第2話 「花泥棒」と「紫ノ姫」 −後−
この学校には、〝
彼女のあだ名は〝
〝花泥棒〟と〝紫ノ姫〟は、兄妹のふりをしているだけで本当の兄妹ではない。けれども紫ノ姫こと桜子が、花泥棒先輩に恋をしているのは事実である。
「あの、紫か……!」
桜子の立場を理解したなんとか先輩が、さっと顔を青ざめさせた。サッと九十度の角度のお辞儀をする彼を見て、いかにも運動部らしいな、と桜子は思う。
「すまない! 君の兄には言わないでくれ」
「はい。こんなくだらないこと、わざわざお兄ちゃんに言ったりしませんよ。あの人、私が他の男と喋るだけで嫉妬するんですから」
紫ノ姫は、ある意味、生徒から恐れられている。紫ノ姫に手を出すと、シスコン花泥棒の
この先輩が元彼女さんを寝取られてしまった詳細な理由はわからないが、花泥棒先輩のことを恐れているのは事実だろう。哀れな彼の心の傷が、一刻も早く癒えることを願うばかりだ。
「頼んだぞ」
「ええ」
そんな真っ青な顔で釘を刺すように言われなくても、好きな人を不機嫌にさせることなんて自ら進んで言うつもりはない。
「バイバイ、紫ノ姫ちゃん」
「はい、さようなら」
怯えている陸上部のなんとか先輩と、ヘラヘラした感じのそのお連れ様が立ち去ると、桜子はまた窓の外へと視線を向けた。
花泥棒先輩の手があの女の
「……」
潰れかけた箱の蓋をガッと開け、中に残っていたグミをじゃらじゃらと全部一気に口のなかに流し込んだ。口をもごもごとさせながら、くるりと窓に背を向ける。
走り出そうとして、壁を見て、やめた。「廊下を走るな!」という、端っこがよれて
口のなかは味が混ざって、もう何味だかよくわからなかった。ただ甘ったるくて酸っぱい味がして、その強い甘さが喉に流れるとツンと痛い。頬を伝った塩味が口に入って、グミの甘酸っぱさに混ざってかき消える。ひとつひとつゆっくり食べたら美味しいのに、一気食いしたら飲み込んでも変に後味が残って、あんまり美味しいと思えなくなってしまった。
特に行くあてなんてないけど、今はひとりになりたいな。
そうして足のおもむくままに任せて、南棟の女子トイレの一番奥の洋式の個室に入った。バタンと勢いよく扉を閉める。乱暴にトイレットペーパーを引きちぎって、目元の水分に押し当てた。紙の切れ端が目元に残って
しかしそれでも
彼が他の女を抱いているのは知っていて、他の女とキスをしているのは何度も見たことがある。でもあんなふうに太腿やその先に触っている生々しい姿を見たのは、今日が初めてだった。
見ていたほうが悪いのだと言われたらそれまでだ。でも彼が他の女を抱いているという現実を、改めて見せつけられたような気分だった。
悔しい、悔しい。私だって、先輩にもっといっぱい触って欲しいのに。
彼女らと桜子と、いったい何が違うのだろう。
彼がピアスを許してくれないから、代わりにイヤリングを学校につけていこうとしたときもあった。けれど彼は、『男の狩猟本能を刺激するようなのは
ブラウスの上のボタンをいくつか留めずに、
花泥棒先輩に抱かれる女の
〝花泥棒〟と〝紫ノ姫〟は、兄妹である。
学校のなかでのその常識は、真実の姿ではない。これは契約の上に成り立っている、偽りの関係だ。
紫ノ姫こと、
花泥棒こと、
ふたりは本当は義兄妹でも恋人でもない、赤の他人だった。
ただ一緒に暮らしているだけ。ただ毎日一緒にご飯を食べたり、テレビを見たりゲームをしたり、勉強したり、手を繋いで眠ったりしているだけ。
ただ、桜子が一方的に、本気の恋をしてしまっただけ。
彼との一年契約の、ふたつめの条件。桜子の払う対価。
彼と一緒に暮らし、そばにいること。
彼は家での関係を、「事実婚」のようなものだと思えば良いと言った。「お嫁さん」のつもりで一緒に暮らせば良いと言ってくれた。
これらの対価を払うことで、彼は一年間の桜子の衣食住を提供し、身を守ってくれると言う。彼と交わしたのはそういう契約だった。
出会ったその日に『一緒に暮らそう』と言われて、最初は『なんだこの不審者』くらいにしか思っていなかった。けれど話を聞いてみて、これなら楽に暮らせると思って承諾したのだ。
彼と出会ってから、まだそんなに日は経っていない。彼と暮らし始めてから、ほんの二週間ちょっとくらいしか経っていない。
桜子は、なぜか彼に愛されていた。あんなに温かく優しく包んでくれる人を、桜子は他に知らない。毎日愛を
あんなに愛されたのが初めてで、
彼は毎日、『大好き』って言ってくれる。そのくせなぜか、抱いてはくれない。それが悔しくて悲しくて、どうしようもなくつらかった。
あの女たちは、彼に「名前を付けて保存」される。抱いた女リストに、名前を連ねていく。桜子は、空っぽの真っ白のファイルの中に、毎日その日の日付とともに「上書き保存」されている。白い関係を貫いて、体は結ばれないまま、思い出だけが積み重なる。
桜子は、本当は彼のいったい「何」なのだろう。満たされない心のなかにある空間に、不信感という名の風が吹きすさぶ。
スマホが震えて、彼からのメッセージが届いた。メッセージアプリの名前すらも彼は「花泥棒」だ。
[放課後、また図書室で待っててね]
その言葉の裏にあるのは、彼が放課後にどこかの空き教室であの女を抱くという予定だった。彼が他の女との情事に及んでいる間、桜子はいつも図書室で待たされる。そして他の女と愛し合ったあとの彼と手を繋いで、ふたりの家へと帰るのだ。
[先輩なんて大ッ嫌い!]
涙で霞む視界で何度も誤字っては消しながら、嘘でしかない文面を打ち込んだ。紙飛行機の形の送信ボタンを、人差し指で強く叩く。返信は、すぐに届いた。
[ごめんね]
申し訳ないと思うなら、しなきゃいいのに。あの馬鹿野郎。
ムカつくから、今日の夜ご飯は彼の苦手な
めそめそと泣きながら、人参を使ったレシピをスマホで検索し始めた。嫌がらせで人参料理にするつもりだったのに、できるだけ美味しいものを作りたいと思ってしまっている自分に気づいて腹が立つ。
だって料理がうまくできると、彼は『桜子ちゃんは良いお嫁さんになれるね』と言ってくれるのだ。
一年契約を結んだ彼に、本気の恋をした。
桜子は彼の、「本当のお嫁さん」になりたかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます