第13話 琵琶湖の決闘
天正9年(1581年)4月、上柘植の福地伊予守宗隆、河合村の耳須弥次郎具明の2人が安土城の信長の所に訪れ、伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た。
そして再び織田信雄を総大将に5万の兵で伊賀国に侵攻した。『信長公記』『多聞院日記』には9月3日に攻撃開始との記述があるが、『伊乱記』では9月27日に6か所(伊勢地口から信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口から蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光が攻撃したと記述されている)同月6日より戦闘が開始された。 伊賀衆は比自山城に3,500人(非戦闘員含め10,000人)、平楽寺(後の伊賀上野城)に1,500人で籠城した。伊賀衆は河原(あるいは比自山の裾野)で野営していた蒲生氏郷隊に夜襲を掛け、氏郷隊は寝込みを襲われ敗れた。筒井順慶隊にも夜襲を掛け、1000兵を討ち取られた。これに怒った氏郷は平楽寺を攻撃し、退けられるが滝川一益の援軍を得て陥落させた。続く比自山城は、丹羽長秀らが幾度となく攻略しようとしたが、その都度敗退し、落とせなかった(比自山城の戦い、この時活躍した伊賀衆を比自山の七本槍という)。しかし、総攻撃の前日に全ての城兵は柏原城に逃亡した。その後、内応者が出た事もあり(伊賀衆は織田方の調略を受け、連携を欠いていた)、織田軍は各地で進撃し同月11日にはほぼ伊賀国を制圧した。村や寺院は焼き払われ、住民は殺害された(平楽寺では僧侶700人余りが斬首、伊賀全体では9万の人口の内非戦闘員含む3万余が殺害された)。
奈良の大倉五郎次という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入り、惣名代として滝野吉政が28日早朝に信雄に会って、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。『信長公記』ではこの停戦時期を9月11日としている。『多聞院日記』では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のずれはあるが、当時の伝聞を集めた記録として信頼性は高い。
この柏原城が開城した時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。残党は捕縛され殺されたが、多くの指揮官は他国へ逃げ、ほとぼりが冷めた頃に帰国した。
滝野氏は伊賀十二人衆の一人。滝野貞清の子として誕生。
第二次天正伊賀の乱では総大将として籠城戦を展開し織田軍に抵抗した(比自山城の戦い、柏原城の戦い)。敵軍の背後を農民に撹乱させようとしたが丹羽長秀に看破され、天正9年(1581年)10月28日に開城した。
天正10年(1582年)の時点でも柏原城主であったが、本能寺の変の急報を聞くと織田信雄の伊勢国松ヶ島城へ逃走し、柏原城は伊賀の一揆勢に攻められたという。
娘の千手姫と恋人の本間草之助は、戦の中を赤目渓谷に落ち延びたが、落ち武者狩りが激しくはぐれてしまった。山中に逃げた姫は草庵に逃げ込み、そこの老婆に匿われた。
しばらくして、外で姫を呼ぶ声がすると、外に草之助がやって来ていた。老婆は草之助の母だったが、草之助は、かつて武士を志して家出をした手前、会わす顔がないとして、千手姫と草之助は庵に長居せず、更に奥まで逃げ込んだ。しかしついに追手に見つかった二人は、覚悟を決めると滝に身を投げてしまった。
吉政は信乃のことを偲んでいた。昭和って時代からやって来た忍びだ。
「霧子ってイチゴみたいにカワイイ娘がいるんだ」
「そうなのか?」
「こっちの夏は暑いな?扇風機とかないもんな?」
信乃はヨボヨボの爺さんだった。
「扇風機ってなんだ?」
「グルグル回る扇みたいなもんだ」
吉政たちは天正伊賀の乱の後、酔象って忍びや、猛豹という海賊を従えて、滝川一益を攻めた。
父は近江国甲賀郡の国人・滝川一勝で、信長の重臣の池田恒興と同族(従兄弟)だ。
