第11話 神の量域

 5年後、佐沼帝国は月に国を作った。「次は火星に行くぞ」勝男はロブスターって新型ロケットに乗って、福地と火星を目指した。

  

 また、自転周期や黄道面に対する回転軸の傾きが似ているため、1日の長さ(火星日)や季節は地球と同等である。火星には、太陽系最大の火山であり、最も高い山として知られるオリンポス山や、太陽系最大の峡谷のひとつであるマリネリス峡谷がある。北半球にある滑らかなボレアリス盆地は、火星の40%を占めており、巨大な衝突現象の可能性がある。火星にはフォボスとダイモスという2つの月があり、小さくて不規則な形をしている。これらは、火星のトロヤ群である『5261 エウレカ』と同様に、捕獲された小惑星である可能性がある。


 火星はいくつかの無人探査機によって探査されている。1964年11月28日にNASAによって打ち上げられたマリナー4号は、1965年7月15日に火星に最接近した、火星を訪れた最初の宇宙船である。マリナー4号は、地球の約0.1%という弱い火星の放射線帯を検出し、深宇宙から他の惑星を撮影した最初の画像となった。ソ連の火星探査機「マルス3号」は着陸船を搭載し、1971年12月にソフトランディングを果たしたが、タッチダウンの数秒後に連絡が途絶えた。1976年7月20日、「バイキング1号」が火星表面への着陸に初めて成功した。1997年7月4日、火星探査機「マーズ・パスファインダー」が火星に着陸し、7月5日には火星で活動した初のロボットローバー「ソジャーナー」を放出した。2003年12月25日には、欧州宇宙機関(ESA)が初めて火星を訪れた探査機「マーズ・エクスプレス」が軌道上に到着した。2004年1月には、スピリットとオポチュニティと名付けられたNASAのマーズ・エクスプロレーション・ローバーがともに火星に着陸し、スピリットは2010年3月22日まで、オポチュニティは2018年6月10日まで活動した。NASAは2012年8月6日、火星の気候と地質を調査する「マーズ・サイエンス・ラボラトリー(MSL)」ミッションの一環として、探査機「キュリオシティ」を着陸させた。2014年9月24日、インド宇宙研究機関(ISRO)は、初の惑星間ミッションである探査機「マーズ・オービター・ミッション」が軌道上に到着し、火星を訪れた4番目の宇宙機関となった。アラブ首長国連邦は、2021年2月9日に火星探査機を火星の大気圏に投入し、火星へのミッションを成功させた5番目の宇宙機関となった。また、NASAのローバー「パーサヴィアランス」が2021年2月18日に火星への着陸に成功した。


 火星の過去の居住性や現存する生命の可能性を評価する調査が行われている。欧州宇宙機関のロザリンド・フランクリン・ローバーのようなアストロバイオロジー・ミッションが計画されている。火星の気圧は地球の1%以下と低いため、火星の地表に液体の水は存在しない。2つの極地の氷冠は、大部分が水でできているとされる。南極の氷冠に含まれる水の氷の量は、もし溶けた場合、惑星の表面を11メートルの深さまで覆うのに十分である。2016年11月、NASAはユートピア平原領域で大量の地下氷を発見したことを報告した。検出された水の量は、スペリオル湖の水の量に相当すると推定されている。


 火星は、その赤みを帯びた色合いのように、地球から肉眼で簡単に見ることができる。火星の見かけの等級は-2.94で、これは金星、月、太陽に次ぐ明るさである。地上の光学望遠鏡では、地球の大気の影響を受けるため、地球と火星が最も接近したときに、300km程度の大きさのものしか見ることができない。


 燃えるような真っ赤な空。峡谷や火山があるという。火星の平均気温はマイナス63℃。暑い国かと思ったが、真逆だ。

 塵がやたら凄い。宇宙服を纏って、機器の歯車に問題を起こした。スゴい嵐だ。が、地球よりはマシかも、見た目は不気味な感じだがそよ風くらいにしか感じない。激しい雷雨とかないので安心だ。美しい木々などはない。

