第6話 God!
5月7日
新型コロナウイルス感染症の治療薬として、抗ウイルス薬レムデシビルが承認された。通常は医薬品の承認申請から実際に承認されるまでは1年程度を要するが、今回は医薬品医療機器法の特例承認の制度を使い、申請からわずか3日というスピード承認となった。
5月8日
コロナが蔓延してひまわり公園に入れなくなった。勝男は『ホワイトブレイド』って位置ゲームで遊んでいた。勇者は星5つの企業や娯楽施設をより多く周り、白い玉を300集めるとラスボスと戦うことが出来るようになる。ひまわり公園は星5つの公園だったので残念だった。
今でこそレベル7になり、魔法もいろいろ覚えたが最初の頃は星1つの敵と戦うのも大変だった。
ひまわり公園は壬生町内にある。
越前一向一揆を平定して久々に元の世界に戻った。琵琶湖のすぐ近くにデカい穴が現れたので飛び込んだ。
世界は一変していた。元号は平成から令和に変わり、マスクをした人間がたくさんいたので勝男は最初、街がテロリストに占領されたのだと思い込んだ。が、コロナという恐ろしい感染症のせいだった。故郷の壬生町に向かったが、親父の姿はなかった。壬生駅のすぐ近くで、親父のゴルフ仲間の
「スミマセン、父は?」
「もしかしたら勝男くんかい?」
傍らに堀秀政がいた。鎧兜の姿だったので辺見は「コスプレパーティーでもしてたのか?」と怪訝そうに言った。
勝男は戦国時代での話をしたが、「頭の病院に行った方がいい」と取り合わなかった。
「史郎さんは年末ジャンボに当たって大金を手にして、広島にある無人島を買い取って、そこの主になった」と、わけの分からないことを言った。
「アイツはこの国を救った」
3年前の7月、三次市で
三沢が睡眠導入剤を穂村に飲ませ、目黒が背後からロープで首を絞めた。矢沢は玄関で見張りをしていたが、死んだ思った穂村が息を吹き返し、猛スピードで逃げようとしたのでハンマーで頭を殴り殺した。
史郎は廃業して、借金を抱えていた。穂村邸に忍び込んだところ死体を発見。さらに池の中からポリ袋に入れられた炎龍を発見した。
史郎は各地に蔓延る妖怪を次々に倒した。
「あの女今頃、天国で何やってんのかな?」
三沢は穂村を殺したときのことを思い出して吐き気を催した。
「アイツは天国じゃなくて地獄に行ったんだ」と、目黒。
3人は吉良久美子が理事長を務める介護施設『あざみ園』で働いていた。安い給料で働かされ、駐車料金はかかり、ボーナスも退職金もなかった。
三沢は大卒だが、高卒待遇に落とされた。
「知ってるか?あざみの花言葉って『復讐』なんだぞ」
矢沢の頭の中は雑学で詰まっていた。
目黒は元レスラー、三沢は元薬剤師だった。
「安く使いやがって、香美も災難だったな」と、目黒。
三沢たちはスタチュークルーズに乗り込んで、デッキから殺そうとしたが目黒がビビったもんだから延期になった。香美って女の存在をクルーズ中に知った。罪をなすりつけるには最適だと言ったのは三沢だ。三沢は魔法を使えた。深夜の図書館内に久美子をワープさせ、三沢たちもワープして射殺した。
勝男は佐沼帝国に向かった。
帝国ではコロナを蔓延させた中国への侵略が計画されていた。
「父は昔は穏やかな性格だった。母が妖怪に殺されてから変わってしまった」
勝男は帝国に向かう途中、クルーザーを操縦しながら恋人の
陽子はランマルの営業マンだ。
勝男は小山市にある蘭丸電子に派遣されていた。
蘭丸電子株式会社は、日本の総合エレクトロニクスメーカーであり、総合ITベンダーである。ITサービス提供企業として売上高で国内1位、世界4位。通信システム、情報処理システムおよび電子デバイスの製造・販売ならびにそれらに関するサービスの提供を行っている。
今日は金曜の真夜中だ。日曜の昼には栃木に戻る予定だ。
僕は新しい妻の
「そいつは誰だ?」
「六角さんだよ」
六角若葉は都内にある
「あの野郎、何が不満なんだ?」
僕はしばらく六角を泳がせることに決めた。
チャイムが鳴った。モニターを見ると息子が映っていた。
「こんな時間に何のようだ?金でもせびりに来たのか?」
「そんなんじゃないよ」
「連絡もしないでどこに行ってたんだ?」
勝男は戦国時代に行っていたとワケの分からないことを言った。
「頭おかしくなったのか?」
「辺見さんにも同じことを言われた」
「帝国は散歩してみたかね?」
「妖怪を倒したことはスゴいと思う。けど、戦争はよくない」
