第9話 勝男の野望

 2021年4月7日 

 佐沼史郎没

 

 2021年5月

 勝男の時代がやって来た。

 勝男は幼い頃に見た『サンダーバード』の映画を観て、宇宙飛行士を目指した時期があった。

 NASAの支援もあって宇宙旅行を目指せるようになった。視力は1.0以上ある必要がある。あまり、テレビとか見ないように父や母から教育された。2時間までしかダメだった。血圧は座った状態で140、下が90を超えたらダメだ。酒やタバコはほぼやらず、減塩食を心がけている。身長は145以上190センチ以下。勝男は160だ。

「昔は183ないとダメだったんだ」

 宇宙飛行士を目指したけど、ダメだった叔父の佐沼智充さぬまともみつが言っていた。軍隊式の水中サバイバルは反吐が出そうに苦しかった。重さ13キロ以上の戦闘装備を身に着けてプールの中で動くのだ。水泳試験もあった。フライトスーツとテニスシューズを着用したまま25メートルプールを泳ぐのだ。重力訓練は水中サバイバルより百倍辛かった。20秒間の無重力状態を40回だ。ゲロまみれになった。けど、土星や火星に行くことを諦められなかった。

「Gってのは本当に辛いぞ」

 智充はサイダーを飲みながら言った。

「足腰辛いだろ?後期高齢者」

「それは爺だろ?真面目に聞けよ。失明することもあるんだぞ」

「そうなのか?」

 勝男は顔を明石家さんまみたく変えて、名前を川崎健かわさきけんと変えていた。渋谷でひっそりと暮らしていた。

 109のところを歩いていたら、六角精児みたいなスカウトマンに「吉本に入りませんか?」って声をかけられたがやめておいた。


 日本ではかねてより、元寇の時に伝来した黒色火薬を使用するロケットが龍勢として各地に伝えられていた。


 近代的な日本のロケット開発は戦前の1931年にさかのぼることができ、兵器開発の一環として外国からの十分ではない資料を元に、陸海軍の噴進砲や桜花などの固体燃料ロケットや、イ号ミサイルや秋水などの液体燃料ロケットの開発などが行われた。戦後ロケット開発に協力することになる村田勉などもこれらの研究に携わっていたが、これらは終戦後に一度断絶する。


 宇宙開発としての黎明は東京大学教授であった糸川英夫によるものであった。第二次世界大戦後、日本は航空機の技術開発を禁じられ、第二次大戦中の航空技術者たちは多くが職を失っていたが、サンフランシスコ平和条約締結後、再度航空技術の開発が出来るようになった。7年間の断絶の間に日本の航空宇宙技術は大きく損なわれていた。糸川は東京大学生産技術研究所に航空技術の研究班を設置し、1955年4月には国分寺市で長さ23cm、直径1.8cmのペンシルロケットの水平発射実験をおこなった。これが戦後日本の最初のロケット実験とされている。続いて大きな目標として、来たる1957年〜1958年の国際地球観測年での実施が計画された、上層大気の(ロケットによる)観測のための機器を、外国から好意的な申し出もあったもののそれに頼ることなく糸川らのロケットで打ち上げるべく、研究・開発が進められることとなった。


 ペンシルロケットは当初水平発射を行っていたが、徐々に大型化すると、都市近郊での実験は危険になったため、秋田県の道川海岸へ移動し、打ち上げ実験をすることになった。ペンシルロケットの後、一回り大きいベビーロケットを開発し、最終的に高度6kmまでとどくようになった。ベビーロケットのあとは、気球からの発射を行うロックーンの計画と地上から打ち上げる計画が同時に行われたが、ロックーンは開発に難航し廃れていった。地上発射型のロケットではカッパロケットが徐々に到達高度を伸ばし、このロケットは気象観測などにも使われ、1958年には国際地球観測年に情報を提供した。この時代のロケットは開発資金がなかったため、手作りであり、追尾レーダーも手動であった。いずれも失敗を繰り返しながら試行錯誤で生産され、多くのタイプを生み出した。


 1958年、カッパロケットの6型は高度40kmに到達し、これによって日本は自力での観測データを持ってIGYに参加することができた。1960年、カッパロケット8型は高度200kmを超えた。当初秋田で行われていたが、飛距離の問題などからロケットの打ち上げ場所を太平洋に開いた内之浦に移動し、以前より大型のロケットの実験を行うようになった。


