第8話 真冬の冒険
永禄12年(1569年)、織田信長は伊勢国に兵を進めて、伊勢国司9代目北畠具房と戦い、大河内城の戦いで北畠家を追い詰めた。和睦の条件として信長は次男茶筅丸(後の織田信雄)と具房の妹の雪姫を婚姻させ、茶筅丸を北畠氏の養継嗣とさせる事に成功。元亀元年(1570年)に具房の父具教は出家して不智斎と号し三瀬御所(現三重県多気郡大台町)に隠居した。
元亀3年(1572年)に茶筅丸は元服し北畠具豊と改名、同時に雪姫と正式に婚姻の上大河内城を廃して田丸城を新たに本拠とした。天正3年(1575年)には信長の圧力によって具房も隠居に追い込まれ、具豊は信意と改名し北畠家10代目当主となる。これで名実共に北畠家を掌握したかに思われた織田氏であったが、具教と立場を失ったその側近達は心服しておらず、元亀4年(1572年)3月に具教は西上作戦の途上であった武田信玄の陣に鳥屋尾満栄を遣わせ、信玄上洛の際には船を出して協力するという密約を結んでいた。
この事は天正4年(1576年)には信長も知るところとなっており、この年の正月の挨拶に岐阜城に訪れた満栄を信長は待たせたまま対応せず、満栄が帰ろうとした所でわざわざ呼び戻し、進物を庭の白洲に置かせ満栄を座らせたままで縁側で刀を抜くなど挑発的な行動を見せたという。同年夏には信意が紀伊国熊野攻略を狙ったものの堀内氏善の反撃で逆に加藤甚五郎を討たれ、紀伊長島城を失うという失態を演じたが、熊野勢には元は伊勢国司の家臣であった者もいたためさらに対立は深まった。
天正4年(1576年)11月、信長・信意親子は北畠一族の抹殺を画策。信長は藤方朝成・長野左京亮・奥山知忠の3名を呼び出し領地の朱印を与えて誓紙を書かせ、具教殺害を指示した。この内、奥山知忠は病と称して出家してしまい直前で計画から外れたが、長野左京進は参加し、また藤方朝成も直接の参加は避けたものの結局は家臣の軽野左京進を参加させた。
11月25日、滝川雄利・柘植保重・軽野左京進の3名の軍勢が三瀬御所を包囲。内通していた具教の近習である佐々木四郎左衛門が長野ら3人を通し、具教に面通りさせると長野がいきなり槍で具教を突き、具教はこれを躱して太刀で反撃しようとしたが佐々木に細工された太刀は抜くことが出来ずそのまま討ち果たされた。
しかし一説には具教は19人を斬り殺し、100人に傷を負わせたという。その後、長野左京亮によって討ち果たされた。享年49。
その後、三瀬御所に討ち入った軍勢によって具教の四男・徳松丸、五男・亀松丸らも殺害され、北の方(具教正室)らも走って逃げようとするなど御所内は混乱状態となった。
三瀬御所では具教と2人の子の他に北畠家臣14人の武将が殺害され、30人余りの家人もそれに殉じた。
一方で信意も同日(11月25日)に北畠家臣やその一門を一斉に集め、この機を逃さず根絶やしにしようと計画していた。まず、朝に饗応の席と偽って田丸城へと呼び出した長野具藤(具教次男)・北畠親成(具教三男)・坂内具義(具教娘婿)の3名を招き入れて、やがて信意が合図の鐘を鳴らすと城内の北畠家臣の抹殺を命じた。日置大膳亮・土方雄久・森雄秀・津田一安・足助十兵衛尉・立木久内らが一斉に組み付いて長野具藤・北畠親成・坂内具義を刺し殺すと、そのまま城内にいた坂内千松丸(具義長男)や波瀬具祐・岩内光安らも殺された。
更に病の治療のために田丸に滞在していた大河内具良(教通)も標的となり、見舞いと偽って訪れた柘植保重・小川久兵衛尉が刺客となって具良を殺害した。翌日11月26日には天野雄光・池尻平九衛門尉の2人が坂内具房(具義父)らが寄る坂内御所に到着したが、既に城内では坂内の家臣たちが謀反を起こして具房を殺しており、坂内御所は具房の首を天野・池尻に差し出して降伏した。これらの知らせを聞いた田丸直昌も北畠一門の家柄であったので防備を固め警戒したが、直昌を殺すつもりは無かったのでこれは信意が使者を送って宥めた。
田丸城に呼び出された北畠一門の中で助命されたのは信意の養父ということになっていた北畠具房ただ一人であり、具房の身柄は変後滝川一益預かりとなって長島城に幽閉された。
一連の粛清の手を逃れた北畠の将たちは北畠政成の守る防御能力の高い霧山城(多気御所)に集結し抵抗を試みたが、信長は即座に羽柴秀吉・神戸信孝・関盛信ら15,000の兵を送り込んで霧山城を包囲。12月4日には霧山城は陥落して守将の北畠政成・波瀬具通らが自害して果てた。霧山城下は灰燼と化し、霧山城も焼け落ちたのでそのまま廃城となった。同年12月15日には信意の側近で変にも参加していた津田一安が信長の命を受けた日置大膳亮によって田丸城の普請場で斬殺されている。
その後、一族誅殺の報を聞いて激怒した具教の弟である奈良興福寺東門院院主が伊賀に潜伏し、そこで還俗して北畠具親を名乗り挙兵。天正5年(1577年)に鳥屋尾満栄・家城之清ら北畠旧臣の協力を得て三瀬谷・河俣谷・多気・小倭衆らの在地武士と飯高郡森城に旗揚げしたが、信意麾下の日置大膳亮・日置次太夫兄弟らによって年内にはこの反乱も鎮圧され、具親は毛利輝元を頼って安芸国にまで亡命した。
これによって信意の伊勢掌握の妨げになっていた旧北畠具教・具房家臣の一門一派はほぼ伊勢から駆逐され、要衝には信意の側近たちが配置される事となり織田氏による北畠氏簒奪が完了した。
大門は田、利府、岩成、千鶴の4人を殺害している。
「明日から12月か〜、ずいぶん寒くなったな」
大門はコタツの中でコブ茶を啜った。
佐沼帝国の上空には分厚い雲。雪でも降りそうだ。あと16人殺さないといけないのだ。しかも、今年の大晦日までにだ。そうしないと、地獄に戻る羽目になる。
大門は
電車の中でガムをクチャクチャ噛んでる耳障りな学生をぶん殴ったり、あまりいい思い出のない中学校に忍び込んでハンマーで窓ガラスを割ったり、「猿みたいな顔してる」って馬鹿にしてきた自衛官仲間の首を絞めて山の中に埋めた。
あの熱さを2度と味わいたくない。
12月1日
『ドカベン』、『あぶさん』、『野球狂の詩』など野球漫画の第一人者として知られる水島新司がこの日をもって引退することを所属事務所が発表。
2020年の『現代用語の基礎知識選 ユーキャン新語・流行語大賞』が発表され、年間大賞に「3密」を選定。
大門は鹿児島県霧島市にやって来た。
今年の夏はコロナのせいで新ドラマが先送りになり、『ごくせん』や『ハケンの品格』など通常なら夕方に再放送されるはずのドラマが夜にやったりした。
弥勒ってのは20年前、15歳のときにイジメで同級生を首吊り自殺に追い込んだ。
弥勒の家にいたが留守のようで仕方なく宿にやって来た。でっかい温泉で噴水が上がってる。『これが温泉だ!』って看板が浴室に掲げられている。
奥の方に行こうと浴槽を進んでいると、窪みにハマった。
「ウワッ!溺れるっ!」
穴は戦国時代に繋がっていた。
淀んだ川から大門が突如現れて、村人たちは驚いた。
戦国時代に九州にいた大名、龍造寺や島津、大友などだったか?