「銀次がコロナで死んだんだぞ?」
銀次は勝男より3つ年下の弟だ。バンドをしてプラプラしていたが、中国での旅行の最中に罹患して呆気なく亡くなった。
勝男は呆然としていた。
ケンカもよくした。小学生のとき昼寝をして起きたらせっかく完成したガンプラをメチャクチャに壊された。ボコボコに殴った。けど、優しいところもあった。中学生のときイジメにあって不登校になって、部屋で泣いていたらハンカチを差し出して、一緒に泣いてくれた。
「うっ、嘘だろ……」
「中国を壊滅させるまで僕は死ねない」
同じ日、中国海警局の4隻が尖閣諸島周辺の領海に侵入。その内の2隻が日本の漁船を追尾した。
勝男は独立国家について考えてみた。
従属領域には、植民地、保護国のほか、国連信託統治領などがある。ただし、現在では国連信託統治領は全て、独立もしくは、信託統治を引き受けた国家との自由連合関係に移行している。後者を選択した自由連合国も未独立であるため、従属領域の1つであると言える。また、中華人民共和国に返還されながら、本土に編入されず、特別行政区となった香港やマカオも従属領域の1つである。なお、台湾については中華民国政府に不当に接収された領域であるとする台湾地位未定論もある。しかし、1990年代以降、中華民国の統治機構は台湾住民を有権者として民主化を果たしたため、現在も台湾が従属領域であるとは断言できない。
5月9日
「親父、戦争はやっぱりよくない。俺は戦国時代でたくさんの死体を見てきた」
朝食のとき、納豆をかき混ぜながら勝男が言った。
「冗談じゃなかったのか?」
僕はテレビをつけてニュースを見た。コロナは治まる気配はない。
勝男の隣で陽子がクシャミをした。
「マスクしてくれ」
勝男が怪訝そうな顔をした。
「マスクしながらご飯食べろっての?」
陽子は勝男に叱られ、勝男と中国に対し苛立ちを覚えた。
勝男は小谷城の戦いを思い出した。城内で浅井長政は自刃したものの、朝倉義景は逃亡した。
僕は史実の小谷城の戦いを思い出した。
元亀4年3月、信長包囲網の盟主・足利義昭が槇島城で挙兵。信長は和睦を申し出るが義昭は拒絶、4月に一度は和睦したが、7月に義昭が再挙兵すると戦闘に及び義昭を降伏させ、7月20日に義昭を放逐し(槇島城の戦い)、28日には元亀から天正に改元させた。更に8月8日、浅井家重臣の山本山城主阿閉貞征が織田方へ寝返ると、信長はこれを好機と見、3万の軍勢を率いて北近江への侵攻を開始、虎御前山の砦に本陣を布いた。
織田軍は背後に朝倉氏が控えていた事もあり無理に力攻めはしなかった。一方、浅井長政は居城の小谷城に5千の軍勢と共に籠城したが離反が相次ぎ、小谷城の孤立は益々強まっていく。浅井氏は朝倉氏への援軍要請しか手段が無く、その朝倉氏は朝倉家家中の一部から上がった反対の意見を押し切り、義景自ら2万の軍勢を率いて小谷城の北方まで進出する。
ところが朝倉軍は前哨戦で敗北した上、構築した城砦(大嶽砦など)を容易く失陥。このため撤退し始めるが、そこを織田軍に猛追され、壊滅的な敗北をこうむった(刀根坂の戦い)。義景は15日に一乗谷城に辿り着いたが、17日に織田軍は朝倉氏の居城一乗谷城を攻め焼き払ったため、最深部の大野郡の山田庄まで逃れ、ついに20日、朝倉景鏡の裏切りもあり、義景は自刃して朝倉氏は滅びた(一乗谷城の戦い)。
越前を制圧した信長は、織田軍の一部を越前での戦後処理に留めて小谷城へと引き返し、26日に虎御前山の本陣へ帰還すると、全軍に小谷城の総攻撃を命じた。翌27日、木下秀吉率いる3000の兵が夜半に長政の拠る本丸と長政の父・浅井久政が籠る小丸にとの間にある京極丸(兵600)を占拠した。この時、三田村定頼、海北綱親らは討死した。これで、父子を繋ぐ曲輪を分断することに成功した。やがて小丸への攻撃が激しくなり、800の兵を指揮していた久政は追い詰められて小丸にて、浅井惟安らと共に自害した。