志摩の国人・九鬼嘉隆が織田信長に仕官する際に一益が仲介し、婿の滝川雄利は伊勢国司北畠氏の一族木造氏の出身であり、長年伊勢攻略を担当し、攻略後も北伊勢に広大な所領を与えられていた。
『日本書紀』などの倭姫命伝説では美し国(うましくに)と称された。
『伊勢国風土記』によると、神武東征神話で、国譲りの国津神(土着の勢力)伊勢津彦(イセツヒコ)の名「イセ」にちなむという。大和政権の勢力がこの地域にまでおよんだことを神格化したものと考える説があるが、伊勢津彦後裔の国造一族の動向や伊勢国造の活動・婚姻からも、弥生時代後期に神武天皇の勢力に追われて東国へ逃れた神狭命の史実がその実態と見る向きもある。
7世紀の孝徳天皇の時代に、島津国造、伊賀国造、佐那県造、度逢県造、川俣県造、壱志県造、飯高県造、阿野県造の領域も含んだ伊勢国造の領域を中心に成立した。
天武天皇9年(680年)7月に伊賀国を分置した。
8世紀はじめまでに志摩国を分立したが、その正確な時期は不明である。分立当初、熊野灘に面した沿岸部、現在の南伊勢町にあたる地域は志摩国に属していたが、後に守護の北畠氏により伊勢国に移された。
長島(現三重県桑名市)はもともと「
1501年(文亀元年)、杉江の地に願証寺が創建され、蓮如の六男・蓮淳が住職となった。以後、本願寺門徒は地元の国人領主層を取り込み、地域を完全に支配し、後に長島の周りに防衛のため中江砦・大鳥居砦などを徐々に増設し武装化した。
この付近には願証寺をはじめ数十の寺院・道場が存在し、本願寺門徒が大きな勢力を持っていた。伊勢尾張美濃の農民漁民10万人の信徒が勢力下で勢力は10万石規模であった。一種の自治勢力であった。ここの実力者の1人・服部友貞は「河内一郡は二の江の坊主服部左京進 横領して御手に属さず」、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いの時には今川義元に呼応して信長を攻撃しようとしている。1561年(永禄4年)、織田信長は尾張を統一したと認識されているが、この長島は支配していなかった。
1567年(永禄10年)8月、信長は稲葉山城を落として美濃国を平定したが(稲葉山城の戦い)、城を落とされた斎藤龍興は「河内長島」へ逃げ込んだという。直後、信長は龍興を追って伊勢へ侵攻し、長島を攻撃した。その上で北伊勢の在地領主を服属させた。この年11月、顕如は信長に美濃・伊勢を平定したことを祝う書状を送っており、まだ信長と敵対したわけではなかった。
1569年(永禄12年)、信長は北畠家が守る大河内城などを攻撃し(大河内城の戦い)、伊勢をほぼ支配下に置いた。
1570年(元亀元年)9月、本願寺の反信長蜂起(石山合戦)に伴って、当時の願証寺住持証意や本願寺の坊官下間頼成の檄文によって長島でも門徒が一斉に蜂起、またこれに呼応して「北勢四十八家」と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻し一揆に加担した。大坂より派遣された坊官の下間頼旦らに率いられた数万に及ぶ一揆衆は、伊藤氏が城主を務める長島城を攻め落とし城を奪うと、続けて11月には織田信興の守る尾張・小木江城を攻撃。信興を自害させ城を奪取し、さらに桑名城の滝川一益を敗走させた。
この頃、信長は近江国で朝倉氏・浅井氏と対陣しており(志賀の陣)、救援に赴くことができなかった。同年12月、信長は朝倉・浅井と和睦し、兵を引いた。
1571年(元亀2年)2月、近江国・佐和山城の磯野員昌が信長に城を明け渡して退却。5月には横山城の木下秀吉が、約500の寡兵で浅井井規率いる一揆勢約5000を破るなど、近江では織田軍が優位に立った。ここで信長は北伊勢への出陣を決める。
5月12日、信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣。軍団は三手に分かれて攻め入った。
これを見た一揆勢は山中に移動し、撤退の途中の道が狭い箇所に弓兵・鉄砲兵を配備して待ちうけた。信長本隊と佐久間軍はすぐに兵を退くことが出来たが、殿軍の氏家卜全と、その家臣数名が討ち死にした。