「第一著者 第二著者 第三著者」を噛まずに3回言えたので、月に大量の酸素を生み出すことが出来た。酸素を作る機械もあるにはあるが、完全ではない。

 月にゴキブリや三葉虫が出現したとき、勝男は神の量域に達したと思った。

 火星の名称(Mars/マーズ)は、ローマ神話の神マルス(ギリシア神話の軍神アレース)から名付けられた。メソポタミアの民は赤い惑星に戦火と血を連想して彼らの戦神ネルガルの名を冠して以来、火星には各々の地でその地の戦神の名がつけられている(ほかの惑星名についてもほぼ同様の継承が認められる)。


 火星は五行説に基づく呼び名であり(五行説は東洋医学の基礎理論でもある)、学問上(天文史料)では熒惑けいこくといった。「熒」はしばしば同音の「螢」と誤られる。また、この場合の「惑」は「ワク」ではなく「コク」と読む。江戸時代には「なつひぼし」と訓じられた。そのため夏日星という和名もある。


 火星がさそり座のアンタレス(黄道の近くに位置しているため)に接近することを熒惑守心(熒惑心を守る)といい、不吉の前兆とされた。「心」とは、アンタレスが所属する星官(中国の星座)心宿のこと。


 愛する女性のために実績をあげたいと考えていた新聞記者の半澤成男はんざわなりおは、古生物学者・宮本岳志みやもとたけしを紹介される。彼の家を訪ねると、彼がウサギ島で古代に絶滅した生物達が生き残っていることを突き止めた。

 宮本教授はそれを学会でも述べて、その地への探検旅行を提案する。半澤も名乗りを上げ、宮本教授に批判的な佐々木治郎ささきじろう教授や世界的冒険家の諸岡一もろおかはじめらとともに、ウサギ島の河口へ向かう。


 川をさかのぼり、ジャングルと沼地を抜け、たどり着いた場所は、平原に屹立する巨大な台地にあった。直接に登るのが困難なことから、隣接する岩山に登り、その頂上の大木を切り倒すことで丸木橋を作り、一行はそれを渡って目的地にたどり着くが、諸岡に恨みを抱く案内人にその橋を落とされ、帰り道をなくしてしまう。


 台地は驚くべき古生物達の世界であり、一行は様々な生き物に遭遇する。


 見るものすべてが新種という有様で、しかも恐竜の類が多数棲息していた。 ある晩、半澤は1人でキャンプを抜け出す。肉食恐竜に追われるなどの冒険の後キャンプに帰ってくると、テントは荒らされ教授たちはいなくなっていた。凶悪なウサギ怪人の群れに襲われ、連れ去られたのである。

 洞窟の中でミンチになった宮本を半澤は見つけた。

 なんとかウサギ島から脱出した半澤は、ウサギ怪人に圧迫され虐殺されていた人間の家族たちと協力し、ウサギ怪人たちを滅ぼす。そして、住人の1人、高橋賢人たかはしけんとから教えられた、島の西にある秘密の通路を通り、ウサギ島を脱出した。


 半澤や高橋は、1581年の大久野島にやって来た。

 この時代、この島は村上水軍の拠点になっていた。村上水軍は、日本中世の瀬戸内海で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後大まかに能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家へ分かれた。

 文献史料上、最も古い記録は南北朝時代である。1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていた。南北朝時代の村上水軍は、因島・弓削島を中心に、芸予諸島近辺の制海権を握っており、海上に関所を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行ったりしていた。


 能島村上氏は能島城(能島)、因島村上氏は 長崎城 から 余崎城、その後 青木城 へと移り(長崎城と青木城は因島、余崎城は向島)、来島村上氏は来島城(来島)を本拠として活動した。


 戦国期には因島村上氏が毛利氏に臣従した。来島村上氏は毛利氏の支援する河野氏に臣従し、村上通康は越智姓を名乗ることを許された。能島村上氏は河野氏と友好関係を持っていたが、臣従はしなかった。その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、1555年(弘治元年)の厳島の戦い、1561年(永禄4年)の豊前簑島合戦、1567年(永禄10年)からの毛利氏の伊予出兵、1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いなどが知られている。


 ただし、村上水軍の支配が実質的に及んだのは、斎灘や燧灘西部など芸予諸島近辺に限られ、瀬戸内海一円を支配した訳ではない。例えば瀬戸内海東部には塩飽諸島の塩飽衆、真鍋島の真鍋衆、日生諸島の日生衆が点在しており、大阪湾への遠征の際は、彼らに通行料を支払い安全を保証してもらっていたに過ぎず、塩飽衆などとの間に従属関係は存在しなかった。

