第6話 ベッドの上でも結ばれない

 アイスクリームを食べ終わったら、桜子は洗濯をした。そのあとは、ふたりでテレビを見ながらだらだらと宿題をして、ちょっとだけゲームをして、夜十一時頃に歯磨きをしていつも通りにベッドに入った。


 花泥棒先輩と桜子は、いつもふたりでひとつのベッドで眠っている。特に何をするでもなく、ただ手を繋いで、少し話をしたら眠るだけだ。


 窓からさす微かな月明かり以外には何にも光が入ってこない暗い部屋のなかで、ぼんやりとだけ見える、彩度の低い彼の顔。重なる頼もしい手の感触に、お互いの温度で温められていく布団。それらすべてが愛おしかった。


 先輩と一緒にいれば、真っ黒の夜だって、幸福で温かい時間になる。こんなふうに、夜を彼と一緒に過ごす幸せをもらえている女の子は、今のところ桜子だけだ。自分が一番特別なんだと、馬鹿みたいに自惚うぬぼれたくなる。


「――ねえ、桜子ちゃん。聞きたいことがあるんだけど」

「はい、なんですか?」

「今日の昼休みの男、誰?」


 先程やっていたアクションゲームの話が終わったところで、花泥棒先輩は心なし低い声で桜子に問うた。なんのことだかすぐにはわからずに、きょとんとしていると、手を握る力がほんの少しだけ強められる。


 なんとなく、空気がさっきまでと変わってしまったように感じた。


「昼休み……?」

「廊下で話してたでしょ?」


 はて、今日の昼休みの廊下と言えば。桜子は記憶を辿ってみる。


 春の陽光。澄んだ青空。ラズベリー味のグミ。大好きな花泥棒先輩。忌々しい女の黒のブラ紐。金属製のピアス――……。


「……ああ、あの人ですか」


 ややあって思い出した。浅黒い肌の髪の短い男子生徒のことを。花泥棒先輩に元彼女さんを寝取られた、陸上部のなんとか先輩だ。

 花泥棒先輩以外の男には、道端に生えた蒲公英たんぽぽに対するのと同レベルの関心しかないので、今の今まですっかり頭から抜け落ちていた。


 思い返してみると、桜子となんとか先輩が会話していたことは、『言わないでくれ』と言われていた気がする。残念ながら、桜子が言わずとも花泥棒先輩にはバレていたようだが。


「なに話したの? なんか酷いこと言われた?」


 優しくて、愛を感じさせる、それなのに悲しい表情と声色。暗闇のなかの彼は、ものすごく心配そうな顔をしていた。その情は、紡がれた言葉にも現れる。


 彼に、心配をされている。そう感じた途端に桜子は、細い綱の上を渡っているような緊張状態におちいった。心臓がドクドクと嫌に鳴り響き、ごくりと固唾を呑む。身の強張りが察せられないようにと願い、瞬きひとつ、呼吸ひとつまでに注意を払った。


 花泥棒先輩と一緒にいると、ときどき怖くなることがある。何が怖いのかと言うと、彼がいつか壊れてしまいそうに思えることだ。


 にこにこと元気な花泥棒先輩に心配されているときは、笑って流せる。けれど本気で心配して不安に思っているような彼に対しては、どう対応していいかわからなくなるのだ。


 彼の桜子に対する心配の程度は、異常なほどに重たい。彼は何かを心から恐れているようだった。普段は柔らかい笑顔で隠しているその恐怖は、ふとしたときに露見する。


 過剰な表現かもしれないが、桜子はそういう瞬間に、自分の選択が彼の命綱を握っているような感覚になる。自分が何かを間違えたせいで彼を壊してしまったらと思うと、すごく怖くなるのだ。彼はどこかでバランスが崩れたら一気に駄目になってしまいそうな、危うさを抱えている気がする。


 彼を壊さない言葉を探して、ゆっくりと口を開いた。


「……何も。ただ、覗きは良くないと、注意されただけです」


 なんとか先輩には悪いが、どうせバレているならば正直に話してしまったほうが彼のためにもなるだろうと、正直に答えることにした。ただ少し会話しただけで、後ろ暗いことは何もない。


「ていうか、なんで先輩知ってるんですか? 私が昼休みに誰かと話していたかなんて」


 ふと零れたこの素朴な疑問には、表情はまだ心配そうなまま、当たり前のことを告げるような口調で返答がやってきた。


「なんでって、GPS付けてるじゃん」

「ああ、そうでしたね」


 言われてみればそうだったな、と桜子は頷く。


 花泥棒先輩は、桜子に対して過保護だ。連絡できるスマホは持っているのに、さらに防犯ブザーとGPS付きのキッズ携帯まで持たせている。高校生にもなってキッズ携帯……と思った桜子だが、とにかく彼は桜子のことが心配で心配でたまらないらしい。