山奥の荒屋でくろろ鍵ってピッキングツールを見つけた。そいつで土蔵の錠前を開けることに成功した。そこには
土手の上で鎌槍を手にした侍がいた。実は六角若葉なのだが、そんなことを大門は知る由もない。
百雷銃を撃った。
「ワッ!ワッ!ワッ!」
おろおろしてる六角を大門はトカレフで撃ち殺した。戦国時代での殺戮もカウントされるのかな?
大門は屍から鎌槍を奪った。百雷銃を置いていくことにした。
日はとっぷり暮れた。
「こんなところで何をしている?」
屈強そうな男に声をかけられた。彼は
「道に迷ってしもうた」
「尾張の織田信長がどうなったか知らぬか?」
今が何年なのかは分からない。
「さぁ?」
「共にあのうつけを討たないか?」
信長は第六天魔王と恐れられた。比叡山焼き討ちや浅井長政や朝倉義景の髑髏に金粉を施し、髑髏にした。蝿がコブラに戦いを挑むようなものだ。
だが、断ったら酔象が信長の仲間と疑うかも知れない。運が悪ければ殺されるかも知れない。
「分かり申した」
ビュッ!矢が飛んで来て大門の肩に突き刺さった。
酔象に先導されてさきほどの荒屋に逃げ込んだ。
ニッケイっていうクスノキ科の薬草を煎じたものを飲んだ。鎮痛作用があるので、痛みが消えた。地獄からこっちに来た頃は痛みがなかったが、最近は感じるようになった。
鹿児島の旧国名は薩摩だ。ってことは酔象は島津氏に仕えているのか?
「酔象殿は島津氏の者ですか?」
「いや、島津は我が主君、肝付の天敵である」
当時の鹿児島には薩摩と大隅という2つの領地があった。
嘘をつくと、人間に戻る機会を失うかも知れない。大門は令和って国からタイムスリップして来たことを正直に話した。
「コロナというのがその時代は流行っておるのか?大変そうじゃな?」
にしても、肝付に仕えている酔象が何故、信長の命を狙っているのだろうか?
永正8年(1511年)、15代当主・肝付兼興の長男として生まれる。
天文2年(1533年)、父・兼興が死去すると、叔父の兼親(兼執)を滅ぼして家督を継いで16代当主となる。
兼続は隣国の島津氏との関係を重視し、島津忠良の長女・御南を妻として迎える一方で、妹を忠良の子・島津貴久に嫁がせて良好な関係を保とうとした。一方で大隅の平定に着手し、天文7年(1538年)には高岳城を落としたのを契機に、大隅をほぼ平定した。天文11年(1542年)に百引城や平房城、天文13年(1544年)に安楽城、天文15年(1546年)に逢原城など諸城を落とし、大隅における肝付氏の勢力拡大に努めた。天文22年(1553年)、嫡男・良兼に家督を譲って隠居し出家したが、実権は握り続けた。
永禄元年(1558年)、それまで親密な関係を保っていた島津氏との関係が崩れて、兼続は日向の伊東氏と結んで島津忠親と戦った。永禄4年(1561年)には廻城を奪取して島津貴久と本格的に敵対し、竹原山の戦いで貴久の弟・忠将を討ち取って大勝した。このとき、兼続は御南に離縁を迫ったが、御南は応じなかったといわれる。
永禄5年(1562年)には志布志城を落とし、肝付氏の最大領土を形成した。そしてここに隠居所を築き、隠居生活を送りながら政務を見たといわれる。永禄7年(1564年)には日向福原で島津忠親と戦って勝利し、永禄9年(1566年)には島津方の北郷時久と戦って勝利し、福島まで進撃する。
しかし11月14日、島津貴久の反攻を受けて居城である高山城が落とされる。兼続の行方ははっきりしないが、一説には隠居城の志布志付近で翌11月15日に自殺したとされる。享年56。
墓所は志布志の下小西児童公園内。
2代目は
相州島津家当主で、島津家内の実力者であった島津忠良を烏帽子親として元服し偏諱を受け良兼と名乗る。天文22年(1553年)、父・肝付兼続の隠居に伴い当主となるが、実権は依然として父が握っていた。永禄9年(1566年)の父の死後、家中の権力を掌握すると永禄11年(1568年)に反攻に転じ、まず伊東氏と同盟し、飫肥を攻めて島津軍を撃退する。元亀2年(1571年)には伊地知重興の救援に向かい、島津軍を撃退した。しかし直後に病死した。享年37。
名跡は、娘婿となった弟・
3代目の
元亀2年(1571年)、異母兄・良兼の死去により、亡父の正室「御南」や兄・良兼の正室である「高城」の意向を受け、良兼の次女を正室に迎え家督を継ぐ。しかし、元亀4年(1573年)、島津氏方の北郷時久と戦って敗れたうえ、伊地知重興・禰寝重良などが相次いで離反して島津氏に降ったため、これまで互角以上に渡り合った島津氏との立場は一変、天正2年(1574年)、島津氏に従属した。
しかし、日向国の伊東氏と通じた上、夫婦仲が悪かったことで御南や高城に正室と離縁させられ、日向に追放された。
寛永11年(1634年)、死去。
12月4日
厚生労働省がこの日、日本で初めて10代の女性が新型コロナウイルス感染症のため死亡したと一旦発表したが、その後「集計ミスの可能性が高い」として発表を取り消し、ウェブサイトからも削除した。
神奈川県の小田原駅東口に直結する複合商業施設「ミナカ小田原」が開業。
福井県あわら市の医薬品メーカー『プルート』が製造した爪水虫などの皮膚病薬に誤って睡眠導入剤が混入していたことが判明し、合計9万錠を自主回収すると発表。中には車を運転中、副作用により物損事故を起こしたケースが14件あった他、実際に入院した人もいた。当該医薬品は処方箋が必要で一般には市販されていない。その後の同社の報告や県の調査で133人が健康被害を訴えていることが判明。さらに10日には同薬を服用して入院していた患者1名が死亡したことが公表された。
12月6日
日本のJAXAで開発された小惑星探査機「はやぶさ2」の回収カプセルが地球へ帰還する(オーストラリアのウーメラ試験場に着陸)。なお、本体は地球をフライバイして次の探査目標(小惑星「1998 KY26」、2031年7月到着予定)へ向かった。
「ねぇ、お兄ちゃん本を探しているの」
おばちゃんに声をかけられた。コロナ禍なのにマスクもしてない。
「何の本ですか?」
「夏目漱石の『それから』」
このおばちゃん、
リストを調べたがその本はなかった。
直井は手にしていたカッターナイフで三宅梨絵を刺し殺した。
直井は警察署に連行されたがスーツ姿の男が現れて、茶封筒を渡された。彼は
「ゴミを排除してくれてありがとう」
直井は釈放された。
楽しいクリスマスになりそうだ。
12月8日
「こんだけ、悪いことしても逮捕されないなんて佐沼帝国は腐ってる」
悪口は言うもんじゃない。佐沼帝王のおかげで10万手に入れたんだ。
「霧子のお父さんって何してるの?」
直井は霧子の作ってくれたポトフを味わった。
直井と霧子は市営飯塚団地で同居していた。
「サラリーマン、東京で働いてたんだけど行方不明なんだ」
「東京って物騒だもんな」
霧子は37歳だ。直井より12歳年上だ。
酔象は蘇生の玉を探していた。大隅の何処かにあるらしい。酔象の正体は朝倉義景だった。
天文2年(1533年)9月24日、越前国の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる。