その後、本丸(長政以下兵500)はしばらく持ちこたえ、長政はその間に嫡男万福丸に家臣を付けて城外へ逃がす。さらに正室のお市の方を3人の娘(浅井三姉妹)と共に織田軍に引き渡した。お市は兄・信長に対して夫の助命を嘆願すると、信長は袂を分かったとはいえ義弟である長政への最後の情けとして、大和一国を与える事を条件に降伏・再従順するよう勧告した。しかし長政は降伏を拒絶し、その後2日に渡り徹底抗戦を続けた。 9月1日、織田軍本隊を狙い、200の兵を率いて本丸から総攻撃に出た長政だったが、多勢に無勢であり、返り討ちに遭って部隊は総崩れとなる。命運尽きた事を悟った長政は撤退先の袖曲輪の赤尾屋敷内で重臣の赤尾清綱、弟の浅井政元らと共に自害して果て、まもなく本丸も制圧され、小谷城は遂に落城した。この日をもって、北近江の戦国大名浅井氏は亮政から3代で滅亡したのである。この時、長政に従っていた者の大半は自害または織田軍に一矢報いようとして討ち取られるなどしたが、雨森清貞は逃亡した。
金ヶ崎での裏切りもあり、信長の浅井氏への仕置きは苛烈を極めた。浅井久政・長政親子の首は京で獄門にされ、男系の万福丸は敦賀に潜伏していたところを捕らえられた後、関ヶ原で磔にされ、親族の浅井亮親、浅井井規、家臣の大野木秀俊も処刑された。浅見道西など、寝返った将も処分された。
また、長政・久政の頭蓋骨は義景のと共に薄濃にした。
この日も中国海警局の2隻が尖閣諸島周辺の領海に侵入。中国海警局の船は10日の20時20分ごろまで領海内を航行した。
5月12日 - この日までにハッシュタグ「#検察庁法改正案に抗議します」がTwitterで著名人を含む900万件以上ツイートされた。
佐沼帝国に住むカメラマンの
この日、いつも口喧嘩が絶えなかった中年男の
外出することのできない郡司に代わって貴恵が証拠を探ろうと動くが、彼女は無謀にも男の部屋に侵入し、それがもとで男は郡司が自分の犯行を知っていることを悟ってしまう。
郡司を殺そうと男が部屋にやって来て、ナイフを振り回すががすんでのところで陣内に逮捕され、郡司と貴恵には平和な日々が戻ってきたのだった。
5月17日 - ススキノラフィラってショッピングモール(札幌市)がこの日の営業をもって閉店。
海上保安官たちは殺人犯、
「嘘ついてるわけじゃねーよな!?」
銭形は、島の西にある佐沼署の取調室にて陣内刑事に問い詰められた。
「嘘なんかついてねー。ちゃんと探したのか!?」
「仙崎よりはレベルは低いが経験豊富な海保ばかりた」
「『海猿』なら俺も見ていたぞ」
大門はあの勇者を許せなかった。仲間の妖怪たちを次々に殺した。大門は三次市で『痔』ってコードネームの暗殺者を殺し、『痔』のボスである『ヅラ』によって全身をナイフで切り裂かれて殺された。
冥界の大王に、人間に戻りたいなら、悪人を20人殺せって言われた。大王は総理大臣みたいにコロコロ変わる。大門の過ごした地獄の王は
鴨は、幕末の水戸藩浪士、壬生浪士(新選組)の初代筆頭局長(頭取)。前名は下村嗣次(継次、嗣司、嗣治とも)と推定されている。諱は光幹で、本姓は桓武平氏繁盛流大掾氏とされるが、実際は出自、出生年に諸説があり、確定されていない。
鴨の前半生については不明なことが多い。
多賀郡松井村(現北茨城市中郷町松井)の神官下村祐の実子で、松井村の出生と言われる。石河幹修(明善)『石河明善日記』に「手綱領松井村神官次郎八の倅 次郎八百姓より神官御取立の者也」とあり下村嗣次は下村祐(次郎八)と親子関係であるとされている。嗣次には常親という子供がいたと言われるが、下村家位牌には祐の子供と記されていた。婿養子とする説もあるが根拠は見つかっていない。
新選組隊士の島田魁の書いた『英名録』の末尾には鴨の名前の右横に「又左(右)衛門子」とあり、水戸藩士の芹沢分家出身ともいわれ、日置流雪荷派弓術の名人・芹沢又衛門以幹の子だとする説も存在している。同家は以幹の次男で、後を継いだ芹沢平蔵義幹(前名は鴨と同じ光幹)の子供たちである又衛門孝幹、助次郎豪幹、亀三郎らの三名が、文久3年(1863年)3月、伊藤俊輔に伴われて上京していた。
永倉新八の「常州水戸の郷士で真壁郡芹沢村の産」、「芹沢村浪人」という表現から、室町時代に常陸国行方郡芹沢村(現茨城県行方市芹沢)に定着した豪族で、江戸時代初期には戦功により徳川家康の命によって行方郡富田村(現行方市富田)に知行百石を与えられ、後に水戸藩上席郷士(士分)となった芹沢家本家の出身で、芹沢外記貞幹の三男とする説がある。
しかし近年、芹沢外記の四男に文政7年(1824年)もしくは文政9年(1826年)出生で、新徴組に入り、後に天狗党に加わって元治元年(1864年)8月16日、那珂湊で戦死した長谷川庄七(諱は健久)の存在が確認された。鴨の生年は天保3年(1832年)とする説が有力であり、外記の三男だとすれば計算が合わない。系譜・宗門人別帳などの表記の仕方から長谷川庄七が芹沢貞幹の三男だとする説もある。