「桜子ちゃん、今日泣いたよね? 何かあったの?」

「……何も、ないです」


 そう答えた声は、なんとも弱々しかった。GPSのことを考えているうちに、嫌な可能性に気づいてしまったのだ。これ以上彼を見続けることができなくて、さっと視線を逸らす。


「桜子ちゃん」


 名を呼ぶ彼の声には、先程よりも強い心配の情が宿っていた。彼を安心させないといけないとわかっているのに、それができない。不甲斐ふがいなくも、じわじわと涙が滲んできた。泣いたらもっと心配させてしまうのに、我慢することができなかった。


 花泥棒先輩は、桜子が廊下にいたことだけでなく、そこで男子生徒と話していたことも知っていた。ということは、彼もきっと、あのときこちらのことを見ていたのだろう。


 偶然、男子生徒と話している場面だけを切り取って見た可能性も、なきにしもあらずだ。けれど、もしかしたら――どちらかと言えば、こちらのほうが高い可能性で――彼は、桜子に自分が見られていたことも知っていた。


 桜子が見ているのを知りながら、あんなふうにピンクな空気を見せつけてきたということだ。もしかしたら、桜子に気づいたからわざとキスをしたのかもしれない。わざとあんなふうにいやらしい接触をしたのかもしれない。


 ただの可能性に過ぎないことでも、そう考えるだけで悲しくなってしまった。だって何度もどう考えても、現実は変わらないのだ。


 桜子は花泥棒先輩のことが好きなのに、彼とえっちをしたことがない。それなのに他の女は、彼といっぱいしている。

 

 ものすごく面倒くさい女になっていることはわかっていたけれど、他の女だけを抱くのは、惚れないでくれというアピールなのではないかと邪推した。


 桜子の恋心は、わざわざ伝えずとも、真っ向から拒否されているのかもしれない。


「桜子ちゃん、ちゃんと言って? あいつに何かされた?」

「何もないです、本当に。……あの人は、まったく関係ないですよ」


 情けない。声が震えている。彼の前ではもっといい子でいたいのに、これっぽっちもうまくいかない。


 好きな人と一緒に暮らせるのは嬉しいが、そればっかりに、夜中にひとりで泣くことができないのは、いただけないかもしれないな、と思った。


 泣きたい夜だって、いつだって彼のそばにいないといけないのだから。

 

「じゃあ、誰のせい?」

「……」


 誰のせいかなんて、花泥棒先輩のせいに決まっている。このわからず屋の大馬鹿野郎を思いきりののしりたい。


 彼に恋をしてから、自分がものすごく嫉妬深い人間だということを知った。彼が他の女を抱いているのを実感して、悔しくて寂しくて泣いた。なんて、そんなことは言えない。


 一年契約の同居人にすぎない桜子の恋心は、きっと彼を困らせてしまう。桜子は彼の「そばにいること」以外、何も望まれていない。


 毎晩一緒にいるのに抱いてくれないのだから、きっとそういうことなのだ。先輩は、桜子のことを女として愛しているわけではない。それを、ちゃんと理解しないといけない。


「……お兄ちゃんを、待ってるときに読んでた本が、悲しいお話だっただけだよ。誰かのせいじゃないよ」


 わざと〝妹〟の言葉にして、嘘をつく。今また涙がこぼれたのも、悲しいお話を思い出したせいだ。


 彼の、桜子と繋いでいないほうの手が背中に伸びて、あやすようにさすられた。抱き寄せられて、頭を優しく撫でられる。


 悲しみの真っ最中にあったのに、それだけで心がじんと喜びに震えた。優しくて温かい彼のことが、大好きだった。


「そっか。本当に何かあったら、ちゃんと言ってね」

「はい」

「桜子ちゃん、大好き。死なないでね」

「はい、死にません」


 彼と手を繋いでベッドに入ると、毎晩言われる。『大好き』と『死なないで』という言葉を。


「おやすみ、桜子ちゃん」

「おやすみなさい、先輩」


 今日も体は結ばれないまま、花泥棒先輩と桜子は手を繋いで眠りにつく。


 そしてまた明日も白い関係のまま、朝を迎えるのだ。


 こんな毎日を、過ごしている。

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