第14話 硯

(墨を磨るなんていつぶりかな。)


武子は、押し入れの奥にしまってあった習字道具セット一式を出してきた。


外側は少しほこりっぽかったため、中も汚いのだろうかと不安になったが、案外きれいであった。


(カビでも生えてたらどうしようかと思ったけど、大丈夫みたいね。)


武子は、胸をなでおろした。


武子は、夫と娘二人の四人家族で暮らしている。


二人の娘の内一人は大学生の祐於ゆよで、もう一人は来年から小学三年生になる沙也だ。


今日は、祐於ゆよが小学生の時使っていた習字セットを沙也に挙げるため、押入れを見ていたのである。


夫は「おねぇちゃんのおさがりはいやだろうに」と言っていたが、沙也は「おねぇちゃんのでいい。」と特に嫌がる素振りを見せなかった。


祐於ゆよも特に気にしていなかったため、習字セットを買わずにしたのだ。




「ちょっと磨ってみよう。」


硯は、几帳面だった由夜が毎回使った後、手入れしてたため表面が綺麗だ。


その黒い表面を見てると、武子は小学生に戻った気分で書いてみたくなった。


水の入ったコップを持ってきて、硯の丘に垂らそうとした時、「あ」と声を挙げた。


硯の墨池部分に水が入っているのだ。


(私、いつ入れたんだっけ?)


そう思っていると、墨池に入っている液体が風もないのに揺れ始め濃い青色となり、所々白い泡を見せた。


「な……んで?」


不可解な現象はまだ続いた。


今度は、硯の丘の部分が黄色に変わり、その丘では複数の小人が楽しそうにはしゃいでいる。


その光景は、海ではしゃいでいる人たちのワンシーンをジオラマで再現したような感じであった。


「何が起きているの?」


ふと武子は、学生の友達からこんな話を聞いたのを思い出していた。


(硯の魂って知ってる?ほんとかどうか知らないけど、硯が月日を経ると起きるみたいなんだけどね。墨を磨ろうとしたらどういう訳か、墨池に海が出てきて、複数の侍が現れて、船まで出てくる始末。たちまち硯の上は源平合戦そのものになってしまったって話があるんだ。)


それはただの作り話だと思ってた。


それに今目の前で起きていることは、源平合戦という大層なものではなく、海水浴の風景そのままだ。


「でも、なんか見たことある風景なのよね。」


意外にも恐怖は感じなかったが、磨るのは若干躊躇ってしまった。


どうしようか考えていたが、次第にその光景は薄くなっていき、元の硯に戻っていった。


「磨ってみよう。」


武子は、丘に十円玉くらいに水を垂らし磨った。


磨ったとたん目の前に懐かしい光景が現れてきた。


幼少期に亡くなった両親と海水浴にいった光景、一度きりの旅行だった。


(そうか、あれは私が子供だった時の……)


どうして、娘の使っていた硯に私の思い出が具現化されたのか分からないが、そんなことはどうでもよかった。


武子は、用紙と筆を取り出し、「海」と書いてみることにした。


書いてみたところ、文字の黒い部分に武子の見た光景が写しだされていた。


しかし、長い時間その光景を見せず、一分も経たないうちに紙に書かれただけの黒い「海」の字になってしまった。


「やっぱり思いでを文字で残すのは難しいのね。」

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