また、芹沢本家菩提寺の法眼寺過去帳に妻の名前が記された芹沢兵太がいる。兵太は外記の次男芹沢兵部成幹没後の慶応4年(1868年)時に芹沢家に所属していた人物であり、文化12年(1815年)から文政6年(1823年)の間に生まれた外記の三男とも言われている。
戸賀崎熊太郎から神道無念流剣術を学び、免許皆伝を受け師範代を務めたとされる。
下村嗣次は安政5年(1858年)より始まる戊午の密勅返納阻止運動に参加したと見られ、万延元年(1860年)頃、玉造勢に入ったと考えられる。玉造村の文武館(現茨城県行方市玉造)を拠点として横浜で攘夷を決行するため、豪商を周り、資金集めに奔走した。新見錦の前名とする説もある新家粂太郎が仲間にいた。玉造勢は「無二無三日本魂」「進思尽忠」と大書した幟を掲げて調練を行っていた。嗣次は佐原村(現千葉県香取市佐原)で押し借りを行い、名主伊能権之丞を鉄扇で殴打した。
しかし、常総間の水戸藩領や天領に於いて強引な手法を使って資金の取り立てを行ったことにより、代官の佐々木道太郎から幕府に上申が行われ、徳川慶篤は武田耕雲斎を江戸に呼び寄せて、在府の家臣と議論を行った結果、文久元年(1861年)2月9日、不法の者どもを召し捕らえ、場合によっては切り捨てても構わないという指令が下された。これを受けて、玉造勢の主要メンバーであった大津彦五郎らは玉造を退去して、宝幢院(現東茨城郡城里町)に移り、自訴を行うが、評定所に拘引され、後に細谷に新設された牢屋に移された。同時に下村、新家らにも捕縛令が下った。
同年3月28日、遊女いろ八(色橋)と芹沢外記邸にいたところを捕縛され、同日夜、赤沼獄に嗣次は入牢した。6月24日、水戸藩は激派よりの武田らの政務参与を辞めさせ、謹慎を命じ、厳罰派を家老に復帰させたことから、翌文久2年(1862年)9月16日に「引廻之上斬罪之所御大赦に付於牢屋斬罪梟首之事」との処分を受けたことが判明している。口述書を聞き取った一人に吉成勇太郎がいた。
11月21日、武田らが執政に復帰し、厳罰派が退けられた後、12月26日には慶篤から戊午の密勅を受納する旨を藩中一等に伝え、政治犯の釈放が行われた。
それでも甚だしい所業を省みて、なお水戸藩は下村らの釈放を躊躇していたが、翌文久3年(1863年)1月初旬には新家、同じく玉造勢の兜惣介らとともに嗣次は出獄することを許された。
芹沢鴨と同一人物であれば、これ以後に名を改めたものと考えられる。
約1か月後の2月5日、清河八郎の言論活動や、松平忠敏の周旋により江戸で結成された浪士組に新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助等を伴い参加し、六番組小頭に任命された。その際に江戸の剣術道場試衛館の近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助らも加わり、京都まで行動をともにする。
23日、京都に到着。芹沢は近藤一派とともに壬生の郷士・八木源之丞の屋敷に分宿した。その頃、将軍の警固のため上洛した浪士組を、真の尊王攘夷の先鋒とするため、創設者である清河八郎は、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にすることに成功した。29日、新徳寺に同志を集め攘夷の決行のため江戸帰還を宣言すると、芹沢と近藤はこれに反対し、京都残留を申し出て脱退。このときに残留を決めたのが芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だった。これに殿内義雄や根岸友山らも合流する。
3月10日、芹沢・近藤ら17人(24人ともいう)の連名で会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを「御預かり」とすることを決める。芹沢らは八木邸を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)この前後より「壬生浪士」と呼ばれ始めた。その際、内部抗争が起き、26日に殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。のちに芹沢・近藤・新見が局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となった。