 1960年代にはこれまでに採取されていた情報から『人工衛星計画試案』が立てられた。これに伴ってカッパロケットの後継となったラムダロケットの開発が始まり、打ち上げに関する技術情報は小型のカッパロケットから取りつつ、より高高度への打ち上げを行うためにロケットの研究が行われた。


 1963年に科学技術庁は航空宇宙技術研究所を設置した(以下、航技研と略す)。航技研も宇宙に関する研究を行うことから、このころから国も宇宙開発に徐々に力を入れ始めてきたといえる。しかしその後の経過も含めてみると、東大生産研系と航技研とで、宇宙関係と航空関係の住み分けという傾向のほうが強く、たとえば航技研の機器で衛星軌道に上げられたものは「じんだい」など多くはなく、設備などもそういった傾向があった(2003年に組織としては統合される)。1964年には科学技術庁はさらに別の機関として「宇宙開発推進本部」を設置した。


 東京大学では宇宙航空研究所が設立された。ラムダロケットの開発は徐々に改良を加えながら進み、高度2000kmに達するまでになり、衛星の打ち上げが現実に近づいていた。当時、ロケット開発において誘導制御が軍事技術になると日本社会党に指摘されたため(実際に日本の宇宙開発は、カッパロケット由来の技術が海外で軍事転用されるという、甚大な国際トラブルの火種になりうる危険が十分にあった事件を起こしている)日本最初の人工衛星は無誘導での軌道投入を目指した。ロケットが遠くに飛ぶようになると近海で漁を行っていた漁業関係者との間で論争が起こり、一時停滞した。また、ラムダロケットによる軌道投入も4回も続けて失敗した[2]。これはロケットを分離する際に、燃料の少量の残りが燃料となって下の段が上の段に追突し、揺さぶることが原因だった。これらによって得られた情報でさらにロケットを改良した。


 1970年2月11日、全段無誘導のL-4Sロケット5号機によって日本初の人工衛星おおすみの打ち上げに成功した。ここまで国内技術だけで、ロケットと人工衛星の打ち上げに成功した。日の丸の小旗をもって待機していた町の人々は打ち上げ成功の喜びに沸いた。おおすみの信号は追跡に協力したアメリカによっても捕らえられたが、電池が高温で電力を失い、翌日までにはおおすみからの信号を捕らえられなくなった。おおすみ自身は宇宙航空研究開発機構が設立される直前まで軌道上に存在した。


 衛星の打ち上げ以前から存在していた宇宙開発推進本部は1969年10月1日に科学技術庁の特殊法人宇宙開発事業団として組織化された。前身の推進本部時代には当初防衛庁の施設があった新島で実験を行っており独自のロケット基地を持とうとしたが、おりしも安保闘争の時代であり、防衛庁のミサイル基地への反対運動が起こったため種子島をロケット発射基地として移転した。宇宙開発事業団は商用ロケットの実用化のために、固体燃料よりも液体燃料のロケットを求め、技術習得を急ぐため米国からの技術供与を受け、N-Iロケットを打ち上げた。このロケットはこれまで日本で独自に開発されてきた固体燃料ロケットとは違い、一部が液体燃料であり、これに連なるロケット群も液体燃料を利用することになった。宇宙航空研究所の宇宙開発は科学技術研究の要素が高く、宇宙開発事業団は商用ロケットや商用衛星の開発に力を入れた。


 以来、文部省の所管であった東京大学宇宙航空研究所と科学技術庁の所管であった宇宙開発事業団はお互いに独自に開発を進めていくことになった。科学技術庁側の一元化の主張に、文部省は実績と大学自治で対抗した。この問題は科学衛星の打ち上げは宇宙航空研究所が行い、1.4mより大型のロケットは宇宙開発事業団が行うという線引きで決着した。東大研究班は1981年に文部省の国立機関である宇宙科学研究所(ISAS)になる。しかし、以降も文部省と科学技術庁は綱引きを行いながら宇宙開発を進めていく。


