二「鵬」

 1

 夜になって、シノニムは自分の部屋に案内された。昼間一緒に行動していた原理とは既に別れ、今は杏樹が先導していた。

「ここね。アラームの使い方はわかるでしょ?」

 うん、と頷いたシノニムの表情はどうにも浮かない様子だ。一人でいることに対して抵抗があるような、そんな顔色が見えている。

「大丈夫? 怖いのかしら」

「なんとなく、寒気がするよ。なんでだろう」

 杏樹にはそれが、シノニムの記憶がないことに起因する不安感だと予測していた。それが正しいかは判別できないけれど、それでも不安である事実は否定しようがない。

「ううん。どうしたらいいかな」

 呟きながら腕で自分の身体を包むようにしている。寒気というのは本当なのだろうけれど、心因性の異常を物理的に解決する手段はないのではどうしようもない。

「仕方ないわね」

 その声にシノニムがはっと顔を上げた。しかし何か声を発する前に杏樹がシノニムを両腕で包むようにしていた。

「むぐ、うー。あの、アンジュさん?」

「落ち着くまで一緒に寝ようか。しばらくすれば慣れるわ」

 その言葉の奥にある熱に、シノニムの視線が少しだけとろけた。やはり誰かが近くに居ることが条件なのだろうか、と考えるのは普通のことだろう。



……

 寝起きの原理の表情が不思議にはっきりしていた。見ていた夢の欠片が消えてゆくのを眺めながら、その意味について考えるよくわからない時間を過ごしていた。

「いや、意味無いだろ」

 夢なんて記憶だっての、と至極現実的な考えに至って頭を振った。寝癖に偏る銀色の髪を弄りながら、ベッドから降りるとふらつく。

 昨日、父親を思い切り殴ったのが反動で返ってきたのかと考えるが、そんなのも癪なので気にしないことにした。

 端末を起動して時刻を見れば七時を過ぎている。

 着替えてからいつものようにトレーニングをしようかと思って部屋を出ると、杏樹とシノニムが揃って歩いてくるのが見えていた。

 杏樹の髪にはらしくもなく寝癖がついている。元々癖の少ない髪質だからこそ目立つものだった。

「よう、眠そうだな」

「おはよう。眠くはないけれど休めているかは微妙ね……」

 よくわからないことを言う。身体と精神の不均衡はそういうものなのかもしれなかった。

「シノを見てて。私は着替えてくるから、食堂で合流しよう」

「わかった」

 返すと、杏樹はさっさと自室に引っ込んでいった。それを見てからシノニムの方を見遣る。彼女は眠たげに半眼だった。不機嫌には見えないけれど、虚ろな目は少し怖い。

「じゃあ、案内するけど。まだ食事は摂ってなかったよな」

「うん、おなかすいた……」



「毎日ってのは無理だろ、今夜だって第五部隊には通常警備の任務があるしさ」

「つうじょうけいび?」

 鵬の内部でも不穏な事件は稀に起こる。それを防ぐために戦闘部隊が毎夜見回っている。それは毎日どこかの部隊が持ち回りで担当しているのだけれど、今夜が第五部隊の番であるというだけの話だ。

「そっか……どうしよう」

「空に頼むか? 頼めば引き受けてくれるとは思うけど」

「ソラさん? 来てくれるかな」

 何故か警戒しているような表情だった。本人が見たら怒るか泣くかしそうだと思いかけて、そうでもないか? と考え直す。普段からへらついている空が激しく怒ったことなんて見た記憶が無いし、泣いているところも見たことなかった。

 感情が読めないのは確かに怖いか。

「そこまで怖がられるとは思ってなかったんだけど」

「…………俺は何も言ってないけどさ」

 知ってる、と空は原理の隣に座る。向かいに座っているシノニムはそのトレイに乗っている食事の量に驚いたようだった。

「で、何かあったの?」

 食堂のざわめきの中でも、空の幼さを残した声は紛れることはない。

 原理には説明することはできない。それこそ、シノニム自身の問題なのだし。

 彼女が説明するしかない、と原理が促すと、頷いていた。


「……うーん? なんだ、そんなことか。普通に頼んでくれれば応えるよ?」

 何もこんな場所で遠慮も配慮もいらないんだから、と空はあっさりと承諾してくれた。やはりそこは年上の余裕というものなのかと原理が感心していると、直後に空は面白そうに笑う。

「シノちゃん、可愛いしさ。もうちょっと詳しく知りたいってところもあるんだよね。君が最終的に戦闘部隊に配属されるのかは判らないけれど」

 シノニムはその台詞に瞠目していた。どこに驚いたのかは原理には判らない。

「ボクは君が何かを持っていると思ってる。しかもとびきり危険な何かをね」

 それをどうするかは、君次第だけれどね。そう言うのだが。

 シノニムの持つ危険性。それは異形としての凶暴性という意味だろうか。原理がそう問うたら、違うよと否定された。

「シノちゃんは人間に戻っているから。異形化することはもうないんじゃないかな?」

 これは勘だけど、彼女に異形の刺々しさはないでしょ? と、空は原理も感じていた感覚を次々と言葉にしていく。的確なのかは判断できない。しかし二人の感性が似通っていることは自覚できるような気がした。

「異形、ってなに? みんな言うけど、教えてもらってないよ」

「あー。そうだな、説明はしてないけど。俺たちはっていうか艦に居る人たちの大部分は理解できていないと思うよ。俺もよくわからないし」

「異形が何かっていう問いはボク達より研究室で訊いた方が早いけれど、理解できるかは怪しいね。シノちゃん、生物科学(バイオロジー)は修めてる?」

「ばいおろじぃ? なにそれ」

 まあ無理筋だと解っていた。

「そのレベルじゃあ、考えるだけ意味ないよ。ボクたちは異形を「人間に敵対する化け物」とだけ捉えていればそれでいいんだ」

「人間の敵?」

 そう、と空は頷く。

「捕食者だからね。今では地球の生態系の最上位に存在する生き物だよ。まあ、知性のヒエラルキーは相変わらず人間の方が上だけれどね」

 そして、と空は持っている箸をぴっ、とシノニムに向ける。

「シノちゃんのような異形から人間に「戻った」らしい存在を「覚醒者」って呼ぶんだって」

「覚醒者? 研究室の人に聞いたのか?」

「まーね。鵬の記録には一件だけ残ってた。三百年以上前のことだけどね」

 シノニムは困ったような表情だった。自分が異形の存在だったなどと言われても、今の彼女にそんな記憶はない。

「詳しいことは解らないけどね。異形が人間に関係あるなんて、広めるわけにはいかないんだもの。これ以上訊きたいなら、日長総隊長に会った方が良いよ」

 気難しいしめんどくさい人だけどね、と笑っていた。その屈託した笑みには、色々な感情が混じっている。

 原理はその表情に、ただ笑っているのではないと知るのだった。

「その、かくせいしゃって異能者とは違うの?」

「違うらしいよ。何がとは言えないし、それは自分で見つけるしかないからさ」

 無責任だと思うかな? と首を傾げた。

 シノニムは首を振った。

「わたしがそうだっていうなら、それを見つけるのも自分の責任だから」

「……シノはさ」原理は思っていたことを口にする。「ちゃんと自分の考えを持ってるんだな。記憶が無いと軸になる思想も消えるものだと思ってたから、意外だ」

 そうかなあ、と不思議そうにしているシノニムは、嬉しそうだ。

「思ったことを言っているだけだから」


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