25日、会津藩士本多四郎・小野八助・望月新平・諏訪伝三郎・佐久間悌二は吉田源次郎の案内で壬生を訪れ、芹沢らと初めて面会を果たした。踊ると浪士たちは述べ、会津藩士たちを見物に招待し、桟敷の上で菓子や土瓶に入れた酒肴を振る舞った。浪士たちは会津藩からの手当金で同色の単衣物を紋付きに仕立てた服を着用していた。芹沢は本多らに対して京を出立した清河八郎宛の生国(庄内)からの手紙が来たことを告げ、留守中なので開封したところ、「如何の儀」などがあったため、清河が国元を出入り禁止になったことを知った、と述べた。
4月、芹沢・近藤・新見らは大坂に下って今橋の平野屋五兵衛から百両を借用した。
5月24日、中山忠能邸に参上した正親町公董の話の中で、「有志士」として、今泉与一太郎と共に言及される。「芹沢カモ」と表記されており、名前の読み方が確定された史料でもある。翌25日には、同志全員の筆頭として松平容保に攘夷実行の上書を提出した。
6月3日、芹沢・近藤ら10人が「不逞浪士」取り締まりのため再び大坂へ下った。途中、すれ違った力士が道を譲らなかったため、芹沢らは暴行を加えた。その行為に怒った力士の仲間が駆けつけ乱闘となり力士側に死傷者が出た。小野川部屋の年寄が詫びを入れてことは収まったが、大坂町奉行所与力・内山彦次郎がこれを問題にして近藤を怒らせ、のちに新選組により暗殺されている。
同月、水口藩の公用方が壬生浪士は乱暴であると苦情を言ったことが会津藩を通して芹沢に知られ、激怒した芹沢は永倉新八・井上源三郎らを水口藩邸に派遣し、担当者を脅迫して謝罪させ、詫び証文を取った。詫び証文は担当者の独断で書かれたものであったため、ことの露見を恐れた公用方は詫び証文を取り返そうと人を介して芹沢を説得し、芹沢は詫び証文を返すこととなり、嶋原の角屋で宴会が開かれた。しかし酒乱の芹沢は大暴れをして店主の角屋徳右衛門に7日間の営業停止を一方的に申しつけている。
8月13日、一条通葭屋町下ル福大明神町の大和屋庄兵衛宅が壬生浪士に焼き討ちされた。西村兼文はこの指揮者を芹沢だとしている。
『七年史』所収の鈴木丹下「騒擾日記」によれば、八月十八日の政変に際して、御所の警備のために近藤とともに隊士を率いて出動するが、御門を固めていた会津藩士たちは壬生浪士を知らなかったため、槍を構えて通そうとしなかった。通せ通さぬと双方が押し問答となる中、芹沢は哄笑しながら歩み出たため藩兵が槍を突きつけると、愛用の鉄扇でその鋒を悠々と煽いだという。会津藩の軍奉行が駆けつけてその場を収めたが、芹沢は悠然と門を通っていき、人々は彼の剛胆さに驚いたという。
文久3年(1863年)9月、芹沢が懸想していた吉田屋の芸妓小寅が肌を許さなかったため、立腹した芹沢が吉田屋に乗り込み、店を破壊すると主人を脅して、小寅と付き添いの芸妓お鹿を呼びつけ罰として2人を断髪させる狼藉を行っている。
これらの所業に、朝廷から芹沢の逮捕命令が出たことから、会津藩は芹沢の所置を命じたと言われるが、確証はない。
同年13日、芹沢は土方、沖田らと水戸家の主君筋である徳川慶喜母方にあたる有栖川宮家を訪れ、壬生浪士の交名と、「警衛の用があれば何事に限らず申し付けてください」と記した書付を渡した。
9月16日あるいは18日、新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。芹沢は平山五郎、平間重助、土方らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、宴席が終るとすっかり泥酔した芹沢らは女たちと同衾した。
大雨が降る深夜、突然数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に斬りつけた。驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机につまづいて転び、そこを刺客たちがよってたかってずたずたに斬りつけた。このとき芹沢は八木家の息子・勇之助の上に倒れ込み、刺客たちはそこに斬りつけたため、刀の鉾先が寝相の悪かった勇之助の右足に当たり、怪我を負わせたという。