このとき、父の孝景は41歳であり、唯一の実子であったとされる。幼名は長夜叉と称した。
天文17年(1548年)3月、父の孝景が死去したため、16歳で家督を相続して第11代当主となり、延景と名乗る。9月9日には京都に対して代替わりの挨拶を行っている(『御湯殿上日記』)。
当初は若年のため、弘治元年(1555年)までは、従曾祖父の朝倉宗滴(教景)に政務・軍事を補佐されていた。
天文21年(1552年)6月16日、室町幕府の第13代将軍・足利義輝(当時は義藤)より「義」の字を与えられ、義景と改名する。この頃、左衛門督に任官した。将軍の「義」の字を与えられ、一等官である左衛門督の官途を与えられたこと(それまでの朝倉当主は左衛門尉などの三等官)は歴代朝倉家当主の中では異例のことで、これは義景の父・孝景の時代に室町幕府の御供衆・相伴衆に列して地位を高め、また義景が正室に管領であった細川晴元の娘を迎えたことにより幕府と大変親密な関係を構築し、また衰退する室町幕府にとっては朝倉家の守旧的大名の力をさらに必要として優遇したためという。庭籠の巣鷹を義輝に献上して交流を深めていたことも知られている。
弘治元年(1555年)、宗滴が死去したため、義景は自ら政務を執るようになる。
永禄2年(1559年)11月9日、従四位下に叙位された。
永禄6年(1563年)8月、若狭国の粟屋勝久を攻めた。この頃の若狭守護である武田義統は守護として家臣を統率する力を失っており、粟屋勝久や逸見昌経らは丹波国の松永長頼と通じて謀反を起こしていた。このため、朝倉軍は永禄6年以降、主に秋に粟屋氏攻撃のために若狭出兵を繰り返している(『国吉城籠城記』)。
永禄7年(1564年)9月1日、朝倉景鏡と朝倉景隆を大将とした朝倉軍が加賀国に出兵。9月12日には義景も出陣して本折・小松を落としたのを皮切りとして、9月18日には御幸塚、9月19日には湊川に放火して大聖寺まで進出した後の9月25日に一乗谷に帰陣している。
永禄8年(1565年)5月19日、将軍・足利義輝が三好義継らによって殺害された。義景は義輝殺害を5月20日に武田義統の書状で知っている。8月に朝倉軍は若狭に出兵している。また、8月5日に義輝の叔父にあたる大覚寺義俊が上杉謙信に充てた書状によれば、義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が7月28日に幽閉先の奈良を脱出して近江国に移ることになった背景には朝倉義景の画策があったとしており、この段階で義景は義輝の家臣であった細川藤孝・米田求政・和田惟政ら脱出に関わった人たちと連絡を取り合っていたとみられている。
9月8日、松永久秀に矢島御所から追われ、若狭武田家を頼っていた覚慶、還俗して改め義秋が越前敦賀に動座したため、義景は景鏡を使者として遣わし、その来訪を歓迎した(『上杉家文書』『多聞院日記』『越州軍記』)。義秋は朝倉家の後援を期待して、朝倉・加賀一向一揆の和睦を取り持とうとしたりした。しかし、両者の長年の対立は深刻ですぐに和睦できるものではなかった。
永禄10年(1567年)3月、家臣の堀江景忠が加賀一向一揆と通じて、謀反を企てた。加賀国から来襲した杉浦玄任率いる一揆軍と交戦しつつ、義景は山崎吉家・魚住景固に命じ堀江家に攻撃をしかける。景忠も必死に抗戦をするが、結局、和睦して景忠は加賀国を経て能登国へと没落した。これは朝倉景鏡の讒言による内乱であったと『朝倉始末記』は記している。
11月21日、義秋を一乗谷の安養寺に迎え、11月27日に義景は祝賀の挨拶を行なっている。義秋の仲介により、12月には加賀一向一揆との和解も成立している。
義秋は上杉謙信など諸大名にも上洛を促す書状を送っているが、それらの大名家は隣国との政治情勢などから出兵は難しかった。そのため義秋は義景に上洛戦を求め、12月25日には非公式ながら義景の館を訪問している(『朝倉始末記』『越州軍記』)。また、義秋が発する御内書に義景は副状を添えており、この時の義景は実質的には管領に相当する立場にあり、「朝倉系図」では義景の地位を管領代として記している。
永禄11年(1568年)3月8日、義秋により広徳院が二位の尼に叙せられた。
4月、義秋が朝倉館で元服し義昭と改めた。その後も義昭は朝倉館を訪問し、義景に限らず朝倉一門衆とも関係を深めて、上洛戦を求めた。
6月、義景の嫡男である阿君丸が急死する。
このように義景は義昭が望む上洛戦には冷淡であったため、7月に義昭は美濃国を支配下において勢いに乗る織田信長を頼って動座しようとした。義景は止めようとしたが、義昭は滞在中の礼を厚く謝する御内書を残して越前から去った(『足利季世記』)。
永禄11年(1568年)8月、若狭守護・武田氏の内紛に乗じて介入し、当主である武田元明を保護という名目で小浜から連れ去り越前一乗谷に軟禁し、若狭も支配下に置いた(『国吉城籠城記』)。ただし武田家臣の粟屋勝久や熊谷氏などは義景に従属することを拒否して頑強に抵抗し、若狭を完全に平定したとは言い難い。この若狭侵攻は当時上洛作戦を展開していた織田信長と浅井長政の援護が目的であったとの説もある(ただし、粟屋ら朝倉氏に抵抗した武田家臣たちは義昭や信長を頼っている)。しかし義景は、次第に政務を一族の朝倉景鏡や朝倉景健らに任せて、自らは遊興に耽るようになったと言われている。
永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。上洛した信長は義昭を将軍とし、さらに義景に対して義昭の命令として2度にわたって上洛を命じるが、義景は拒否する。これは朝倉家が織田家に従うことを嫌ったためと、上洛することで朝倉軍が長期間に渡って本国・越前を留守にする不安から拒否したとされ、また信長も越前は織田領である美濃と京都間に突き出された槍という位置から義景を服属させる必要があったためとされる。
このため永禄13年(1570年)4月20日、義景に叛意ありとして越前出兵の口実を与えることになり、義景は織田信長・徳川家康の連合軍に攻められることになる。連合軍の攻勢の前に旧若狭武田家臣の粟屋氏・熊谷氏らは信長に降伏した。また支城である天筒山城と金ヶ崎城が織田軍の攻勢の前に落城した。義景は後詰のために浅水(現在の福井市)まで出兵したが、居城の一乗谷で騒動が起こったとして引き返した。また、この越前出兵に関しては、本来は足利義昭の意向を受けた若狭侵攻であったとする説もあるが、この説を採ったとしても義昭の意図は若狭武田氏の再興にあったと考えられるため、義景が若狭から撤退しない以上、朝倉討伐に発展するものであったと言える。
だが、浅井長政が信長を裏切って織田軍の背後を襲ったため、信長は京都に撤退した。このとき、朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の殿を率いた木下秀吉に迎撃され、信長をはじめとする有力武将を取り逃がした(『革島文書』『信長公記』)。このため、信長に再挙の機会を与えることになった。
