第55話

 能登幹の口から「好き」と聞いたのは堤お嬢さ様のご自宅へ招かれて以来だった。しかし、あの時と比べて妙に意識してしまっていたのは、海水浴で見た奴の裸体が憚らず、深層意識に作用したのかもしれない。



「やめてくれよ。そん事を言うのは」



 それ故か、僕は奴を拒絶した。ホモセクシャルへの忌避感なのか、それとも簡単に好きだの嫌いだのと吐く軽薄な精神に怒りを覚えたのか僕自身でも判断できかねたのだったが、よく考えてみれば能登幹は同性愛趣向などを白状しているわけでもないから、前者であれば僕の自意識が過剰に反応していたと言わざるを得ないだろう(後者であれば、軟派を気取って「女が好き」などと吹聴していた自分を棚上げする事になる)が、兎にも角にも奴に不快感を抱いた事は確かであり、能登幹の言動を批判するに十分な感情的根拠を僕は有していたのだった。



「ごめん」



 能登幹は一言、小雨が葉を叩くみたいなしょげ返った声で謝り頭を下げた。思ったよりも随分堪えたと見えるが、こうなると僕が悪辣な人間となってしまったかに思ええてしまって大変に良心が傷み、許さざるを得ない心境へといたり、奴に贖罪し、逆に許しを請わねば仕様がなかった。


「いや、悪かったよ。すまない。まさかそんなに思い詰めるなんて想像できなかったんだ。ごめんよ」


 自分でも必死に弁明じみた言葉を並べ立てたなと思う。記憶にはないが、結構な早口で捲し立て、狼狽えた様を晒してしまったに違いなく、振り返ってみると羞恥に顔が染まる。



「そんなに謝らなくとも……」



 僕の狼狽を見て能登幹は吹き出し、その後はいつも通り善き隣人としてお互いしょうもない話をしたような気がする。

 しかし、能登幹がこの時どのような面持ちであったかは知りようのない事だったし、考えようともしなかった。後日、僕は奴の真意を知り、軽々に突き放したり取り繕ったりした事を後悔したのだが、それはまだ少し先の話である。

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