この一戦により、長島一向一揆はこれまでの圧倒的物量で押し切る一揆とは違い、撤退路での伏兵といった作戦行動を取るなど、防衛能力の高さを織田家に知らしめた。また桑名方面から海路を使って雑賀衆らの人員や兵糧・鉄砲などの物資が補給されていた為、伊勢湾の制海権を得ることも長島攻略には欠かせない要素であり、信長は長島に対しての侵攻作戦内容の再考を余儀なくされた。
1573年(天正元年)8月に浅井長政・朝倉義景を滅亡させた織田家であったが9月には信長は二度目の長島攻めを各将に通達した。
今回は出陣の前に前回の反省から水路を抑えるために次男北畠具豊(織田信雄)に命じて伊勢大湊での船の調達も事前に命じていたが、こちらは大湊の会合衆が要求を渋り、難航していた。信長からも北畠具教・具房父子を通じて会合衆に働きかけたがこれも不調に終わる。それでも織田軍は予定通り9月中に二度目の長島攻撃を敢行した。
9月24日、信長をはじめとする数万の軍勢が北伊勢に出陣。25日に太田城に着陣し、26日には一揆勢の篭る西別所城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らが攻め立て、陥落させた。滝川一益らも坂井城を攻略し、10月6日には降服させた。二人は続けて近藤城を金掘り衆を使って攻め、立ち退かせた。
10月8日には信長は本陣を東別所に移動し、この時には萱生城・伊坂城の春日部氏、赤堀城の赤堀氏、桑部南城の大儀須氏、千種城の千種氏、長深城の富永氏などが相次いで降服し、信長に人質を送って恭順の意を示した。しかし白山城の中島将監は顔を見せなかったため、佐久間信盛・蜂屋頼隆・丹羽長秀・羽柴秀吉の4人に命じて金掘り攻めをさせ、退散させた。
ただ、大湊の船の調達作業はこの時期に至っても進捗状況が芳しくなく、今回は長島への直接攻撃は見送らざるを得なかった。信長は北伊勢の諸城の中で最後まで抵抗する中島将監の白山城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻めさせて落城させると、10月25日には矢田城に滝川一益を入れ美濃へと帰陣を開始した。
退く最中、門徒側が多芸山で待ち伏せし、またもや弓・鉄砲で攻撃を仕掛けてきた。中には伊賀・甲賀の兵もいたという。信長は林通政を殿軍としたが、折悪く雨が降り出して火縄銃が使用不可となってしまい、白兵戦となった。林通政が討ち取られ、また正午過ぎからの風雨で人足がいくらか凍え死にするなどの損害を出したが、通政や毛屋猪介らの部隊の奮戦によって夜に信長は一揆勢を振り切って大垣城へと到着。10月26日には岐阜へと帰還した。
大湊での船の調達が失敗した背景には織田家より長島に肩入れをする会合衆の姿勢にも要因があった。こうした中で大湊が長島の将、日根野弘就の要請に応じて足弱衆(女や子供)の運搬のため船を出していたことが判明した。
この事実を知った信長は激怒し、「曲事であるので(日根野に与した)船主共を必ず成敗すること」を命じ、山田三方の福島親子が処刑された。信長は福島親子の処刑によって「長島に与すことは死罪に値する重罪である」と伊勢の船主達に知らしめ、長島への人員・物資補充の動きを強く牽制した。
1574年(天正2年)6月23日、信長は美濃から尾張国津島に移り三度目の長島攻めのため大動員令を発し、織田領の全域から兵を集め、7月には陣容が固まり陸と海からの長島への侵攻作戦が開始された。
陸からは東の市江口から織田信忠の部隊、西の賀鳥口からは柴田勝家の部隊、中央の早尾口からは信長本隊の三隊が、さらに海からは九鬼嘉隆などが動員され、畿内で政務にあたる明智光秀や越前方面の抑えに残された羽柴秀吉など一部を除いて主要な将のほとんどが参陣し、7-8万という織田家でも過去に例を見ない大軍が長島攻略に注ぎ込まれた。主な陣容は以下の通り。
🐎織田信忠、長野信包、織田秀成、織田長利、織田信成、織田信次、斎藤利治、簗田広正、森長可、坂井越中守、池田恒興、長谷川与次、山田勝盛、梶原景久、和田定利、中嶋豊後守、関成政、佐藤秀方、市橋伝左衛門、塚本小大膳。
🐎賀鳥口
佐久間信盛、稲葉良通、稲葉貞通、蜂屋頼隆。
🐎早尾口
