第3話 「好き」と言えるのは妹だけ


「おまたせ、桜子ちゃん」


 放課後の図書室。窓際に座っていた桜子の手元の本には、夕日の光が差し込んでいた。淡いクリーム色の紙に黒い影が侵入し、桜子は声の主を見上げる。


 ああ、なんて綺麗なんだろう。その美しさにため息が漏れそうになる。


 桜色の髪がこんなに似合う人って、他にいるだろうか。夕日を反射してキラキラときらめく髪は、ともすれば光に溶けて消えてしまいそうで、その儚く美しい姿を目が離さまいとしている。


「……お兄ちゃん」


 学校では桜子は、〝花泥棒の妹〟。小さな声で彼を呼ぶと、彼は唇で弧を描いた。オレンジ色の光に照らされる笑顔を見ただけで、とくんと心臓がときめきの音を鳴らす。


「帰ろ? 桜子ちゃん」


 本を閉じて椅子から立ち上がれば、彼が本を受け取ってくれた。グレープフルーツの汗ふきシートの香りがふわりと漂う。その匂いを嗅いで、じわりと瞳に涙がにじんだ。泣かないようにぐっと唇を引き結んで、彼の腕に絡みつく。グレープフルーツの主張が強くなる。


「もう、お兄ちゃんったら遅い! さくら、ずっと待ってたんだよ?」


 すように、いつも通りの〝妹〟を演じた。妹を放ったらかしにした兄に文句を垂れるだけと見せかけて、嫉妬の念を覆い隠すように。


 激しい運動をすれば汗を掻く。ゆえに、汗ふきシートは彼の必需品のひとつだ。けれど彼は今、シャボンの香りの汗ふきシートを携帯しているはずだった。

 だから、このグレープフルーツの匂いはきっと、あの女が持っていたシートの匂いなのだ。他の女と激しい運動をした結果の匂いが、彼の体に残っている。


 あの女と同じ香りをまとっているなんて許せない。こんな匂い、早く落としてやりたい。桜子が匂いのせいで不機嫌になっていると、それを知ってか知らずか彼は申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「ごめんね。帰りにアイス買って帰ろ?」

「……バーゲンダッテのクッキーアンドクリームが良い」


 せっかくなので、そこそこお高めのアイスを所望してやる。


「うん、いいよ」


 読んでいた本を棚に戻すと、彼に頭を撫でられながら図書室を後にした。下駄箱のところで一旦別れて、靴を履いたらまたすぐに合流する。



「ぶふぇっ」


 間抜けな声が聞こえて、思わずくすくすと笑ってしまった。彼がぎゅっと目を瞑り、綺麗な顔がくしゃりと歪む。


 桜子は昇降口から出ると、彼の顔面にフレグランススプレーをぶっかけたのだ。シュッシュと彼の体にも、スプレーをかけまくる。


「なに、桜子ちゃん?」

「お兄ちゃん臭いんだもん。帰ったら早くお風呂入ってね?」

「ああ、ごめん。汗ふきシート使ったんだけど――」

「それが嫌なの! シャボンの香りじゃないと許さないんだから」

「うん、わかった」


 桜子と同じ香りのフレグランススプレーをまとわせたところで、とりあえずは満足した。あの女の匂いなんて消してやる。


 腕を絡めて、ボタンは外していないけれど、ほどよく筋肉のついた二の腕にぐいぐいと胸元を押しつけてみた。そっと彼の様子を窺うと、頬がかすかに赤らんでいる。うまくいっただろうか。


「あの、桜子ちゃん?」

「なに? お兄ちゃん?」

「……当たってます」

「当ててるの」

「えぇ……」


 にこにこ笑顔で、彼にぎゅっと絡み続ける。もっともっと困ってしまえば良い。ドキドキして、それで私を抱いてくれれば良い。


「コンビニ着くまで、このままね」

「桜子ちゃん、怒ってる?」

「お兄ちゃんが悪いんだよ? さくらのこと放っておいて、他の女の子と変なことばっかりしてるんだから」

「ごめん、でも桜子ちゃんのことが一番好きだよ」


 甘い声に、ゆるゆると頬が緩む。『一番好きだよ』なんて言われたら、やっぱり嬉しくなってしまうのだ。彼に、忘れられない、もうこの世にいない好きな人がいるらしいことは、知っているけれど。


「お兄ちゃん、大好き!」


 こんなふうに言えるのは、〝花泥棒の妹〟を演じているこのときだけだった。


 家に帰れば桜子は、ただの桜子。 


〝お嫁さんのように〟と言えども、彼は桜子に、性的に夫婦のような役割をするよう求めているわけではない。彼は実際的には、「そばにいること」以上のことは求めてこないのだ。