 より大型の固体ロケットの開発は一足飛びには進まなかった。宇宙科学研究所は政府に対して今後10年程度は技術的にロケットの直径を1.4m以上に大型化できないだろうと言う予測を報告し、宇宙開発事業団ともこの大きさで線引きをしており、さらに国会が制限をかけたため、大型化が困難になったためである。


 宇宙開発事業団は初期には独自の液体ロケットの開発を行う予定であったが、差し迫った実用・商業的なロケットの必要性から、アメリカと日米宇宙協定を結び米国からの技術導入の運びとなった。アメリカのデルタロケットの1段目液体エンジンを利用し、国内で開発を行っていたLE-3を2段目に設置した液体ロケットの計画を始めた。こうしてN-1ロケットが開発された。しかし、最初の液体ロケットとなったN-Iロケットは軌道への投入能力が低く、衛星を製作する能力も米国に劣っていた。このため、1977年には米国からの技術移転で作られた静止気象衛星ひまわりをアメリカのロケットで打ち上げた。また、さくらやゆりなども米国のロケットで打ち上げてもらった。N-Iロケットは製造技術と管理手法のみの技術取得であったが、こまめに記録を取り、宇宙開発事業団は徐々に技術を身につけ、衛星でもひまわりの2号機以降は国産化率を高めていった。


 これ以降、宇宙開発事業団は大型化する衛星の要求を満たすためにN-Iロケットの後継であるN-IIロケットの開発を始め、2段目はノックダウン生産に変え、300kg近いひまわり2号を静止軌道に投入することに成功した。これらのロケットはアメリカのデルタロケットのライセンス生産やアメリカ部品のノックダウン生産でありロケット自体は非常に質のよいものであったが、衛星のアポジモーターなどはブラックボックスになっており失敗したときに改善するにも情報がなかなか手に入らなかった。このため、ロケット全体を自主開発することが必要となり国産での開発を始めた。新しく開発されたH-Iロケットは独自で研究開発を行った液体燃料ロケットLE-5エンジンを実用化し、2段目をこのロケットエンジンに変えた。LE-5は再点火できることが特徴でこの特長によりN-IIより強力になり、H-Iロケットの静止軌道への投入能力は500kgを超えた。


 宇宙開発事業団の生産したロケットは多くが商業衛星を打ち上げるために使われ、急速に増えた通信衛星や放送衛星、気象観測衛星などを打ち上げていった。H-Iロケットは9機生産され、そのすべての打ち上げに成功しており、日本で初めて複数の衛星の同時打ち上げに成功した。


 日本は有人宇宙飛行のための開発を行っておらず、NASAの協力で毛利衛が日本人としてはじめて宇宙に行く予定であったが、シャトルの事故によって、1990年に民間人であった秋山豊寛が日本人として最初に宇宙に行くことになった。また、彼は民間人として初めて宇宙に行った人間にもなった。

 

 宇宙開発事業団はLE-5エンジンを成功させ、日本国内での技術が進捗したことも鑑み、国内技術をより高めるために純国産液体燃料ロケットを開発することを決めた。開発は1984年から始められた。H-IIロケットはすべてを一から再設計したものである。1段目のエンジンも完全国産を目指し、その開発は難航した。日本が新型の1段目として開発していたLE-7ロケットエンジンは、高圧の水素・酸素ガスの燃焼を利用するもので、振動による部品破損や、材料の耐久性などの問題を解決するのに時間がかかった。水素が漏れることによる爆発も起きた。固体ロケットブースターには宇宙科学研究所で研究が続けられてきた固体ロケットの技術を生かすことになった。開発には10年かかり、H-Iの最後の打ち上げから2年後の1994年に1号機を打ち上げることになった。2月3日に打ち上げる予定であったが、フェアリングの空調ダクトが発射台から落ちたために1日延期し、2月4日に液体ロケットとしては初めて完全国産となったH-IIロケットの1号機が打ち上げられた。


 一方、宇宙科学研究所は1989年の宇宙開発政策大綱の変換でより大型のロケットの開発が可能になり、固体燃料ロケットで惑星探査が出来るロケットの開発を1990年から始めた。こちらもロケットモーターの開発で問題が発生した。開発が長引き、M-3SIIロケットの最終飛翔からやはり2年後の1997年にM-Vロケットが完成した。ロケットの空白期が生まれたために、火星探査機のぞみは打ち上げを2年延期することになった。