元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川で激突する(姉川の戦い)。しかし、朝倉軍の総大将は義景ではなく、一族の朝倉景健であり、兵力も8,000人(一説に1万5,000人)だった。朝倉軍は徳川軍と対戦したが、榊原康政に側面を突かれて敗北し、姉川の戦いは敗戦に終わり『信長公記』によると浅井・朝倉軍は1100余の損害を出したとされる。この戦いで信長は浅井方の支城の多くを落とすことになり、戦略的に非常に不利な立場に陥った。
8月25日、信長が三好三人衆・石山本願寺討伐のために摂津国に出兵(野田城・福島城の戦い)している隙をついて、義景は自ら出陣し、浅井軍と共同して、9月20日に織田領の近江坂本に侵攻する。そして、信長の弟・織田信治と重臣・森可成を敗死に追い込んだ。さらに、大津で焼き働きし、9月21日には醍醐・山科に進駐した。
しかし、信長が軍を近江に引き返してきたため、比叡山に立て籠もって織田軍と対峙する(志賀の陣)。このとき、信長は比叡山に自らに味方するよう求めたが無視された。
10月20日に織田・朝倉間で小規模な戦闘があり、信長は義景に日時を定めての決戦を求めたが義景は無視した(『言継卿記』『尋憲記』『信長公記』)。11月25日、信長は義景の退路を断つために堅田に別軍を送った。11月26日に朝倉・織田間で合戦になり痛み分けとなる。
11月28日、足利義昭・二条晴良らが坂本に下向して和睦の調停を行なった。さらに、信長は朝廷へ工作を行なったため、12月に信長と義景は勅命講和することになる。なおこの勅命講和の対象が延暦寺だけに限定されていたとする指摘もある。
元亀2年(1571年)1月、信長は秀吉に命じて越前や近江間の交通を遮断・妨害した。6月11日、義景は顕如と和睦し、顕如の子・教如と娘の婚約を成立させた(『顕如上人御書札案留』)。7月に六角承禎が京都に侵攻しようとした際には、洛中で放火などしないようにという書状を送っている(『田川左五郎氏所蔵文書』)。8月、義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが、逆に信長に兵站を脅かされて敗退した。この後、信長は前年に朝倉に協力した比叡山を焼き討ちした。
元亀3年(1572年)7月、信長は小谷城を包囲し、虎御前山・八相山・宮部の各砦を整備しはじめた。これを見た浅井氏は朝倉氏に「長島一向一揆が尾張と美濃の間を封鎖したので、今出馬してくれれば織田軍を討ち果たせる」と虚報を伝え、義景はこれを信じて支援に赴いた。しかし、義景は攻勢には出ず、織田軍から散発的な攻撃を受けると、前波吉継や富田長繁ら有力家臣が信長方に寝返った。
9月には砦が完成。信長は再び日時を決めての決戦を申し入れてきたが、義景はまた無視した。9月16日、信長は砦に木下秀吉を残し、横山城へと兵を引いた。
10月、甲斐国の武田信玄が西上作戦を開始し、遠江・三河方面へ侵攻し、徳川軍は次々と城を奪われた。この出兵の際、信玄は義景に対して協力を求めている。これを受けて信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共同で打って出たが、虎御前山砦の羽柴隊に敗退。
12月3日、義景は部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退してしまい、そのため信玄から激しい非難を込めた文章を送りつけられる(伊能文書)。
元亀4年(1573年)2月16日、信玄は顕如に対して義景の撤兵に対する恨み言を述べながらも再度の出兵を求め、顕如もまた義景の出兵を求めている。
3月、義昭が正式に信長と絶縁すると、義景の上洛の噂もあったというが(耶蘇会日本年報)、義景は動かなかった。
4月12日、朝倉氏にとって同盟者であった武田信玄が陣中で病死し、武田軍は甲斐に引き揚げた。このため、信長は織田軍の主力を朝倉家に向けることが可能になった。
天正元年(1573年)8月8日、信長は3万の軍を率いて近江に侵攻する。これに対して、義景も軍を率いて出陣しようとするが、数々の失態を犯し重ねてきた義景はすでに家臣の信頼を失いつつあり、「疲労で出陣できない」として朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが義景の出陣命令を拒否する。このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣した。
8月12日、信長は暴風雨を利用して自ら朝倉方の砦である大嶽砦を攻める。信長の奇襲により、朝倉軍は敗退して砦から追われてしまう。
8月13日、丁野山砦が陥落し、義景は長政と連携を取り合うことが不可能になった。このため、義景は越前への撤兵を決断する。ところが信長は義景の撤退を予測していたため、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍の追撃を受けることになる。この田部山の戦いで朝倉軍は敗退し、柳瀬に逃走した。
信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂において織田軍に追いつかれ、壊滅的な被害を受けてしまう。義景自身は疋壇城に逃げ込んだが、この戦いで斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延らの武将が戦死した。
義景は疋壇城から逃走して一乗谷を目指したが、この間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。
8月15日、義景は一乗谷に帰還した。ところが朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半は逃走してしまっていた。義景が出陣命令を出しても、朝倉景鏡以外は出陣してさえ来なかった。
このため、義景は自害しようとしたが、近臣の鳥居・高橋に止められたという。
8月16日、義景は景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄し、越前大野の洞雲寺に逃れた。
8月17日、平泉寺の僧兵に援軍を要請する。しかし、信長の調略を受けていた平泉寺は義景の要請に応じずに、洞雲寺を逆に襲ったため、義景は8月19日夕刻、景鏡の防備の不安ありとの勧めから賢松寺に逃れた。
一方、8月18日に信長率いる織田軍は柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、居館や神社仏閣などを放火した。この放火は三日三晩続いたのである。
従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていた義景であったが、8月20日早朝、その景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃した。ここに至って、義景は自刃を遂げた。享年41。
これが史実の義景の生涯だ。
浅井長政を蘇生させ、信長を倒すのが義景の狙いだ。
