え? えー……」
どうしてこうなった――と桜子は恐怖に震えながら、ずるずると先輩に手を引かれていった。
キラキラと輝く桜餅の頭と、グレーのブレザーを羽織った広い背中。
桜子と手を繋いで歩く彼の背を見てなにか懐かしい気がしてしまった理由は、よくわからなかった。
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