 

 村上武吉むらかみたけよしは、戦国時代から江戸時代初期の伊予国などの武将。能島村上水軍の大将であり、能島城主。村上義忠の子。子に元吉、景親。

 

 永正5年(1508年)、大内義興が京に上ったとき中国地方の多くの大名、豪族が従ったが、曽祖父・能島雅房もこの時京に上り、数人の子供を作った。これが能島で作った子供達との間で家督争いを行い、能島の内乱となる。


 武吉は幼くして祖父・村上隆勝を暗殺され、自らの命も危うくなったために難を避けて島を離れ肥後国の菊池氏を頼った。元服の際に武吉と名乗ったのは菊池武俊の偏諱を受けたことによる。しかし、菊池側の史料には「武俊」の名はみられないため、大内氏の偏諱を賜った可能性が指摘されている。やがて能島に戻ると従兄の村上義益とそれを支援する来島勢を叔父の村上隆重の支援も受けて破り、能島当主となった。義益が病死すると来島の村上通康と和義を結びその娘を娶り、村上三島の頭領格となった。


 天文24年(1555年)の毛利元就と陶晴賢の厳島の戦いの際には「1日だけの味方」の言葉に引かれて毛利方に加担して、以降毛利氏との関係を深めたと言われるが、実際に能島水軍が毛利方に加勢したかどうかについては見解が分かれ、確証が得られていない。しかし、以後は毛利氏の周防・長門の平定(防長経略)に協力し瀬戸内海一の水軍勢力となった。塩飽諸島など瀬戸内の他の水軍衆とも手を結んだ他、一族重臣である隆重を備中笠岡城、嶋吉利を備前児島本太城、村上武満を周防上関と瀬戸内の要衝を抑える位置に置き、通行する船から帆別銭(通行料)を取り立て、大いに栄えた。


 永禄12年(1569年)に毛利の九州攻めが失敗すると、この頃より大友氏や三好氏などと関係を深め始め、大内輝弘の乱の際には大友水軍に伊予灘を素通りさせた。不穏な行動を取り始めた武吉に対して毛利氏は元亀元年(1570年)9月に毛利元就・毛利輝元・小早川隆景の三者が起請文を武吉と交わし、互いが入魂の関係である事を改めて確認した。


 しかし武吉は元亀2年(1571年)2月には公然と反毛利の姿勢を取り、毛利と敵対する浦上宗景が児島の占拠を窺う中で本太城に兵を入れて、毛利方の児島守備隊の背後を脅かしたため、ついに小早川隆景が本太城討伐の兵をあげ、4月までには陥落した。同年7月に隆景が能島攻めの軍を起こすと来島・因島水軍もこれに従ったため、孤立した能島は三好氏や塩飽水軍に兵糧の補給を要請したが、これも隆景の軍勢に阻止され、翌元亀3年(1572年)まで能島を包囲・海上封鎖されるという苦境に追い込まれた。


 この後も大友宗麟は来島水軍と武吉との講和を仲介したり、「門司・赤間や伊予へと出兵して毛利を脅かす」と約束したりして、能島水軍の反毛利同盟への繋ぎ止めを図ったが、結局のところ宗麟の約した門司・赤間への出兵は空手形であり、武吉の考えは徐々に毛利との関係修復へと傾いていく。天正3年(1575年)2月には備中兵乱の平定に関して武吉が隆景に祝儀を送っており、この頃までにはかなり毛利氏との関係は改善していたと見られる。


 毛利が織田信長と戦うと、村上水軍は小早川・児島・乃美水軍などと共に毛利方水軍として活躍した。特に天正4年7月13日の第一次木津川口の戦いでは、自身は参加せずに嫡男の元吉が出陣して主力として戦い大勝を収めている。しかし信長の鉄船6隻と戦った天正6年(1578年)11月の第二次木津川口の戦いでは惨敗を喫した。


