第2話 「花泥棒」と「紫ノ姫」 −後−

 この学校には、〝花泥棒はなどろぼう〟と呼ばれる男がいる。いろんなおんなを盗んでいく、あるいは手折たおっていく。数多あまたの女の子に手を出して、遊びまくっているようなクズ男だ。そんな花泥棒には、愛してやまない妹がいる。


 彼女のあだ名は〝紫ノ姫むらさきのひめ〟。かの有名な『源氏物語』の源氏の最愛の女性、〝紫の上〟にインスパイアされたあだ名らしい。兄との禁断の恋に溺れているとの噂もされているが、実際は嘘とも真実とも言えない微妙なところだ。


〝花泥棒〟と〝紫ノ姫〟は、兄妹のふりをしているだけで本当の兄妹ではない。けれども紫ノ姫こと桜子が、花泥棒先輩に恋をしているのは事実である。


「あの、紫か……!」


 桜子の立場を理解したなんとか先輩が、さっと顔を青ざめさせた。サッと九十度の角度のお辞儀をする彼を見て、いかにも運動部らしいな、と桜子は思う。


「すまない! 君の兄には言わないでくれ」

「はい。こんなくだらないこと、わざわざお兄ちゃんに言ったりしませんよ。あの人、私が他の男と喋るだけで嫉妬するんですから」


 紫ノ姫は、ある意味、生徒から恐れられている。紫ノ姫に手を出すと、シスコン花泥棒の逆鱗げきりんに触れることになるからだ。女なら報復に好き勝手に遊ばれて、男なら大事な女を寝取られる――なんて噂をされている。


 この先輩が元彼女さんを寝取られてしまった詳細な理由はわからないが、花泥棒先輩のことを恐れているのは事実だろう。哀れな彼の心の傷が、一刻も早く癒えることを願うばかりだ。


「頼んだぞ」

「ええ」


 そんな真っ青な顔で釘を刺すように言われなくても、好きな人を不機嫌にさせることなんて自ら進んで言うつもりはない。


「バイバイ、紫ノ姫ちゃん」

「はい、さようなら」


 怯えている陸上部のなんとか先輩と、ヘラヘラした感じのそのお連れ様が立ち去ると、桜子はまた窓の外へと視線を向けた。


 花泥棒先輩の手があの女の太腿ふとももに触れて、スカートのなかへと入っていく。ふたりがまたキスをして、これ以上見ていられないようなピンクな空気をかもし出す。


「……」


 潰れかけた箱の蓋をガッと開け、中に残っていたグミをじゃらじゃらと全部一気に口のなかに流し込んだ。口をもごもごとさせながら、くるりと窓に背を向ける。


 走り出そうとして、壁を見て、やめた。「廊下を走るな!」という、端っこがよれていろせた紙の命令に従い、真面目を自負する桜子は仕方なく早歩きで歩く。上履きのゴム製の底が廊下と触れ合って、ときおりキュッと鳴くような音を立てた。歩く。歩く。歩く。


 口のなかは味が混ざって、もう何味だかよくわからなかった。ただ甘ったるくて酸っぱい味がして、その強い甘さが喉に流れるとツンと痛い。頬を伝った塩味が口に入って、グミの甘酸っぱさに混ざってかき消える。ひとつひとつゆっくり食べたら美味しいのに、一気食いしたら飲み込んでも変に後味が残って、あんまり美味しいと思えなくなってしまった。


 特に行くあてなんてないけど、今はひとりになりたいな。


 そうして足のおもむくままに任せて、南棟の女子トイレの一番奥の洋式の個室に入った。バタンと勢いよく扉を閉める。乱暴にトイレットペーパーを引きちぎって、目元の水分に押し当てた。紙の切れ端が目元に残っていらついて、子どもっぽく地団駄を踏む。


 しかしそれでもいきどおりは治まらずに、情けない嗚咽おえつが口から漏れた。人があまり来ないトイレであるのを良いことに、苛立ちをぶつけるようにドアを強く叩く。じぃんと鈍い痛みが拳に響き、どうしようもなく悔しくなった。浅い呼吸を繰り返して、ずるずると床にへたり込む。熱い涙が頬を伝った。


 彼が他の女を抱いているのは知っていて、他の女とキスをしているのは何度も見たことがある。でもあんなふうに太腿やその先に触っている生々しい姿を見たのは、今日が初めてだった。


 見ていたほうが悪いのだと言われたらそれまでだ。でも彼が他の女を抱いているという現実を、改めて見せつけられたような気分だった。


 悔しい、悔しい。私だって、先輩にもっといっぱい触って欲しいのに。


 彼女らと桜子と、いったい何が違うのだろう。


 彼がピアスを許してくれないから、代わりにイヤリングを学校につけていこうとしたときもあった。けれど彼は、『男の狩猟本能を刺激するようなのは駄目だめだよ』と言って、そのイヤリングを外してしまった。