『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える。
古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている。
7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した。
大宝2年(702年)8月1日に起こった薩摩・多褹の叛乱を契機に、同年、日向国を割いて唱更国・多褹国が分立した。
その流れの中で和銅6年(713年)4月3日、日向国の肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡、現在の鹿児島県本土の東部が大隅国として分立したのが、大隅国の始まりとされる。
数年の内に、囎唹郡を割いて桑原郡(姶良郡湧水町周辺)が、天平勝宝7年(755年)にさらに囎唹郡を割いて菱苅郡(現在の伊佐市周辺)が設けられ、六郡となる。
天長元年(824年)10月1日に、現在の屋久島と種子島にあたる多禰国をあわせた。この際、四郡あった多禰国の郡は二郡に統合され、結果大隅国は八郡となる。
平安時代には荘園の進展で姶羅郡(現在の鹿屋市周辺。現在の姶良郡は別)がその実を失い、肝属郡に編入されたとみられる。
令制国が成立する以前は
当時はそのような隼人首長の
養老4年(720年)に隼人は大隅守陽侯史麻呂を殺害し律令国家の支配に対して反乱を起こした。大和朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、この抵抗を鎮圧する。この反乱を受けて囎唹郡はさらに分割され隼人の管理は徹底された。その結果、奈良時代中期から後期には大隅の支配は安定し、延暦19年(800年)には他地域同様に班田制も導入され、律令制による支配が定着した。
しかし、隼人の同化が進んだ一方で平安中期には南島人が侵入してきたり、一方で寛弘4年(1007年)大隅守菅野重忠が太宰府府官大蔵満高に射殺され、長元2年(1029年)にはこれも太宰府大監で島津荘の開発者であった平季基が大隅国衙を焼討し、国衙支配が壊滅的打撃を受けるなど管轄内の諸国に対する介入の度合いを強める太宰府との激しい対立があり、その背景には南島との交易利権の管掌が絡んでいた。
こうした情勢の中で、それまで国の中心となる神社であった鹿児島神宮に八幡神を勧請して、九州五所別宮となる正八幡宮が成立している。
平季基は賄賂を駆使し、また藤原頼通に島津荘を寄進することで身の安泰を図り特段処罰を受けることもなく現地に住み着いたので、さらなる領域拡張を続け国衙領を削り取る島津荘とそれに対抗して正八幡宮の権威を活用する大隅国衙との対立関係は続き、国土は実質的に島津荘と正八幡宮領に二分されていった。
大隅国分寺跡に酔象はやって来た。
霧島の国分市街地北部の南に開けた微高地上に位置する。聖武天皇の詔で創建された国分僧寺の遺構に比定され、付近では国分尼寺跡も想定される(所在地未詳:隼人塚付近説や府中石園付近説)。近世以来の開発等で遺構の多くが失われているため、寺域・伽藍は未だ詳らかでない。現在は層塔・仁王像等のみを遺存し、これらや出土古瓦の様相から国分寺跡であることは確かとされる。
寺域の想定中心域は1921年(大正10年)に国の史跡に指定されている。なお付近では大隅国府跡の存在も推定される。
伽藍で酔象は化け物と対峙していた。
化け物はガラッパだ。
川辺に住み、頭に皿があり、春と秋に山と川を行き来するといわれていることなどは、河童と共通している。
目に見えずに声や音だけが聞こえる正体不明の化け物とも言われている。特定の人にしか見えないともいう。酔象にはヒョーヒョーという声が聞こえた。
一般の河童より手足が長い。
悪戯が大好きで、山中で驚いたり道に迷ったりするのはすべてガラッパの仕業とされる。
人間から理不尽な攻撃を受けた場合は必ず仕返しをしたと伝えられている。山でガラッパの悪口を言うと必ず仕返しされ、特に悪口を言った者が靴を履かずに裸足だった際には、その悪口は数kmまで離れたガラッパの耳にも届くという。
悪戯好きの反面、恩義を忘れない性格とされる。熊本県では、川で悪さをしたガラッパをある者が懲らしめ、もう悪さはしないよう言い聞かせた上で許して逃がしてあげたところ、その川では水難が起きなくなったという。
また、かつてガランデンドンというガラッパの神が、鹿児島の神社でガラッパたちを集めて悪事を働かないよう説得し、戒めの文字を石に刻み、その石がある限りガラッパは悪さができないとされている。
人間の仕事を手伝う話も多い。熊本には薬売りに膏薬の作り方を教えた話や、魚採りを手伝ってくれる話がある。特に魚については、ガラッパと友達になることで面白いように魚が沢山取れるという。また鹿児島の薩摩川内市では、田植えを手伝った話が残されている。
一般の河童に増して女好きであり、鹿児島の伊佐郡などでは、ガラッパが人間の色気に惑わされて川に落ちたという、「河童の川流れ」ならぬ「ガラッパの川流れ」の伝承がある。
「橋本マナミって知ってっか?色っぽいぞ」
ガラッパは平成や令和にタイムトラベルしたことがある。
鹿児島の熊毛郡屋久島町では、ガラッパに犯されて妊娠した女の話が伝わっており、その女は胎内のガラッパに肝を食べられたため、やがて死んでしまったという。産まれた子は焼き殺されそうとしていたところ、どこかへ消えたという。
種子島には、ガラッパに相撲を挑まれた子供の逸話がある。その子供はガラッパを投げ飛ばしたものの、次から次へとガラッパが現れ、何度投げ飛ばしてもきりがない。遂に相撲に負けた子供は、妙な色を口に塗られて家に帰り、長い間目を覚まさなかったという。
薩摩川内市の五代町では、何日もガラッパの相撲につきあっていた者が、やがて病気になって死んでしまったとも伝えられている。
酔象は
ガラッパは焼け死んだ。
「どことなく光秀に似ておる」
酔象は尾張のうつけに寝返った
大門は島津氏に鞍替えした。宵闇の森を彷徨っていたら吹き矢を肩が刺さった。
刺客は
弘治3年(1557年)4月15日に蒲生氏、菱刈氏との戦いの際に初陣を果たし、その際に首級も上げた。永禄4年(1561年)7月12日の廻坂の戦いにおいても首級を上げ、島津義久より槍を賜っている。
永禄7年(1564年)、島津義弘に従い真幸院飯野へと移る。天正4年(1576年)、伊東氏の高原城が落城、三ツ山城も島津に降ると、真賢は三ツ山地頭代及び足軽大将へ任じられ20年以上、三ツ山城でそれを務めた。天正6年(1578年)、久留木康辰、和田円覚院、花堂大円坊と共に、高原城落城後に伊東義祐により霧島山東御在所権現宮座主に任じられていた民部郷秀澄を、命により誅殺している(島津氏は日向国を支配したおり、島津氏を調伏していた伊東側の僧に対し誅殺、追放などを行っている)。また一方で、肥後国皆越城などへ忍び入り、諸所への工作等の山潜り(島津家での隠密行為の意)も務めている。