織田信長、羽柴秀長、浅井政貞、丹羽長秀、氏家直通、安藤守就、飯沼長継、不破光治、不破勝光、丸毛長照、丸毛兼利、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条家忠、河尻秀隆、織田信広、飯尾尚清。
🔱水軍
九鬼嘉隆、滝川一益、伊藤実信、水野守隆、島田秀満、林秀貞、北畠具豊(織田信雄)、佐治信方。
7月14日、まず陸から攻める三部隊が兵を進め、賀鳥口の部隊が松之木の対岸の守備を固めていた一揆勢を一蹴した。同日中に早尾口の織田本隊も小木江村を固めていた一揆勢を破り、篠橋砦を羽柴秀長・浅井政貞に攻めさせ、こだみ崎に船を集めて堤上で織田軍を迎え討とうとした一揆勢も丹羽長秀が撃破し、前ヶ須・海老江島・加路戸・鯏浦島の一揆拠点を焼き払って五明(現愛知県弥富市五明)へと移動しここに野営した。
翌7月15日には九鬼嘉隆の安宅船を先頭とした大船団が到着。蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・常滑・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃津・楠・細頸など尾張から集められた兵を乗せて一揆を攻め立てた。また、織田信雄も垂水・鳥屋尾・大東・小作・田丸・坂奈井など伊勢から集められた兵を大船に乗せて到着し、長島を囲む大河は織田軍の軍船で埋め尽くされた。
海陸、東西南北四方からの織田軍の猛攻を受けた諸砦は次々と落とされ、一揆衆は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5つの城に逃げ込んだ。
大鳥居城・篠橋城は、織田信雄・信孝らに大鉄砲で砲撃され、降伏を申し出てきたが、信長は断固として許さず兵糧攻めにしようとした。8月2日夜中、大鳥居城の者たちが城を抜け出したところを攻撃して男女1,000人ほどを討ち取り、大鳥居城は陥落した。
8月12日、篠橋城の者たちが「長島城で織田に通じる」と約束してきた。この約束は偽りであり、兵糧が尽きた為、長島城へ移りたいが為の方便だったが、兵糧攻めを狙う織田方にしてみれば、攻略中の城が減り、長島城の人数が増えるのは好都合であった為、織田軍はその要求を受け入れ、篠橋城を出た一向宗たちを長島城へ追い入れた。この後も長島には何の動きも起こらず籠城戦が続いたが、人数が増えたせいで兵糧の減りが早まり、結果的に城中では多くの者が餓死した。
兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、9月29日、降伏を申し出て長島から船で退去しようとしたが、信長は許さず鉄砲で攻撃し、この時に顕忍や下間頼旦を含む門徒衆多数が射殺、あるいは斬り捨てられた。これに怒った一揆衆800余が、織田軍の手薄な箇所へ、裸になって抜刀するという捨て身で反撃を仕掛けた。これによって信長の庶兄である織田信広や弟の織田秀成など、多くの織田一族が戦死し、1,000人ほどの被害が出た。ここで包囲を突破した者は、無人の陣小屋で仕度を整え、多芸山や北伊勢方面経由で大坂へと逃亡した。
この失態を受けて、信長は、残る屋長島・中江の2城は幾重にも柵で囲み、火攻めにした。城中の2万の男女が焼け死んだという。同日、信長は岐阜に向け帰陣した。
こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。
信乃は鳥の子(焔硝と発煙剤を鳥の子和紙で何重にも包み、卵型に固めた手投げ弾。衝撃を受けると発火発煙する)で一益を攻撃したが、一益だと思ったのは猛豹って海賊だった。
「お主……近江の浅井ではないか?」
すぐ近くて様子を窺っていた吉政は狼狽した。信長に攻められ、小谷城で自刃したと思われていたからだ。鳥の子に拍子抜けした長政を信乃は背後から槍で刺した。
「その程度か?」
槍が突き刺さったまま、長政は平然と喋った。
「バッ、化け物……グエッ!」
長政の短刀が信乃の腸を抉った。
吉政が「全軍引き上げるぞ!」と声を張り上げた。
「黄金の髑髏になったはずですよね?」
「長政と久政はな?儂は運良く逃げ延びた」
久政は長政の父親だ。
「死んだはずの浅井殿が何故?」
「大隅にある洞窟で蘇生の玉を見つけた」
そいつがあれば霧子とまた会えるかも!?