 こうしてロケットの開発が進んだ日本であったが、1990年(平成2年)には米国貿易政策「スーパー301条」が適用され、日本が国内で使用する実用衛星も国際競争入札にしなければならなくなった。これによって実用衛星の打ち上げに関しては、より安価に打ち上げることの出来る米国製のロケットが多くを持っていき、また、少数生産で高コストの国産衛星は、大量生産で低価格の欧米の商用衛星に敵わず、ひまわり5号の後継機は米国製の完成品購入になった。みどりのような環境観測のための衛星や、はるかのような天文衛星など科学衛星や実験衛星は日本のロケットで打ち上げられることがほとんどであり、これらの衛星は大きな成果を上げた。しかし、商用衛星の打ち上げが海外に流れたことは現在に至るまでロケットの商用打ち上げの実績を積むことができない理由ともなった。


 また、1990年代後半から2000年代初めにかけては新たに開発した大型ロケットで躓くことになった。H-IIロケットの5号機と8号機が連続で打ち上げに失敗し、M-Vロケット4号機も打ち上げに失敗。火星探査機のぞみは軌道投入に失敗した。これらの失敗と折からの行政改革の動きが重なり、宇宙機関の統合が政府で提案されるようになった。組織間の連携の強化、機能の重点化、組織体制の効率化などを行う計画が立てられ、宇宙開発事業団は、H-IIロケットの打ち上げ失敗を反省してロケットの再設計と簡素化を行い、2001年にH-IIAロケットの初打ち上げを成功させたが、2003年10月1日に宇宙科学研究所(ISAS)、宇宙開発事業団(NASDA)、航空宇宙技術研究所(NAL)が統合され、文部科学省の下で宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足した。


 宇宙航空研究開発機構(JAXA)設立直後のH-IIAロケット6号機の打ち上げは失敗したものの、その後は成功を重ねた。さらに2009年には、より搭載能力の高いH-IIBロケットによる宇宙ステーション補給機(HTV)の打ち上げも成功させ、国際宇宙ステーション(ISS)への物資の補給を初めて成功させた。また同年にはISSで最大の実験棟となるきぼうの運用も開始された。2013年秋に、M-Vロケットの後継の固体燃料ロケットのイプシロンロケットの初号機が打ち上げられた。一方で、初の商業打ち上げとなった2012年のH-IIA21号機によるアリラン3号の打ち上げ以来商業受注を再び指向するようにもなっている。


 衛星分野に関して言えば、1990年の日米衛星調達合意以降、国内で打ち上げる人工衛星の多くが官製の科学衛星や実験衛星になったため、この分野の技術力が強いものとなっていった。気象衛星のひまわり7号の標準衛星バスのDS2000はきく8号に使用された衛星バスを発展させることによって開発されたもので、これによりコストを下げることができ、再び国産で気象衛星を打ち上げることができるようになった。また標準衛星バスのNEXTARを開発したことで、基礎部分をある程度共有するセミオーダーメード型の衛星の実現が可能になり、安価で迅速な開発も可能となり、小型科学衛星(SPRINTシリーズ)や実用リモートセンシング衛星(ASNAROシリーズ)を多く打ち上げる計画も立ち上げられている。


 近年で最大の成功ははやぶさの帰還と言える。工学実験を主目的に作られたはやぶさは、2003年に内之浦宇宙空間観測所からM-Vロケットで打ち上げられ、2005年に小惑星イトカワを探査、打ち上げから60億kmの飛行を経て2010年に地球に帰還した。イトカワへの 着陸時にトラブルがあったため、小惑星の試料を採取できていない可能性が高いとされていたが、帰還させたカプセルの中に小惑星の試料が入っており、これによってはやぶさは世界で初めて小惑星から試料を持ち帰った探査機になった。


 1998年の北朝鮮のミサイル実験以降、過去には行われてこなかった情報収集衛星の打ち上げやミサイル防衛など防衛目的での宇宙利用が行われるようになった。また、冷戦終結後は欧州や中国、インドなど各国の宇宙開発の進展によって国際環境が変化したことで日本独自の宇宙開発の意義も変化。さらに、研究開発や科学だけでなく商用や産業の発展などの実用への活用の要求や、宇宙開発に協力する国内民間企業への恩恵の少なさなどが日本の宇宙開発の課題となっていた。