その後も義弘に従い、肥後攻めや豊後国攻めに従軍、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定の際は、菅迫城に入り番をしていた伊集院三河守、犬童頼安らを退却させるべく、小林衆50人を率いてこれを成し遂げ、且つその通路を塞いでいた敵を退け、三河守、頼安らを無事に生還させている。慶長6年(1601年)、蒲生新城が普請されると、真賢は新城へ移り10年間程城の番を務め50石を加増される。
寛永10年(1633年)に病死、享年92。
「お主、何奴!?」
「島津のお館様に仕えたくやって来た次第にございます」
「そうなのか?怪我を負わせてしまってすまんな?」
島津義弘は天文4年7月23日(1535年8月21日)、島津貴久の次男として生まれた。はじめ忠平と称したが、後に室町幕府15代将軍・足利義昭から偏諱を賜って義珍(よしたか)と改め、さらに義弘と改めた。
天文23年(1554年)、父と共に大隅国西部の祁答院良重・入来院重嗣・蒲生範清・菱刈重豊などの連合軍と岩剣城にて戦い、初陣を飾る。弘治3年(1557年)、大隅国の蒲生氏を攻めた際に初めて敵の首級を挙げた。だがこの時、義弘も5本の矢を受け重傷を負った。
永禄3年3月19日(1560年4月24日)、日向国の伊東義祐の攻撃に困惑する飫肥の島津忠親を救う意味で、その養子となって飫肥城に入った。しかし永禄5年(1562年)、薩摩国の本家が肝付氏の激しい攻撃にさらされるようになると帰還せざるをえなくなり、義弘不在の飫肥城は陥落、養子縁組も白紙となった。
北原氏の領地が伊東義祐に奪われたため島津氏はそれを取り返すために助力したが、北原氏内部での離反者が相次いだため義弘が真幸院を任されることとなり、これ以降は飯野城を居城とすることになる。
永禄9年(1566年)、伊東義祐が飯野城攻略のために三ツ山城を建設中と聞き及ぶと、兄・義久、弟・歳久と共にこの完成前に攻め落とそうとするが、城は落とせずまた伊東の援軍と挟み撃ちにあい、義弘も重傷を負って撤退を余儀なくされた。
義久が家督を継ぐと兄を補佐し、元亀3年(1572年)、木崎原の戦いでは伊東義祐が3,000の大軍を率いて攻めてきたのに対して300の寡兵で奇襲、これを打ち破るなど勇猛ぶりを発揮して島津氏の勢力拡大に貢献した。
大門は鎌槍を逆さにした。鎌槍は
誰の城なのかは分からない。
不思議な液体が入った瓶を手に入れた。気配がしたので逃げた。
12月9日
中国海警局の4隻が尖閣諸島周辺の領海に侵入。
今川学園の
佐沼帝国の幹部となり潜水艦に乗り込み、中国に向かった。
武漢の市街地でマサカリ投法で手榴弾をマーケットや民家に投げた。💥
12月10日
政府がドローン(小型無人機)の操縦に関する免許制度を創設する方針を決定。
12月末までに中国に返還される予定だった上野動物園のジャイアントパンダのシャンシャンの返還が、2021年5月末まで延期されることが決定した。パンダの輸送に同行する専門のスタッフが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で中国まで同行することが難しいと判断したため。
大門は茶色に濁った川を泳いでいた。
豊後の
目を覚ますと令和の霧島に戻っていた。
💀残り16人
弥勒の家にやって来た。喉が渇いたので大友アジトで見つけた不思議な液体を飲んだ。大門は透明になった。
千鳥足で丸坊主の男が現れた。弥勒だった。
大門は鎌槍で弥勒を串刺しにした。
💀残り15人
12月14日
新型コロナウイルスの感染再拡大に伴い、僕は『犯罪者狩り』を全国各地で一斉停止する方針を固めた。万引き犯であろうが、殺人犯だろうが殺した者に1人、10万円を渡すという催し物だだ。
期日は12月28日から2021年1月11日までの予定。
『プルート』の社長、
家族皆が変人奇人で有名な奈良家で、盲目で聾唖の長女の
事件解決に乗り出した福井県警の
12月16日
化粧品やサプリメントの通信販売を手掛けるギルド社の会長が自社のオンラインショップのサイト上で、競合他社や当該企業のテレビショッピングに出演しているタレントを「CMタレントはほぼ全員コリアン系」などと差別投稿していたことが判明。 Twitter上ではギルドの製品を不買する旨のハッシュタグが付けられる事態にまで発展した。ギルド広報部は共同通信社の取材に「お話しすることは特にない」としている。
福山市で孤独に生きる大門は、プロの殺し屋として、コンビニの店主の
16日の夜、ジョギング帰りの大門は、アパートの隣室に住む少年、
幼稚園のときは蹴飛ばされたりして、小学校のときは無視され、中学校のときはイタ電され、高校のときは虫を給食に入れられ、自衛官になってからは棒で殴られた。
夜遅く、柴田たちは雅彦をイジメにやってくるが、覚醒剤中毒者の
開き直った柴田は、新田からハンドガンで頭を撃たれて死んだ。高野や佐藤賢も死んだ。
家族と買い物に出掛け、運良く難を逃れていた雅彦は、とっさに隣室の大門に助けを求め、大門は彼を保護する。
大門は雅彦とスマホのアプリ、『ポケカラ』で遊んだ。「コロナでカラオケに行けないから便利だな?」と、大門。
「うん、浅間さん歌うまいね?」
雅彦は新田が仕返しに来ないか不安だった。
大門はLiSAの『紅蓮華』がSSだった。
雅彦は愛犬の復讐のため殺しの技術を教えてほしいと大門に願い出る。
「『蘇る金狼』みたいに派手にやりたいな?」
「雅彦って17歳だったよな?アレって1970年代に流行った奴だぞ?」
「親父が松田優作の大ファンなんだ」
暗殺技術を伝授することをためらう大門だったが、新田たちを殺せばポイントを稼げると思い、大門は雅彦に戦術の初歩を伝授し、ナイフ術やロープで首を絞める方法、毒薬の扱い方を覚える。
18日、大門は新田の父親が麻薬取締局の捜査官であることを突き止める。横流しされたシャブで父親もラリっていた。
単身でPokemon GOをやりながら、新田邸前の電信柱に隠れていた雅彦だったが、新田に早々に察知され逆に捕まってしまう雅彦。
嫌な予感を感じた、大門は透明人間になって新田邸にやって来た。
ナイフで腕に傷をつけられ、泣き叫ぶ雅彦を助け出す。大門は効果音アプリで『サイレン』を流した。新田たちは逃げていく。その中の1人、豚みたいに太った
💀残り14人
一方新田は、森配下の殺し屋が仲間の捜査官を殺害しているのだと目星をつけ、森を詰問しに出向く。実は新田こそが、今まで森を仲介役に浅間に殺しを依頼してきた元締めであった。
全ては浅間の仕業であると確信した新田は19日の朝、部下を総動員して浅間の住むアパートに突入。雅彦は交番に駆け込む。大門は激しい銃撃戦を掻い潜り、外に逃げた。透明なので新田たちは狼狽した。結果、新田は3人の配下を失った。
💀残り11人
同日、山下埠頭で、「GUNDAM FACTORY YOKOHAMA」として動く実物大ガンダム(18m)の一般公開が開始された(入場は日時指定の有料チケット販売制、2022年3月まで開催予定)。
晴之だけじゃなくて全員が憎かった。
元介護士なので日奈子は手話を使えた。
真紀子はIQが170もある。真っ先に殺さなければと思った。だが、彼女は悪運が強かった。