平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も巻き添えで首を切られ殺された。別室にいた平間は逃亡し、吉栄と糸里も難を逃れ姿を消したという。
事件は長州藩士の仕業とされ、9月18日(18日暗殺説によれば20日)に芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。20日に近藤は芹沢と平山が「変死」したことを記した手紙を郷里多摩の佐藤彦五郎へ送っている。
芹沢の墓は京都市中京区の壬生寺にある。
5月20日 - 日本高等学校野球連盟が夏の全国高等学校野球選手権大会中止を発表。同大会の中止は戦後初。
僕には気になることがあった。津田哲哉の消息は未だに不明だ。吉良純生は利島に来ていたが、津田の姿はなかった。
哲哉の父親、
備後は特殊能力を活かすために公安調査庁に入庁した。内閣官房内閣情報調査室、警察庁警備局、外務省国際情報統括官組織、防衛省情報本部とともに、内閣情報会議、合同情報会議を構成する日本の情報機関のひとつ。
破壊活動防止法や団体規制法の規制対象に該当する団体であるかどうかの調査(情報収集)と処分請求を行う機関であり、調査活動の過程で入手した情報を分析・評価し、政府上層部に提供している。同庁公式サイトでは、業務内容を大別して「団体規制」と「情報貢献」として紹介している。
公安調査庁が処分請求を行った後に、その処分を審査・決定する機関として公安審査委員会が設置されている。
調査対象組織(国家)内部に「協力者」(エージェント、対象とされる組織(国家)から見るとスパイということになる)を獲得し、これを通じて情報を入手することを目指して「工作」活動(ヒューミント)を行っている。
公安調査庁は、内務省調査局の流れを汲んでおり、特高警察関係者が創設に関与した。公安調査庁の活動は、対象の行動確認、公開資料の収集・分析・整理、協力者の確保など、純粋な諜報・インテリジェンス活動が主であるが、団体規制法第39条、第40条、第41条などにより、一定の強制力を行使できる。ただし、職員は特別司法警察職員ではないため、逮捕状、捜索差押許可状等を裁判所に請求したり、発付された令状を執行する権限は有しない。この点は、英国の情報機関である内務省保安局(MI5)やドイツの連邦憲法擁護庁と同様である。
俗に秘密警察と呼称されることもある。
伊豆大島には様々な遺跡がある。
1901年(明治34年)坪井正五郎らにより龍ノ口遺跡が紹介された。これが大島で初めて知られた遺跡であり、現在までに51か所の遺跡が確認されている。以下に代表的なものの例を挙げる。
縄文時代
下高洞遺跡:島西部にあり、伊豆諸島で最古の竪穴式住居跡がある。縄文早期および中期から晩期。
鉄砲場岩陰遺跡:島北東部にあり、伊豆諸島で唯一の岩陰遺跡がある。縄文前期。
龍ノ口遺跡:島南西部にある。縄文中期。
弥生時代
カン沢遺跡:島北東部にある。
ケーカイ遺跡:島北西部にある。
下高洞遺跡
古墳時代
大久保遺跡:島北部にある。
和泉浜C遺跡:島西部にある。
野増遺跡:島西部にある。
奈良時代
オンダシ遺跡:島西部にある。
伝蔵は備後に連れられて鉄砲場岩陰遺跡にやって来た。伝蔵は考古学者だ。
岩陰や洞窟の入り口は、天井の岩盤が屋根代わりとなって風雨を避けることができるとともに、外光が差し込むために旧石器時代や新石器時代の人類にとってはきわめて居住に適した地形であった。岩陰は、洞窟の入り口同様に利用されるために、洞窟の入り口を利用した遺跡のカテゴリーに含めて洞穴遺跡と呼ばれ、洞窟遺跡の一種としてもしばしば位置付けられる。例えば、パキスタンのサンガオ洞穴のように幅30 m、奥行き10 m程度の穴も事実上岩陰といえるが、その形状が浅い洞窟とみなされる。
ただし、洞窟遺跡と異なるのは、岩陰遺跡は、洞窟の開口部の代わりに、もっぱら石器時代段階の岩陰に遺された居住の痕跡を指すのに対し、洞窟遺跡は、用途、時期を問わずに洞窟そのものを用いた遺跡全てを指す点である。アウストラロピテクス(猿人)段階からネアンデルタール人などの旧人段階までは、岩陰遺跡と洞窟遺跡の性格に大差はなかったが、後期旧石器時代のクロマニヨン人などの新人段階になると洞窟の深い部分にまで使用するようになり、フランスのラスコー洞窟やスペインのアルタミラ洞窟のように素晴らしい洞窟絵画が描かれるようになる。その一方では、相変わらず岩陰や洞窟の入り口に住み続ける者も多く、ペルーのトケパラ洞窟 も構造的に浅いため、事実上岩陰遺跡であるが、壁面に狩猟を表現したすばらしい壁画で知られている。