 このような問題に対応するため、宇宙開発の中心を文部科学省から関連省庁の垣根を越えた内閣総理大臣の責任の下に移すことが考えられるようになり、2008年に宇宙基本法が制定された。これによって法的に内閣の下での宇宙開発の計画管理の一元化の道筋が立ち、防衛利用の法的根拠等も整備された。制定後、内閣に宇宙開発戦略本部、内閣府に宇宙政策委員会と宇宙開発推進戦略事務局が相次いで設置された。従来、文部科学省の宇宙開発委員会が行っていた計画管理も内閣府の宇宙政策委員会に移り、新しい宇宙開発計画体制が構築された。従来の日本の宇宙開発体制では、JAXAを所管していた文部科学省が力を持っていたが、これらの組織の発足により経済産業省も力を持ち始めるのではないかと推測されている。

 

 佐沼帝国の真の主は勝男だが、政界の人間である智充が幅を利かせていた。

 SPのOBで結成された『ペガサス』はアウル社の人間を血祭りに上げた。

 スナイパーライフルや手榴弾で丸の内にある本社を襲撃した。

「アウルは国民の敵だ」

『ペガサス』の隊長、庄田しょうだは憤慨していた。


 アウル社の社長、柳原郁夫やなぎはらいくおは実家のある岐阜市に逃亡した。

 戦国時代には金華山の麓の旧岐阜町が美濃斎藤氏や織田信長が治める城下町として発展。江戸時代には幕府の直轄地のちに尾張藩領となり岐阜奉行所が置かれ、岐阜四十四町からなる商工業の中心地として栄えた。南部の旧加納町は中山道加納宿の宿場町、加納藩の城下町でもあった。戦後は繊維産業で栄えた。現代では中京圏(名古屋都市圏)に属し、名古屋市の衛星都市・ベッドタウン的な性格を持つ一方で県の行政・商業・情報の拠点として機能している。

 岐阜県の南部に位置し、濃尾平野の北端に当たる。北部には山林を有し、南部には市街地が広がっている。また市内を横切るように、北東から南西にかけて長良川が流れており、市の大部分は長良川と支流の扇状地と自然堤防地帯にあたる。市内に流れる長良川は日本三大清流の一つと言われている。長良川の中流流域が1985年(昭和60年)に「名水百選」に選ばれた。また1998年(平成10年)に「日本の水浴場55選」に、2001年(平成13年)に「日本の水浴場88選」に選定されている。一方、扇状地の長良川は典型的な天井川で、市の中心部より川の水面の方が常に高く、大雨の際には洪水の危険が伴う。


 柳原は旧友の梶川篤信かじかわあつのぶを頼った。家庭は極貧で、飯や服をゴミ箱で漁り、ダンボールでベッドを代用し、靴がなく素足で歩いた。15歳で学校を止め、父が働く廃品回収業者で働いたが、1年足らずで地元の窃盗団『まむし』に入り、コンビニや宝石店への盗みを常習した。盗品は大阪の転売屋や地元のギャングに売りさばいた。1973年8月、警官に腕を撃たれながら逃げたが、自分の逃走車のナンバーと検問時の顔合わせで身元が特定され、窃盗罪で11か月服役した。1974年7月恩赦で釈放され、『蝮』が場所を移動していたので自前の窃盗団『みずち』を組織して週500万稼いだ。1974年12月、栗崎右近くりざきうこん率いる静岡ギャングと愛知ギャングの揉め事に巻き込まれ、些細なことで栗崎に命を狙われた。1975年4月、窃盗で再び捕まり、3年服役した。服役後に多聞影魔たもんえいまという男にナイフで襲われ、38針縫う大怪我をした。1978年6月出所すると、再び泥棒団を組織した。多聞に襲われた理由が栗崎の暗殺指令だったことを知った梶川は、入獄中再会した月岡照吉つきおかてるきちに口利きを頼み、栗崎問題は決着したが、以後栗崎を敵視した。梶から紹介された鴇田織浩ときたおりひろ安藤魁あんどうかいの仲間になることを勧められ、関西人と組むことに抵抗があった梶川はいったん断ったが、大阪と岐阜が争ったのは遠い過去の話で今は一緒に仕事をする時代だと説得され、豊臣喜一郎とよとみきいちろうの一員だった安藤のグループに入った。 