 その後、中国攻略にあたった信長の家臣・羽柴秀吉から調略を受け来島通総率いる来島水軍並びに武吉の能島水軍がこれに応じるという雑説が毛利家中で立ち、毛利家臣の乃美宗勝が武吉の説得にあたった。結局の所、雑説の通りに来島通総は織田方に寝返ったが武吉は毛利方に留まり、織田についた来島を占領する。しかし天正10年(1582年)に起こった本能寺の変の後、秀吉と毛利が和睦し、来島の返還を要求してくるとこれを拒否し四国攻めにも加わらなかったため、再び小早川隆景に攻められ能島を明け渡し、隆景の所領竹原(広島県竹原市)に移住させられた。さらに天正16年(1588年)、秀吉の海賊停止令に背いたとして豊臣政権から詰問を受け、嫡男の元吉が上洛して弁明にあたったようである。以降、隆景に従って筑前国に移り、隆景の跡を養子の秀秋が継ぐと毛利家の家臣となって所領のある長門に移動、秀吉の死後は再度瀬戸内に面する竹原へと戻ったようである。


 慶長3年(1598年)、死の直前の秀吉から、豊臣姓を与えられている。


 家督を継いだ元吉とその弟・景親らは毛利、小早川勢に従って朝鮮で戦い(文禄・慶長の役)、続く関ヶ原の戦いでは西軍として、伊勢湾沿岸、紀伊沿岸、阿波を攻め、加藤嘉明の伊予松前城を攻めたが、加藤嘉明の老臣佃十成の三津浜夜襲により元吉は討ち死にしている。戦後、毛利氏が防長2カ国へと減封されたのに従い再度竹原を離れ(これを竹原崩れと称する)、江戸幕府の制海権掌握にともない、ここに村上水軍は壊滅。これ以降は毛利の家臣として元吉、景親の2系統が三田尻で船手衆を務め、朝鮮通信使の警護などを行うことになる。


 慶長9年(1604年)8月22日に72歳で死去(『萩藩譜録』)。家督は孫の元武が継いだ。現在の山口県大島郡周防大島町に館跡と共に墓所がある。法号は大仙寺覚甫元正。


 火星には水があった。福地によれば夏にしか見られないそうだ。地下で水を見つけたが、飲んではいけないと福地は言った。

「過塩素酸塩っていってな猛毒だ。ロケット燃料の製造に役に立つ」

 勝男たちは派遣社員を雇って宇宙で採掘を行った。

 勝男たちは北の谷にあるカスマ・ボレアレにいた。太陽光で温められた二酸化炭素の氷層が気化して、川が流れていた。ガスマスクをした行員たちがバキュームポンプに水を蓄えている。

 青い夕焼けが美しかった。太陽が小さく見えた。

 マリナー峡谷ってところにも出かけた。断崖を福地はスイスイ登っていく。福地は元ロッククライマーだ。低重力だから落ちたって死ぬことはないだろう。

「あ〜!」

 福地は足を滑らせて真っ逆さまに谷底に落ちて絶命した。

 火星には恐怖の神、フォボスが棲んでいると幼い頃、母親の海子に教わった。フォボスとダイモスって小さな衛星があると知ったのはずっと後のことだ。

  

 半澤は戦国時代で、猛豹もうひょうって海賊に遭遇した。彼の正体は死んだはずの浅井長政だった。酔象(朝倉義景)は蘇生の玉を見つけ、長政を復活させ、名を変えて村上水軍に潜り込んだ。

「信長を地獄を落としてやる」

 妻のお市だけは殺さないでやりたいと長政は思っていた。

 酔象は信長の下にいる明智光秀と密かに連絡を取り合っていた。明智光秀というのは字名で、本当の名前は土岐藤三郎ときとうさぶろうだ。

 生地は美濃国の明智荘の明智城(現・岐阜県可児市)と言われる。光秀の祖先が土岐氏に背いて六角氏を頼っている。同郡の多賀町佐目さめには「十兵衛屋敷跡」(十兵衛は光秀の異名)と呼ばれてきた場所がある。

 光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。一方で、年未詳8月22日付で前野丹後守に宛てた光秀書状に、「……仍次郎越州へ罷越候ニ付て、朝倉殿より被進候御状之通被仰下候、令畏存候、……然ニ越州御同心之筋目候之条、致満足候、……」とあり、次郎という人物が越前に行くことや朝倉氏がその人物に味方することについて書かれている。土岐家惣領は代々次郎を名乗っており、光秀は土岐頼純の側近として仕えていたとされる。