洞窟遺跡や岩陰遺跡は、人間の生活した痕跡部分に岩陰や洞窟の入り口が侵食されて、岩屑や土砂が堆積し、またその上を生活面として使用して、食べられた動物の骨やトウモロコシの穂軸のような植物の遺存体、石器、土器、たき火に使用した木材片、敷物など様々な生活関連遺物が遺されて、放棄された後再び浸食による自然堆積がなされる。これが繰り返されて幾層にも堆積される。堆積物は流れ込んでも直接は風雨にさらされず浸食されない乾燥した岩陰や洞窟の内部は、当時の人類の活動の痕跡をパックして良好に保存することになる。
伝蔵たちは遺跡の奥に進んだ。白骨死体と化した息子が伝蔵を出迎えた。
「哲哉ァッ!!」
伝蔵は声を震わせて泣いた。
5月21日 - 同年1月31日に法解釈変更によって定年が延長され、同年8月に検事総長への就任が有力視されていた黒川弘務東京高等検察庁検事長が、前日の週刊文春の賭け麻雀(賭博罪容疑)の報道を受けて辞任。
アーチェリーの腕を買われたチャーリーは、大久野島を根城にする佐沼史郎の用心棒として雇われる。不遜な態度をとるチャーリーに幹部たちは不満を抱くが、チャーリーは史郎の運営するキャバクラ船の中でテロリストからの襲撃から史郎を守り、幹部たちを黙らせる。同じ頃、吉良純生と背沼蒼佑はキャバクラ船の売上金を盗むため金庫に侵入し、先回りしていた背沼貴恵と出会う。純生と貴恵は売上金を山分けすることにしたが、直後にキャバクラ船が爆発する。様子を探りに機関部に向かったチャーリーは、そこで斧で機関部を破壊する黒服男に遭遇する。チャーリーは黒服男を追い詰め目的を尋ね、男は「背沼親子と吉良純生を殺しに来た」と答える。隙を突かれたチャーリーは男を逃がしてしまい、さらに客の1人、郡司源太が爆発に巻き込まれて死んでしまう。
翌日、爆発現場に公安警察の陣内刑事が現れ、海上保安官たちに黒服の行方を尋ねる。黒服の素性を尋ねる海上保安官に対し、陣内は「北のスパイかも知れない」と答える。同じ頃、郡司の葬儀に現れたチャーリーは、彼の息子・
「ばっ、化け物……」
チャーリーは腰が抜けてしまった。
黒服はチャーリーを無視して純生たちを殺そうとするが、そこに陣内が駆け付け、純生たちは逃げ出し、黒服は「私、あなたのことタイプだわ」と無抵抗のまま逮捕される。黒服はゲイのようだ。
黒服に敗れて誇りを失ったチャーリーは、弓矢を磨くために修行を始めるが、彼に敗れたことがトラウマとなり弓矢を射れなくなった。
チャーリーは
幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承がある。また、治承4年(1180年)、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。『平家物語』に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名である。
また扇の的を射た功名で得たと伝えられている荘園のうち1つの備中荏原荘がある。この伝承が事実であるかどうかは不明であるが、少なくとも鎌倉時代中期の段階で那須氏の一族(荏原那須氏・備中那須氏)がこの地域を支配していたことを示す記録が残されている。
弓の腕を上げようと修行を積み過ぎた為、左右で腕の長さが変わってしまったと伝えられている。
一方、陣内は備後から黒服、坊城パーシーを釈放するように圧力をかけられる。そのまま局長室を出た陣内の元に「パーシーが脱獄した」という報告が入り、陣内は追跡を開始する。パーシーは追手のパトカーを振り切り逃走するが、出くわした陣内にバイクを撃たれ、崖下に転落する。しかし、パーシーは無傷で立ち上がり、純生たちを殺しに向かう。
純生は蒼佑は、チャーリーの修行を途中まで見届けていたが、純生は彼の修行が完遂間近なことを悟り、チャーリーの前から姿を消し、パーシーの情報を集めるため陣内に自首する。
パーシーの正体は純生と蒼佑に殺された、ペリーだった。ニューヨークを訪れた際に酔っ払いのペリーに絡まれ殴られそうになった。純生は攻撃を躱してパンチを浴びせた。尚も反撃しようとしたので、蒼佑は近くに落ちていたレンガ石で頭を殴った。ペリーは病院に搬送されたが亡くなった。ペリーはパーシーに憑依して、操っていたのだ。