 妹の演技をしている間に言った「好き」なら、彼は台詞せりふとして捉えてくれる。けれど家で桜子が言った本気の「好き」を聞いたら、「そういうのはいらない」と、フラれてしまうかもしれない。


 好きな人にフラれるのは、怖い。本当に彼に惚れているから、好意を否定されることに耐えられない。

 だから「お兄ちゃん」にしか、「好き」とは言わない。演技で言う「好き」しか言えない。


 こういうとき、家でも学校でも「花泥棒」で、どこでも桜子へ愛を伝えられる彼のことを、ずるくて羨ましいなと思う。

 ただ彼が「花咲 薫」を捨ててしまったように見えることは少し悲しくて、いつかまた「薫先輩」と呼びたいと思ってしまう。


 ……また? ――と、自分の思考に首を傾げた。彼のことを「薫先輩」と呼んだことはないはずなのに、なぜこんなふうに思ったのだろう。


 そんなことをもやもやと考えている間にコンビニに着いて、彼の腕に強く抱きつくのをやめた。いつも通りに手を繋ぐと彼はほっと安心したような表情になり、頬の赤みもだんだん引いていく。


 やっぱり、今日の色仕掛けもうまくいかなかった。きっと今日も、彼とは結ばれない。



❀ ❀ ❀



「ただいま」

「ただいま」


 ふたり暮らしの部屋にふたりで帰宅して、「ただいま」を言う。

 宝くじを高額当選させたから金には困っていないと言う先輩の家は、高級マンションのだだっ広い一室だ。


 家に着いたら桜子は〝花泥棒の妹の紫ノ姫〟ではなくなり、彼は「お兄ちゃん」ではなくなる。


 彼は「花泥棒先輩」で、桜子はただの桜子だ。


「お風呂掃除して、入ってくるね」

「はい、お願いします。私は夜ご飯作りますね」


 彼はお風呂場に行き、桜子は彼が買ってくれたアイスクリームを冷凍庫にしまったあと、夜ご飯の支度を始めた。


 冷蔵庫から人参を取り出して、皮を剥いて三等分。薄切りにして千切りに。


 人参が苦手な彼に、人参のきんぴらを作ってやるのだ。調味料と胡麻ごまを除けば人参しか使われていない料理なんて、恐ろしい嫌がらせだろう。できるだけ頑張って細かく切ったものを水にさらしてから、フライパンで炒めていく。


 桜子は花泥棒先輩と暮らしはじめてから、毎日のようにご飯を作っている。けれども実は、別に料理が得意なわけではない。


 彼と同棲するまでは、桜子はほとんどひとり暮らしのような生活をしていた。幼い頃に両親が離婚してからふたり暮らしをしていた母が、数年前から男のもとばかりに通うようになったからだ。


 ほとんどいつも、家賃の安いぼろアパートにひとりぼっち。ゆえに自炊はしていたが、料理のレパートリーは指の本数よりも少ないくらいしかなかった。節約をしていたため、家にある食材が、米ともやしと卵の三種だけだったのだ。


 そんな桜子だったけれども、先輩にお世話になり始めてから二週間の間に、ややレベルアップしたように思う。


 ソーセージやハムを焼けるようになり、次にシシャモを焼けるようになり、やがて豚ロース薄切り肉を焼けるようになった。今は豚肉の生姜焼きを作っているところだ。


 生肉の死体感が怖いと怯えてさわれずに、泣きそうになりながら先輩に謝罪した、一週間ほど前のことを思うと感慨深い。『無理しないでいいよ』と言って、少しずつここでの生活に慣れさせてくれている先輩は、とても優しい人だと思う。


 彼と一緒に暮らしはじめて、自分はきっと今まで寂しかったのだな、と気づいた。誰かにそばで温めて欲しいと、ずっと心の奥では思っていたのだろう。


 彼に毎日、『大好き』『死なないで』という言葉を聞かされた。きっとその言葉で、桜子は、自分が生きていても良い存在だったと思えたのだ。生きていることを許されたのが嬉しくて、彼に心を奪われた。


 ぐでぐでに甘やかされて、身も心も溶けてしまいそうだと思ったことが何度もある。けれども彼が桜子を大事にしてくれる理由は、いまいち把握できていない。


 どうして先輩は、こんなに私を大切にしてくれるんだろう。


 ぼんやりと考え事をしながら料理をしていると、ふいに背後からぎゅっと抱きすくめられた。

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