 その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り、10年間仕えた。『武家事紀』には「元濃州明智人也、朝倉義景家臣黒坂備中守所ニツカヘ、後細川藤孝ニ仕ユ、藤孝カ處ヲ出テ、直ニ将軍家義昭ニ奉公ノ列タリ」とある。黒坂備中守景久は舟寄城々主で、舟寄城と称念寺は約500メートルの距離である。越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状がある。


 一方で、永禄9年に入り、江北の浅井長政は高島郡の山徒・土豪を引き入れるかたちで積極的に高島郡への進出を図った。長政は饗庭氏を中心とする山徒「三坊」(西林坊・定林坊・宝光坊)に、味方に付いたなら、保坂関所・万木の正覚寺跡・河上庄六代官のうち朽木殿分・善積庄八坂名を与えることを約束し、山徒千手坊には「河上六代官之内田中殿分」を与えると約束し、幕府御家人朽木・田中氏らの所領押領を図った。その後の在地の状況が具体的にどのようであったかは不明であるが、5月19日付けで義昭の申次を務めた奉公衆・曽我助乗宛ての光秀書状「高嶋之儀、饗庭三坊之城下迄令放火、敵城三ヶ所落去候て今日帰陣候、然処、従林方只今如此註進候、可然様御披露肝要候、………」があり、近江高嶋で饗庭三坊と呼ばれる西林坊・定林坊・宝光坊の城下に放火し、敵城三カ所を落としたこと、林方よりの注進を義昭に披露してほしいことが書かれている。この光秀書状は、元亀3年(1572年)に年次比定されているが、米田文書の再発見、「来迎寺文書」(4月18日付で長政が西林坊・定林坊・宝光坊の忠節を褒め、知行(朽木氏・田中氏の領地を含む)をあてがう旨の書状)などにより、文禄9年に年次比定されるべきであり、「高嶋田中籠城之時」の同年5月ごろまでに光秀は義昭に加勢していたと指摘されている。


 永禄8年(1565年)5月19日、三好三人衆や松永久秀らによって、兄の将軍足利義輝、母の慶寿院、弟の鹿苑寺の院主周暠を殺害され(永禄の変)、院内に幽閉されていた南都興福寺一条院門跡であった覚慶(足利義昭)は同年7月28日、大和国から脱出し、翌日近江国甲賀郡和田(現・滋賀県甲賀市)に到着して、和田惟政の屋形に入った。この脱出には、朝倉義景の働きかけもあった。その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、和田惟政や細川藤孝が使者に立ち信長は了承したが、当時は美濃国平定前であった。


 同年11月、三好一門の内訌(三好三人衆対松永久秀)が起こり、戦火が畿内全域に広がると、同年12月21日、義昭は六角氏(六角義賢)の好意で同じ近江国内の野洲郡矢島(現・滋賀県守山市)の少林寺に移座し、翌年2月17日に還俗して義秋に改めた。


「米田文書」の『針薬方』には、「右一部、明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」という奥書を持つ沼田勘解左衛門尉の所持本を、米田貞能が近江坂本において写したとあり、光秀はこれが書かれた永禄9年10月20日以前に、義昭に加勢し、高嶋田中城に籠城した。


 永禄9年(1566年)4月、義昭側が織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたので、信長は同年8月29日(1566年9月12日)に美濃の国境へ出兵したが、斎藤龍興によって撃退され、上洛は頓挫した。


 同年8月3日、矢島を襲撃しようとした三好三人衆の兵を坂本で迎撃して、難を逃れ、また同年夏頃、六角氏が松永久秀を圧倒した三好三人衆と手を結んだため、同年8月29日夜半、義昭は妹婿である若狭国守護・武田義統の下に逃れたが、この頃武田氏の家中で騒擾が起き、攪乱していたため、越前の朝倉氏を頼り、同年9月8日、敦賀に至った。しばらくここで過ごした。


 永禄10年(1567年)11月21日、朝倉氏の本拠地である一乗谷(現・福井県福井市)の安養寺に移座し、永禄11年4月15日に元服して義昭に改めた。


 義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし、義昭が上洛を期待しても義景は動かない。光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧め、そこで義昭は永禄11年6月23日(1568年7月17日)、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した。2回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が史料にまとまった形で初めて登場する。この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった。永禄11年7月頃、美濃国を併呑し、北伊勢を攻略した信長が義昭に「上洛戦のお供をしたい」と言上してきたので、義昭は越前を去り、同年7月22日、美濃国岐阜に到着した。