康彦は『鬼滅の刃』中毒症で、日奈子を
もしかしたら、蘭子が1番憎かったかもしれない。
日奈子は夕方、You Tubeでミスター・ビーンを観ていた鰐淵に「私がやった」と告白した。暖炉の火がパチパチ音を立てていた。
コロナに感染したくないのでサーモを持参していた。家族で鍋をつついて感染死するってニュースでやっていた。鰐淵はアールグレイティーを味わっていた。日奈子は飲み物に毒を入れてたが、鰐淵は回避した。
「絵本の鰐みたくならなくてよかったわね?」
日奈子は捨て台詞を残した。
12月22日
フジテレビで放送されていたテレビ番組に出演中の今年5月に自殺した女優の
💀残り10人
奔放党所属の田臥衆議院議員が広島県の鶏卵生産大手「サヌマフーズ」グループ元代表からの現金提供疑惑の責任を取り議員辞職。
霧子の父親、
山を1つ隔てた場所に存在する甲賀流と異なる点は、甲賀忍者が1人の主君に忠義を尽くすのに対し、伊賀忍者は金銭による契約以上の関わりを雇い主との間に持たない点であるとされる。伊賀郷士はしばしば雇い主が敵同士の場合でも、依頼があれば双方に忍者を派遣する実例をも持つ。そのため他の郷の忍者よりも一層、たとえ仲間であろうと即座に処断できるような厳酷な精神も求められた。「抜忍成敗」はその極みとも言うべきもので、裏切りや脱走はいかなることがあっても認めないというものである。しかし、江戸時代になると状況は一変し、無足の俸禄支給の経費を節減するため、むしろ忍者を抜けて帰農することが歓迎されたようである。
また、伊賀流の訓練法は独特さをもって知られており、例えば顔の半分を紙で覆い、紙を顔から落とすことなく1里以上を走りぬく等、幼少の頃から厳しい訓練のもと、優れた忍者を育てることを伝統としてきた。このため、伊賀忍者は体術に優れていると評された。
鎌倉時代から室町時代にかけて、伊賀国は小領主が群雄割拠し争っていた。そのため、民は自らを守るためゲリラ戦の技を磨いていった。これが伊賀の忍者の起こりとされる。
伊賀は古琵琶湖層に由来する粘土質の土壌のため、農耕に苦労する土地柄であった。特に、渇水になると深いひびが入り、水田は壊滅的打撃を受ける。そのため、伊賀の者は傭兵として各地に出稼ぎをするようになった。
戦国時代、伊賀は伊賀守護・仁木氏の傘下に属しながらも、「伊賀惣国一揆」と呼ばれる合議制の強い自治共同体が形成されていた。しかし、実力者である上忍三家(服部・百地・藤林)の発言力が強く、合議を開いても彼らの意見に従うことが多かった。逆に甲賀は「惣」と呼ばれる自治共同体を形成していたが、各々が対等な立場にあったために多数決の原理を重んじ、「伊賀惣国一揆」の運営ぶりとは対照的であった。
一般的には伊賀と甲賀は互いに相容れない宿敵同士というイメージがあるが、これは誤解であり、一つ山を挟んだ言わば隣人同士で争いあっても何の得も無い。むしろ、伊賀の人々と甲賀の人々は常に協力関係にあり、どちらかの土地に敵が攻め込んだ場合は力を合わせて敵を退けるよう約束していた。
昭和時代からやって来たのは35年前だ。あのとき、まだ信乃は25歳だった。70歳になるんだから、足腰が痛いわけだ。
まだ、あのときは1541年だった。
7月7日(天文10年6月14日) - 武田晴信、父信虎を駿河に追放し家督を相続。
◎武田八幡宮竣工。
◎ポルトガル船が豊後国に漂着し、領主の大友宗麟にカボチャの種が贈られる。
◎吉田郡山城の戦いで尼子軍が敗北し安芸から撤退。
◎大内氏が厳島神主家藤原氏を滅ぼす。
◎佐東銀山城の戦いにより安芸武田氏が滅亡。
など、いろんなことがあった。
1985年
日米貿易摩擦の深刻化を打破するためプラザ合意が結ばれ、この年は円高不況となった。しかし同時にこれは翌年以降のバブル景気の契機ともなる。
いちご大福(玉屋)やのど飴(ロッテ)といったその後メーカーの壁を超えて市民権を得ていく商品が登場した。
携帯電話の先駆けとなるショルダーフォン(NTT)が登場し、話題を集めたが携帯性の低さから普及には至らなかった。
いじめ問題が深刻化、この年は「いじめ自殺元年」といわれた。
眉を太く描くメイクが流行したほか、ペイズリー柄が再人気を呼んだ。またコンサバと呼ばれる保守的なファッションがトレンドとなった。
ファミコン用ソフト『スーパーマリオブラザーズ』が発売され空前の大ヒットを記録、社会現象となる。
12月23日
中国海警局の2隻が尖閣諸島周辺の領海に侵入し、日本の漁船に近づこうとした。
勝男は今川学園出身だ。いじめにあっていたが先生たちは知らんぷり。友人なんか先生に『おまえなんかバカ大学なんかイケネー、10万渡せば推薦してやってもいい』と、
勝男は木枯らしの吹く道を歩いていた。
「やきい〜も、いし〜や〜き〜も〜」と、石焼き芋さんの軽トラが通り過ぎる。
勝男は教員免許を持っていた。だが、試験に受からずに夢は叶わなかった。
バズーカを持って学園にやって来た。カラスがカ〜カ〜鳴きながら塒に返っていく。
黒マスクをした教員たちが職員室の窓から勝男を見ていた。その中には澤もいた。あの頃は新米だったが、白髪が目立つようになった。
「佐沼!気でも狂ったか!」
勝男は職員室めがけてバズーカをぶっ放した。
無反動砲同様、後方爆風(バックブラスト)が発生するため発射器の後方に物や壁があってはいけないことと、仰角を付け過ぎると射手後方の土砂などが吹き飛ばされ危険なこと、後方爆風によって巻き上がる土煙で射手の位置を容易に特定されてしまうなどの運用面の弱点が存在する。また、ロケット弾は発射と同時に後方に燃焼炎と燃え滓を噴射するのも難点の一つで、狭い場所では運用者と周辺の人員が負傷する恐れがあった。
校庭はバズーカをぶっ放すにはもってこいの場所だった。澤のほか多数の死者が出た。
12月24日
琵琶湖の畔には鉄壁の牢獄、女子刑務所があった。そこに入所してきた頭脳優秀な千坂日奈子は脱獄の方法を考えていたが、ある日通気口から外へ出られるという話を聞き、独房の小さい通気口への入り口を大きくしてそこから独房の外へ出て、脱出する手段を思いつく。
「クリスマスか、横浜流星みたいなカッコい彼いないかな?」
同じ頃、刑務所内で知り合った囚人、
日奈子は仲間たちが集めた道具を用いて独房の通気口を取り外すことに成功する。呆気にとられた刑務官たちが次々に気絶していく。
「呪いかな?」と、仲間の霧子。
「催眠ガスかも」
日奈子は。仲間たちがそれぞれ自分の独房の通気口を取り外すのを横目で見ていた。
突然、霧子の首がスッパリと切れ落ちた。
大門は薬を飲んで透明になり、玉恵に憑依した。ワイヤーの切れ味はナカナカだ。血が滴り落ちる。
玉恵は足元に転がってきた霧子の首を、サッカーボールみたく蹴った。
霧子は酔っては殴ったり蹴ったりする旦那を包丁を刺してここに来た。
大門は日奈子も殺めた。ゴリラとブタみたいな女囚も始末した。
💀残り6人
12月25日 - 『アウル社』はシステムの設定不備が原因でアウル市場、アウルカード、アウルEdyに登録されている約148万件の顧客情報が流出した可能性があると発表。
路面電車の窓の向こうに原爆ドームが見える。新田直人は八丁堀にあるおでん屋にやって来た。