 歴史は変動しており、徳川に滅ぼされるはずの豊臣家が存続し、信長の末裔たちと壮絶なる戦いを繰り広げた。

 安藤との出会いが転機で、組織犯罪の道に入った。


 1980年2月、長野の不破国貞ふわくにさだの愛人だった玲奈れいなが暗殺され、安藤は首謀者が不破とみて復讐の機を窺った。8月、安藤は部下石谷健吾いしたにけんごら既存のメンバー数人と梶川を含む新参ギャングの総勢15名を引き連れて不破と対立する山梨の鷲見光太郎わしみこうたろうと水面下で提携し、合同暗殺チームを組織した。梶川もヒットマンとして加わり、不破やその幹部を標的に、情報収集から、張り込み、狙撃、逃走車の手配まで暗殺全般に関わった。人手が足りず、昔の窃盗仲間を安藤に紹介して暗殺チームに入れた。多くの暗殺現場に居合わせ、1980年11月の不破派の警察署長、佐々木四郎ささきしろう暗殺や、1981年2月の髑髏どくろ市の市長、皇青蔵すめらぎせいぞう暗殺に加担した。ほか梶川が実際に襲撃に関わったターゲットに、相馬そうま組、鯛島たいじま組、血沼ちぬま組などがいた(いずれも暗殺失敗)。抗争中に鷲見の元で正式に梶川他数名のマフィア入会の手続(儀式)が行われた。儀式と共に行われた打倒不破の集会に、石谷、虎井夏夫とらいなつお、鴇田、月岡その他40人が集まった。1981年4月、不破が部下に謀殺され、抗争が終わると、鷲見は勝利者として何度もマフィアを集めて集会を開いたが、数百人のギャングが集まった甲府市の大集会に梶川も参加した。その後もしばらく鷲見の元にいた。


 1981年9月、鷲見が富山の新見組に暗殺され、寝耳に水だった梶川は、標的になるのを避けて玲奈の息子を通じ軽井沢にある玲奈宅の屋根裏部屋に一時潜伏した。その後、大阪の安藤の元へ戻るか迷った末、月岡のアドバイスに押される形で、兵庫の新見組に助けを求めた。新見は、安藤の分派で、梶川を有力幹部、嵐山猪之助が迎えに来た。1982年7月28日、玲奈の娘と結婚した。結婚パーティに錚々たるギャングが集まった。


 梶川は不動産や金融を手掛け、同じファミリーの沼津ぬまづとそのクルー同士でビジネスをするケースが多い中、殆ど単独または自分の仲間とビジネスした。高利貸しの担保で手に入れたレストランや宝石店を共同経営するなど合法ビジネスにも参入し、長年の夢だった競馬の馬主にもなった。髑髏市の市長に就任した嵐山の指令で殺人を請け負い、麻薬取引にも手を出した。梶川は27歳になっていた。


 子供が生まれたこともあり、悪事をするのに後ろめたさを感じるようになり、保育や福祉に尽力するようになる。が、麻疹で息子が亡くなり、宝石店の倒産や滞納した税金などで資金繰りが悪化し、再び麻薬取引に手を出した。闇カジノ開拓や競馬ビジネスのシェア拡大で儲けを取り戻し、麻薬から手を引いた矢先の1989年5月、ドラッグディーラーの密告で家宅捜査を受けた。三重や和歌山を転々として潜伏したが、仲間だった別の麻薬犯罪者の自白で居所がばれ、1989年11月19日、3人の捜査官に捕まった。1990年2月、裁判で麻薬の罪を認めたが、1か月の判決猶予をもらっている間に、再び逃亡を企てた。一家のメンバーの仲立ちで、猫田兄弟と知り合い、大阪から彼らの斡旋で京都まで逃げたが、しばらくして嵐山から刑期は5年で済むからと帰還を促され、大阪に戻った。自殺をしようと列車に飛び込もうとしたが、結局当局に自首した。1990年6月3日、想定していた刑期より重い懲役15年との判決を受け、堺刑務所に収監された。新見が梶川より4か月前から同じ刑務所にいた。1992年2月、量刑が加わって懲役20年となった。



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