 永禄11年9月26日(1568年10月16日)、義昭の上洛に加わる。

 同年11月15日、近衛前久の弟で聖護院門跡の道澄が主催し、信長の右筆である明院良政を主賓にすえた連歌会で、道澄、雅淳、紹巴、昌叱、藤孝らと同座し、6句詠んだ。


 永禄12年1月5日(1569年1月21日)、三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲した(本圀寺の変)。防戦する義昭側に光秀もおり、『信長公記』への初登場となる。その翌月から文書発給に携わり始め、2月29日に光秀・村井貞勝・日乗上人連署で文書を発給している。


 同年4月頃から木下秀吉(後に羽柴へ改姓)、丹羽長秀、中川重政と共に織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う。

 同年10月、信長と義昭が意見の食い違いで衝突して信長が突如として岐阜に戻ってしまう。

 永禄13年(1570年)正月に信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告するが、宛先は光秀と朝山日乗で、義昭は承諾の黒印を袖に押し信長へ返している。同日、信長名で「禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れが全国の大名に出される。


 同年3月1日(1570年4月6日)、信長は将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷より天下静謐執行権を与えられる。


 永禄13年1月26日、公家の山科言継は幕府奉公衆へ年頭の礼に回り、その中に光秀も含まれており、すでに幕府直参の奉公衆となっていた。


 元亀元年4月28日(1570年6月1日)、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3,000人を主力に、秀吉と共に殿を務めて防戦に成功する。


 同年4月30日(1570年6月3日)、丹羽長秀と共に若狭へ派遣され、武藤友益から人質を取り、城館を破壊して5月6日帰京する。またこの頃、義昭から所領として山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられている。


 同年9月、志賀の陣にも参陣しているが、兵力は300人から400人と大きくなく、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、近江国滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当した。


 元亀2年(1571年)には、三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍して摂津国に出陣した。


 同年9月12日の比叡山焼き討ちで中心実行部隊として武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、間もなく坂本城の築城にとりかかる。


 同年12月頃、義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが(曾我助乗宛暇書状)、不許可となる。なお、暇願い提出の原因として旧延暦寺領の支配を任された光秀が信長と敵対したことを理由に所領の押領を図り、義昭の怒りを買ったからとする説があり、結果的に信長と義昭の対立の一因を光秀が引き起こした可能性がある。


 元亀4年(1573年)2月、義昭が挙兵。光秀は石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻する。


 同年7月、またも義昭が槇島城で挙兵し、光秀も従軍した。義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。旧幕臣には伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など、その後、光秀に仕えた者も多い。同年、坂本城が完成し、居城とした。


 天正元年(1573年)7月、村井貞勝が京都所司代になるが、実際には天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している。朝倉氏滅亡後の8月から9月まで、羽柴秀吉や滝川一益と共に越前の占領行政を担当し、9月末から溝尾茂朝(三沢秀次)、木下祐久、津田元嘉が代官として引き継いだ。


 天正3年(1575年)7月、光秀は惟任これとうの賜姓と、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守となる。同じ日に塙直政は原田、丹羽長秀は惟住の名字を与えられており、光秀は彼らと同格、すなわち織田氏の重臣層に加えられたことを意味していた。


 天正3年(1575年)の高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に、光秀は参加する。そして、丹波国攻略を任される。丹波国は山続きで、その間に国人が割拠して極めて治めにくい地域であった。丹波国人は親義昭派で、以前は信長に従っていたが義昭追放で敵に転じていた。


 ただし、丹波国人全てが一致していた訳ではなく、桑田郡宇津荘の宇津頼重や船井郡の内藤如安は親義昭・反信長の姿勢を早くから示していたが、彼らと勢力争いをしていた船井郡の小畠永明は早くから信長に協力的で光秀とも面識があった。また、桑田郡今宮の川勝継氏も小畠の説得で織田方に転じていた。