鰹節と昆布でとった出汁に味を付け、種と呼ばれるさつまあげ・はんぺん・焼きちくわ・つみれ・蒟蒻・大根・芋・がんもどき・ちくわ・すじ(牛すじ)・ゆで卵、厚揚げ、その他いろいろな具材を入れて、長時間煮込む。おでん種、つけだれの種類は地域や家庭によって異なる。
「おでん」は元々、田楽を意味する女房言葉である。田楽、もしくは味噌田楽は室町時代に出現した料理で、種を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、種を茹でた「煮込み田楽」があった。江戸時代になって「おでん」は「煮込み田楽」を指すようになり、「田楽」は「焼き田楽」を指すようになった。
「北の労働者は残業が少し増えても弱音を吐かない。中東にいつかおまえを連れてってやりたい。北の連中は偽札づくりなどもやっている。北は外貨獲得の手段に、麻薬を使っている。医療用のものだがな。アメリカは北のヤクが中国経由で出回ってる。けど、米中の関係は過去最悪だからな。最近じゃ、中国抜きでアメリカと取引してる」
父親は11月くらいに言っていた。
「卵に大根、それにはんぺん」
「兄ちゃん、若いのに渋いね?」
コロナのせいで客は直人しかいない。
📻『只今入って来たニュースです。稲荷町駅近くにあ住宅街で殺人事件が起きました。殺されたのは
「親父」
直人は路面電車に乗り、稲荷町駅を目指した。
家の前にやって来るとツートンカラーや覆面パトカーが停まっており、立入禁止のロープが張り巡らされていた。
「もしかして息子さんですか?」
トレンチコートを着た若手の刑事が走り寄ってきた。
「そうですが」
「お気の毒ですが、お父様が殺されました」
彼は広島県警刑事部の
父は玄関先で首をスッパリと切り落とされていたらしい。
浅間の仕業だ。次の瞬間、直人の首が切り落ちた。
「怪奇現象だ!」
姉小路は腰を抜かした。
「神野の仕業かも知れない」
💀残り4人
12月26日
中国海警局の2隻が尖閣諸島周辺の領海に侵入し、日本の漁船に近づこうとした。
大門は透明人間になり、広島県警に向かった。資料室に入り、前科者のリストを調べた。
12月27日
同日20時、福山市にある豪邸で祖母の
達也、夏樹、春馬の3兄弟は15年前に、リンチを行い、ホームレスを殺していた。当時、それぞれ17、16、14だった。
その後、父親が浴室内で倒れている達也と春馬を発見した。
💀残り2人
大門は夏樹を見つけられずにいた。
悪運の強い奴だ。
もう、あまり時間がない。
12月28日
鹿児島県の諏訪之瀬島で午前2時48分ごろ爆発的な噴火が発生し、気象庁は 「噴火速報」を発表した。気象庁は噴火警戒レベルを2から3に引き上げ、御岳火口からおおむね2キロの範囲で大きな噴石に警戒するよう呼びかけた。
変異した新型コロナウイルスが世界各国で相次いで確認されている状況を受けて、新たな国内侵入を阻止するため、全ての国と地域を対象に外国人の日本への新規入国を一時停止。
吾峠呼世晴による漫画『鬼滅の刃』を原作とする劇場アニメ『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』が、公開から73日目にあたる12月27日の時点で興行収入が約324億円に達したことを配給元の東宝などが発表。2001年に公開された『千と千尋の神隠し』の約316億円を抜き、日本歴代興行収入ランキングにおいて歴代1位となった。
尾道の自動車工場グールのベテラン整備士の
その日の朝、家では出勤前の康弘が出産を控える妻の香美を励ました。
「今日で仕事納めだ。具合が悪くなったら遠慮なく電話しろ」
「ありがと」
康弘は職場へと向かう。その夜工場近くの尾道港では、タレコミ情報を得た
帰宅した康弘は、香美の用意した豪華な夕食を楽しみ彼女をベッドに誘う。ガキ使も今年はやらないと思った。マスクしてたら笑ってるか笑ってないか分からない。年末くらいマスクしないで大声で笑いたい。
翌日、雷電らはタレコミ屋から取引現場の住所を聞き、夜その取引現場に行く。しかし彼らが乗り込んだのは間中邸で、康弘は香美のお腹をソファで菜出ていた。
雷電はどんな鍵でも開ける秘密の道具で侵入した。
雷電は警察に通報しようとスマホに手を伸ばした。⚡バチバチと電流が放たれた。雷電はスタンガンで間中を気絶させた。
和戸はダガーナイフで香美の命を奪った。
そして、雷電らは家中を調べるが麻薬は見つからず、確認すると和戸が雷電に伝えた住所がタレコミ屋の情報とは違っていたことが判明する。
「バカ野郎」
雷電は和戸の背中を蹴った。
一般市民の家に誤って突入した上に住人を撃ったことがばれて経歴に傷がつくことを恐れた2人は、港の取引現場から盗んだ麻薬を使い証拠を偽って、気絶してる康弘の手にナイフを握らせる。
意識を取り戻し、妻と子供の命を奪われたことを知った康弘は号泣する。
12月31日
第71回NHK紅白歌合戦が行われる。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、「紅白歌合戦」として放送を始めた1951年(昭和26年)以来初めての無観客開催となった。 NHKホールでは客席を一部除いてステージを拡大、NHK放送センターの大型スタジオを歌唱会場にするなど、例年にない演出がなされた。
男性アイドルグループ・嵐がこの日をもって無期限で活動を休止。
男女混合パフォーマンスグループ・AAAがこの日をもって無期限で活動を休止。
女性ダンス&ボーカルグループ・E-girlsがこの日をもってグループを解散。
坂の上にある火葬場で康弘は煙を見つめていた。泣く気力すらなかった。
幽霊となった香美は、JR尾道駅から延びるレトロな商店街を彷徨っていた。
「何で死んだんだ?」
トレンチコートを着た若い男に声をかけられた。
「私が見えるの?」
「あぁ」
「雷電と和戸って奴らに殺されたの」
亡くなる前はさほど頭は良くなかった香美だったが、幽霊になってIQが200になった。馬鹿は死ななきゃ治らないとか、よく言うが本当だった。
大門は鎌槍を手に広島駅新幹線口からすぐにある、オシャレなレストランにやって来た。アンティークなソファや豪華なシャンデリアが華を添えている。
雷電は美しい女性とディナーをしていた。
「ちょっとトイレに行ってくる」
雷電が立ち上がり、大門の前にやって来た。透明なので雷電からは見えない。
大門は鎌槍で突き刺した。
プシューッ!鮮血が飛び散り、雷電は絶命した。
💀残り1人
和戸は佐沼帝国にやって来た。
この腐りきった国を潰す!
和戸の妹はコンビニでおにぎりを万引きした。
太った店員にボーガンで体を射抜かれて死んだ。
店員は賞金を手に入れ、何のお咎めもなかった。
G-SHOCKを見た。23:45
もう、今年も終わりだ。
桟橋を渡っていると、どこからともなく槍が飛んで来て和戸の体を貫いた。
「グブゥ……」
大門は体が溶けていくのを感じた。
嗚呼、これですべて終わるのだな……。
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