「それ、まだ持ってます?」
「長政がこっちに戻ったら割れてしまった」
直井や義景は宵闇の長浜にいた。
後に天下を獲る、羽柴秀吉を倒すのが狙いだ。
竹中直人、香川照之、勝新太郎……様々な人が秀吉を演じた。
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に
同3・4年頃完成し羽柴秀吉が入城した。いわゆる水城であり湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。現在でも城下町には羽柴氏当時の面影や名残が残る。のちに天下人となる秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の領国・城下町経営の基礎を醸成した所とされている。
1581(天正9年)、織田氏の中国遠征で不在であった羽柴氏のあと、信長は荒木村重討伐や越前一向宗制圧の功から堀秀政を長浜城主に任じた。しかし羽柴秀吉の親(大政所)と妻(北政所)はそのまま長浜に居住していたらしい。
1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、明智光秀の手により織田信長が殺害されると、明智に加担した山本山城主の阿閉貞征が長浜城を占領した。羽柴氏の妻ら係累は近隣の寺に逃れた。阿閉は山崎の戦いにも明智方として参加するが、明智は信長の仇討を掲げる羽柴方に敗戦し、阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑された。長浜城は羽柴氏の支配下に戻った。
山崎の合戦後に開催された織田家の重臣会議「清洲会議」で羽柴秀吉と意見対立し、結果として長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家であった。雪国である越前国を領していた柴田はゆえに畿内方面への橋頭保として北近江を欲していたが、羽柴が縁深い同地を手放すわけがない、と衆目に見られていた中での、まさかの支配権譲渡であった。勝家は一族(甥)の柴田勝豊を長浜城の守将として入城させたが、羽柴と柴田の対立は収まらず、同年末には秀吉が勝手知ったる長浜城を攻めた。柴田は雪に閉ざされた越前近江国境の山を突破し援軍を送ろうとしたが、その前に勝豊は降伏した。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いの後は山内一豊が入り、6年間在城した。1586年1月18日(天正13年11月29日)、天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡した。
1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。
義景は
蔵の中に入った。
直井はスマホのライトで蔵の中を照らした。これは計算のうちだ。ライトを点ければ秀吉の軍勢が駆けつける。
蔵の中には槍や刀の他に以前、勝男がタイムスリップしたときに持って来たトカレフ拳銃があった。
勝男は以前、伏見商事の為に汚れ仕事を引き受けていた。
2015年(平成16年)7月、同社の呉造船所に勤務していた54歳の男性が、同造船所の複数の社員による『監理技術者』の資格者証の不正取得があったとして、社内のコンプライアンス委員会にEメールで通報したところ、設計補助の担当を外されて閑職に回され、さらに2015年(平成19年)6月に関連会社へ出向(休職派遣)を命ぜられ、「報復人事を受けた」として、人事部の勝男に相談してきた。
上層部は「労基署に駆け込まれる前に消せ」と、勝男に命じて来た。
断ったら勝男の社会的地位が危うくなる。
6月6日の夕方、呉港近くの倉庫に男を呼び出して、背後から頭を撃った。
秀吉の配下が駆けつけた。
義景は蔵の中にあった大太刀を手に取った。
室町期の作で備州長船法光という、総長377.6cm,刃長226.7cmという長大なものだ。
直井の小太刀が義景の臓腑を抉った。
「グェェェーッ!!」
断末魔が呪詛みたいに直井の鼓膜を刺激した。
「お主、やるな?たくさん禄が貰えるぞ?」
猛牛に褒められて、直井は上機嫌だった。
琵琶湖の畔で家康の軍と長政の軍が衝突した。
家康の配下には井伊直政や本多忠勝、長政の配下には
直政は、徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。
徳川二十八神将に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたことを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。
本多 忠勝は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。
安養寺氏は近江国の土豪で、元は近江守護京極氏の被官であった。
安養寺三郎左衛門氏秀の子として誕生。主君・浅井長政と織田信長の妹であるお市の方との縁組の仲介役を務めたという説もあるが真偽は不明。浅井家滅亡後、京極高次に仕えた。
慶長11年(1606年)死去。
勝頼は信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。
強硬策を以て領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では躑躅ヶ崎館より新府城への本拠地移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡するはずだったが……。
琵琶湖の上には丸い月が浮かび上がり、水面は白く輝いていた。
忠勝は
刀で鎧を貫くのは非常に困難だが、槍で突かれると貫通する場合がある。大身槍なら鎧を貫き、馬の足を薙ぎ払うこともできる。
蜻蛉切が長政の腹を抉った。
「何だ、虫か?」
長政は余裕綽々、刺さった槍を引き抜いた。普通なら腸がはみ出すはずだが、空洞だった。
勝頼の火縄銃が火を噴く。
忠勝の首筋から赤い血が噴き出した。
「忠勝ッ!」
直政が叫んだ。直後、矢が襲ってきた。
「己ぇっ!安養寺!」
直政は刀を振って、矢を次々に叩き落とした。
5本目が右肩に突き刺さった。直政の顔が凍りつく。
「殿!お逃げくだ……」
直政の足元に、血に塗れた家康の首が転がってきた。家康を殺したのは、勝頼の配下の
直政の左肩が熱くなる。勝頼の銃弾を受けたのだ。汗が目に入り、視界が滲む。
ドンッ!💥
死にたくない……。
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