 7月に入ると、まず光秀は小畠・川勝の協力を得て宇津頼重攻めを始めるが、途中で信長より越前・丹後方面への援軍を命じられて離脱したところ、8月には宇津頼重に織田方の馬路城・余部城を攻められるなど苦戦する。また、丹後出兵の背景には信長の丹波攻略に対して曖昧な姿勢を示しながら、山名氏領である但馬の出石城・竹田城への攻略を進める氷上郡の赤井直正に対する牽制の意図があったという。


 一旦坂本城に戻った光秀は、10月に改めて丹波攻略を開始すると、宇津頼重は戦わずに逃亡し、続いて竹田城攻略を断念して帰還した赤井直正の黒井城を包囲するが、天正4年(1576年)1月15日に八上城主・波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走する。この結果、直後に信長から朱印状を与えられている小畠・川勝以外の国人の多くが離反したとみられている。


 天正4年(1576年)4月、石山本願寺との天王寺の戦いに出動するが、同年5月5日に逆襲を受けて司令官の塙直政が戦死する。光秀も、天王寺砦を攻めかかられ、危ういところを信長が来援し助かる。23日には過労で倒れたため、しばらく療養を続けた。


 同年11月7日(1576年11月27日)、正室の煕子が坂本城で病死する。この頃、光秀は余部城を丹波の本拠にしていたが、安定した本拠地として亀山に城を築くことを決めて、翌天正5年(1577年)1月より準備を進めている。


 天正5年(1577年)、紀州雑賀攻めに従軍する。同年10月、松永との信貴山城の戦いに参加して城を落とす。同月に丹波攻めを再開して翌月には籾井城を落とすが一時的なもので、以降は長期戦となる。そして難敵となった八上城を包囲し続け、その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返す。


 天正6年(1578年)3月、氷上郡の赤井直正が病死すると、再度丹波に出陣して園部城の荒木氏綱を降伏させるが、4月29日(1578年6月4日)には、毛利攻めを行う秀吉への援軍として播磨国へ派遣され、同年6月に神吉城攻めに加わる。ところが9月に入ると丹波国人の大規模な反乱が発生して亀山城防衛の要地であった馬堀城までも一時占拠され、光秀は急遽亀山城に入ると奪われた城を奪回した。


 同年10月下旬、信長に背いた摂津の荒木村重を攻めて有岡城の戦いに参加する。ところがこの段階では亀山城は完成しておらず、村重の乱を知った波多野軍は一時八上城を包囲する明智軍に攻勢をかけている。


 光秀の三女・玉子(洗礼名・ガラシャ)と細川忠興が勝竜寺城で結婚する。主君信長の構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある。


 同年8月11日、信長が光秀に出した判物があり(『細川家記』)、光秀の軍功を激賛、細川幽斎の文武兼備を称え、細川忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた光秀の娘玉子と細川忠興との政略結婚であったことが知られるが、ただ懸念されるのは、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっていることである。


 天正7年(1579年)、丹波攻めは最終段階に入っていたが、1月には波多野軍の反撃で丹波の国人では数少ない一貫した親織田派であった小畠永明が討死する。光秀は永明の遺児に明智の名字を与えて、小畠一族には一時的な名代を立てるのは許すが、将来は必ず永明の子を当主に立てることを命じている。しかし、同年2月には包囲を続けていた八上城が落城。同年8月9日(1579年8月30日)、黒井城を落とし、ついに丹波国を平定。さらに、すぐ細川藤孝と協力して丹後国も平定した。


 天正8年(1580年)、信長は感状を出し褒め称え、この功績で、丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石を領する。さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の南山城を与えられる。亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して「福智山城」に改名した。黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れた。同年の佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。


 また丹波一国拝領と同時に丹後国の長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が光秀の寄騎として配属される。これにより光秀支配の丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立する。また、これら寄騎の所領を合わせると240万石ほどになり、歴史家の高柳光寿は、この地位を関東管領になぞらえて「近畿管領」と名付けている。


 同年10月、信長は光秀らを大和検地奉行として奈良に派遣しており、これと関連する津田宗及の書状が残っていて、光秀と宗及の親しさが確認できる。


 天正9年(1581年)には、安土左義長の爆竹と道具の準備担当をして、それに続く京都御馬揃えの運営責任者を任された。


 同年6月2日(1581年7月2日)、織田家には無かった軍法を、光秀が家法として定めた『明智家法』後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く。さらに翌年1月の茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあり(『宗及他会記』)、信長を崇敬している様子がある。


 

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