 ブラウスの上のボタンをいくつか留めずに、あかけた格好にしてみようとしたこともある。けれど彼は、『男がいやらしい目で見てくるから駄目だよ』と言って、ボタンを全部留めてしまった。


 花泥棒先輩に抱かれる女の真似まねをしようとすると、彼はいつも止めてくる。桜子は染まらない黒髪のまま、カラコンも着けず、制服も着崩さず、まさに清純派というような格好をさせられている。


〝花泥棒〟と〝紫ノ姫〟は、兄妹である。


 学校のなかでのその常識は、真実の姿ではない。これは契約の上に成り立っている、偽りの関係だ。


 紫ノ姫こと、づき さくら

 花泥棒こと、花咲はなさき かおる


 ふたりは本当は義兄妹でも恋人でもない、赤の他人だった。


 ただ一緒に暮らしているだけ。ただ毎日一緒にご飯を食べたり、テレビを見たりゲームをしたり、勉強したり、手を繋いで眠ったりしているだけ。


 ただ、桜子が一方的に、本気の恋をしてしまっただけ。


 彼との一年契約の、ふたつめの条件。桜子の払う対価。

 彼と一緒に暮らし、そばにいること。


 彼は家での関係を、「事実婚」のようなものだと思えば良いと言った。「お嫁さん」のつもりで一緒に暮らせば良いと言ってくれた。

 

 これらの対価を払うことで、彼は一年間の桜子の衣食住を提供し、身を守ってくれると言う。彼と交わしたのはそういう契約だった。

 

 出会ったその日に『一緒に暮らそう』と言われて、最初は『なんだこの不審者』くらいにしか思っていなかった。けれど話を聞いてみて、これなら楽に暮らせると思って承諾したのだ。


 彼と出会ってから、まだそんなに日は経っていない。彼と暮らし始めてから、ほんの二週間ちょっとくらいしか経っていない。


 桜子は、なぜか彼に愛されていた。あんなに温かく優しく包んでくれる人を、桜子は他に知らない。毎日愛をささやかれていたら、いつしか桜子の方が彼を本気で好きになってしまっていた。


 あんなに愛されたのが初めてで、刷り込みインプリンティングのように彼のことしか見えなくなっているだけなのかもしれない。でも、好きだと思っていた。これが恋なのだと信じていた。彼の唯一の恋人になれたら良いのにと、願ってしまう。


 彼は毎日、『大好き』って言ってくれる。そのくせなぜか、抱いてはくれない。それが悔しくて悲しくて、どうしようもなくつらかった。


 あの女たちは、彼に「名前を付けて保存」される。抱いた女リストに、名前を連ねていく。桜子は、空っぽの真っ白のファイルの中に、毎日その日の日付とともに「上書き保存」されている。白い関係を貫いて、体は結ばれないまま、思い出だけが積み重なる。


 桜子は、本当は彼のいったい「何」なのだろう。満たされない心のなかにある空間に、不信感という名の風が吹きすさぶ。


 スマホが震えて、彼からのメッセージが届いた。メッセージアプリの名前すらも彼は「花泥棒」だ。


 [放課後、また図書室で待っててね]


 その言葉の裏にあるのは、彼が放課後にどこかの空き教室であの女を抱くという予定だった。彼が他の女との情事に及んでいる間、桜子はいつも図書室で待たされる。そして他の女と愛し合ったあとの彼と手を繋いで、ふたりの家へと帰るのだ。


 [先輩なんて大ッ嫌い!]


 涙で霞む視界で何度も誤字っては消しながら、嘘でしかない文面を打ち込んだ。紙飛行機の形の送信ボタンを、人差し指で強く叩く。返信は、すぐに届いた。


 [ごめんね]


 申し訳ないと思うなら、しなきゃいいのに。あの馬鹿野郎。


 ムカつくから、今日の夜ご飯は彼の苦手な人参にんじんにしてやる。あんな男、βベータカロテンでも摂っていれば良い。


 めそめそと泣きながら、人参を使ったレシピをスマホで検索し始めた。嫌がらせで人参料理にするつもりだったのに、できるだけ美味しいものを作りたいと思ってしまっている自分に気づいて腹が立つ。


 だって料理がうまくできると、彼は『桜子ちゃんは良いお嫁さんになれるね』と言ってくれるのだ。



 一年契約を結んだ彼に、本気の恋をした。


 桜子は彼の、「本当のお嫁さん」になりたかった。

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