第4話 濡れ髪よ乾かないで
「だーれだっ」
楽しそうに弾んだ、愛しい人の声を聞く。それだけで嬉しくなって、桜子は口元をだらしなく緩めた。
ふたりきりのこの家で、桜子を抱きしめられる人はひとりしかいない。けれどもその名を呼ぶことは許されていないから、今日も桜子は彼を「花泥棒先輩」と呼ぶのだ。
「花泥棒先輩、そういう
「へへへっ、そっかぁ。てか、桜子ちゃん……。めっちゃ人参じゃない?」
お風呂上がりの温かい体に包まれて、耳元でぼそりと呟かれる。振り返ると、頬に水が落ちてきた。水も滴るいい男、色気溢れるその姿に
お風呂上がりの先輩は、
昼間は化粧で桜色にしているのだが、桜子以外にこのことを知っている女の子はいるのだろうか。いなければいいなと思うのは、誰も知らない花泥棒先輩を、桜子が独り占めしていたいからだ。
温かいこの居場所を、どうか桜子だけのものだと約束してほしい。一年契約の同居人で、同じ学校の先輩と後輩という関係だっただけのはずなのに、随分と強欲になってしまったものだ。
恋心って、恐ろしい。
ぴちょんと目の近くに雫が落ちた。桜子はぱちぱちと瞬きをした後に、はっとやるべきことを思い出す。
「って、水滴! 髪から垂れてますって、もう!」
見惚れるのをやめて料理を中断し、手を引いて彼をリビングへと連れていく。あんまり見つめていたら、身を焦がすような恋心がバレてしまうかもしれなかった。危ない危ない。
彼の肩にかかっていたタオルを奪い、わしゃわしゃと髪を拭いていった。タオルの中から「ごめんごめん」と、軽い謝罪の声が聞こえる。
「ご飯にお水入っちゃったらどうしてくれるんですか? ちゃんと拭いてきてください!」
「でも桜子ちゃんが乾かしてくれるし」
「でもじゃないです。拭いてからドライヤーで乾かすんです」
お小言を言うのも、恋心を誤魔化すためだった。
ヘアドライヤーのプラグをコンセントに挿し込み、彼の頭に、ブオォと
あの女の匂いは完全に消し去られ、いま彼の体に残るのは、この家のシャンプーの匂いだ。ほんの少しだけ勝てたような気分になって、彼の背後でこっそりしたり顔になる。グレープフルーツなんてもう知らない。
お風呂から上がったら相手に髪の毛を乾かしてもらうのが、ふたりの夜のルーティーンのひとつ。先輩の髪を乾かすとき、桜子は、彼を自分だけのものにできてしまったような気持ちになる。
愛しい彼の桜餅みたいな頭を撫でながら、髪を乾かしていく。桜色に染められた彼の髪は、今日もツヤツヤでサラサラだ。濡れ髪が乾くまでの時間は有限。けれどもできるだけ長く乾かなければ良いと、桜子は本末転倒な思いを抱く。
「――はい、終わりましたよ」
物寂しさを覚えながら、この時間に終わりを告げた。乾ききった髪にさらりと毛先まで
「うん。ありがと、桜子ちゃん」
「どういたしまして。ごはん、もうちょっとだけ待っててくださいね」
「うん」
キッチンへと戻って手を洗う。先輩がやってきて、布巾を濡らしてテーブルをせっせと拭き始めた。
彼のその姿を眺めながら、本当に彼が「桜子の夫」になれば良いのにな、なんていう、もう何度目かわからない夢を見た。
作りかけのスープを完成させて、冷蔵庫からお豆腐を取り出してふたつに切る。お皿に盛ったらお盆に載せて、リビングのテーブルへと運ぶ。
「はい、先輩。できました」
「ありがとう、桜子ちゃん」
「どういたしまして」
「じゃあ、いただきます」
「はい、いただきます」
ふたりで向かい合って座り、それぞれ手を合わせて、夜ご飯を食べはじめる。本日のメニューは、ご飯、豚肉の生姜焼き、人参のきんぴら、冷や奴、たくあん、和風わかめスープだ。
桜子はまず人参のきんぴらに手をつけて、花泥棒先輩は豚肉の生姜焼きに手をつけた。
鮮やかなオレンジ色は、箸でつまむとふにゃんと柔らかくしなった。細くて頼りないなよなよした人参を、ぱくりと口の中に入れる。
人参のきんぴらは甘じょっぱく、柔らかめだが少しシャキシャキとしていた。けっこう美味しくできたと桜子は思うのだが、彼はどう思うだろう。
「……花泥棒先輩」
「なに、桜子ちゃん」
「今日は、人参のきんぴらを頑張りました」
先輩が自分のお盆の上の、小鉢に入ったオレンジ色に視線を向ける。そしてものすごく申し訳なさそうな顔でこちらを見た。
「俺、人参苦手なんだけど……」
「はい、だから人参にしました」
「もしや、嫌がらせですか?」
「はい、嫌がらせです」
にっこーと笑って、先輩を見つめる。
何がなんでも食え、という念を込めて。
先輩が人参とにらめっこを始めた。桜子はパリパリとたくあんを噛みながら、その様子を眺める。しばらくして、ぱっと顔を上げた先輩の瞳は煌めいていた。
「食べさせて?」
「はい?」
「桜子ちゃんがあーんしてくれたら、食べれる」
これは想定外の提案だ。どうしようか迷っているとでも言うように、桜子はしばし視線を
「……まあ、先輩がして欲しいって言うなら? やってあげないこともないですけどー?」
意訳、まんざらでもない。
「うん、食べさせて?」
「仕方ないですね……」
「隣おいで?」
「はい、仕方なくお邪魔します」
自分のお盆を持って彼の隣へと移動する。食べさせた後もちゃっかり彼の隣に居座り続けるつもりだ。彼から小鉢を受け取り、自分の箸で少なめにつまむ。
「はい、先輩。あーん」
「あーん」
「……あれ? 美味しいね」
「……美味しい、ですか?」
「もうひとくち、ちょうだい」
「はい」
先程より少し多めに、先輩の口に入れてみる。
「――うん。苦くなくて、美味しいよ」
「……!」
人参が苦手な彼が、二度も『美味しい』と言ってくれた。きっと本当にそう思ってくれたのだろう。どうしよう、嬉しい。口元が
「できるだけ細かくして、
「うん、さすが桜子ちゃん。良いお嫁さんになれるね」
『良いお嫁さん』頂きましたっ! ――と、内心ガッツポーズをする。全然嫌がらせにならなかったが満足だ。
彼が人参を嫌々食べる姿を見たら「ざまあみろ」と笑っていられたかもしれないが、やっぱり「美味しい」と喜んでもらえた方が何倍も嬉しい。
「ねえ、先輩?」
「うん、なに?」
「私にも、食べさせてくれませんか?」
声が震えてしまわないように気をつけて、明るく軽く言葉にする。
「花泥棒先輩」に何かを頼むとき、断られてしまったらどうしようと、いつもすごく緊張している。
学校では〝妹〟を演じれば良いだけだが、家ではただの桜子。〝妻〟でもなく〝恋人〟でもない桜子は、彼との距離感を測るのにひどく慎重になる。
彼は柔らかく微笑んで、桜子の小鉢のオレンジ色をつまんだ。
「いいよ、はい。あーん」
「あーん」
断られなくて良かったとほっとして、彼の箸から人参をいただく。同じもののはずなのに、自分で食べるよりも何倍も美味しく感じた。
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