チャーリーは修行を終えて満身創痍の状態で佐沼史郎の配下たちと出くわし、郡司弁慶から用済みと判断され、幹部のピラルクーとプルーンからリンチを受ける。その中で、実力が開眼したチャーリーは、ピラルクーやプルーンをはじめとした佐沼軍団30人を次々とアーチェリーで殺し、パーシーから手を引くことを弁慶に認めさせる。一方、パーシーの襲撃を受けた純生と蒼佑は陣内の元から逃げ出し、木村城に逃げ込む。
現在、城山と呼ばれる山の山頂から北へと伸びた標高150mの丘陵を中心に築城された。本丸を中心とする南郭群と兵糧の段、馬返しの段を中心とする北郭群によって構成されている。周囲には堀切から竪堀、畝状竪堀が備えられ、井戸も3つ確認されている。うち1つは現存しており、井戸内部は石積みによって堅固に構築されている。
木村城から賀茂川を挟んで対岸に、手島屋敷と呼ばれる中世の居館跡が存在する。間口約50m、高さ3mの石垣が残存しており、石垣の両隅は枡形が切られている。かつては「西殿屋敷」と呼ばれていた。
竹原小早川氏が竹原を去る時、竹原小早川家の家臣であった手島氏がその屋敷と居館を受け継いだと言われている。
パーシーは純生と蒼佑を追い詰め、止めを刺そうとするが、そこにチャーリーが到着する。チャーリーはパーシーに一騎打ちを挑み、斧で左腕を斬られながらも仕込み杖から刀を抜いて、彼の右腕を斬り捨てる。パーシーはチャーリーに斬りかかろうとするが、チャーリーに首を斬り落とされる恐怖を感じ、勝負に敗れたことを認め、チャーリーの前から姿を消す。パーシーが去った後、チャーリーは今回の事件で犠牲になった人々のために祈るが、そこに陣内が現れて純生と蒼佑、そしてチャーリーを逮捕した。
5月22日 - 愛知県豊橋市に入院している静岡市在住の外国人が狂犬病を発症していることが発表された。男性は同年2月にフィリピンから就労目的で入国しており、前年9月頃にフィリピンで犬に噛まれ治療を受けなかったという。5月11日から14日にかけて症状を訴え18日に医療機関を受診し入院した。日本国内での狂犬病患者は2006年以来14年ぶり。
六角若葉は戦国大名、
天文2年(1533年)4月21日、観音寺城で元服し、室町幕府12代将軍・足利義晴より偏諱を受け、義賢と名乗った。
父・定頼の晩年から共同統治を行ない、父と共に姉婿に当たる細川晴元を援助して、三好長慶と戦った(江口の戦い)。
天文21年(1552年)、父の死去により家督を継いで六角家の当主となる。六角家は甲賀郡を含む近江国の守護であり、更に他国の伊賀国の4郡の内の3郡の間接統治も行っていた。
弘治3年(1557年)、嫡男・義治に家督を譲って隠居し、剃髪して
父の死後も13代将軍・足利義輝や細川晴元を助けて三好長慶と戦うが、優勢であった三好氏との勢力差が逆転し、敗戦し続けた。しかし永禄元年(1558年)、北白川の戦いの後に義輝と長慶の和睦を仲介することで義輝を京都に戻し、面目を保っている。これを契機に、対立していた北近江の浅井久政が六角領に対して侵攻を開始するが撃退し浅井氏を従属下に置いた。従属関係を強調するため、久政の嫡男に偏諱を与えて賢政と名乗らせたり(後に長政と改名)、家臣の平井定武の娘を娶わせたりした(後に離婚)。
永禄3年(1560年)、浅井長政が六角氏に対して反抗を開始、義賢はこれを討伐するために大軍を自ら率いたが、長政率いる浅井軍の前に大敗を喫した(野良田の戦い)。
この敗戦により、それまで敵視していたと言われる斎藤義龍とも同盟関係を結び、対浅井氏の戦を繰り広げていくが、戦況は芳しくはなかった。斎藤義龍との同盟は、家督を譲られた嫡男・義治が主導したものと思われる。承禎は姉妹が美濃国守護・土岐頼芸に嫁いでいるため、美濃を簒奪した出自の怪しい美濃斎藤氏との同盟に反対する旨の書状が見つかっている。承禎は室町時代以来の伝統的な同盟相手である土岐氏の美濃復帰を志向する保守的な性格を示すと共に、斎藤氏が織田氏・朝倉氏と敵対関係にあったことから、その対立に六角氏が巻き込まれることを危惧する現実的判断があったと考えられる。
永禄4年(1561年)、細川晴元が三好長慶に幽閉されると承禎は激怒し畠山高政と共に京都に進軍し長慶の嫡男・三好義興と家老の松永久秀と対戦。一時的ではあるが三好氏を京都より追い出すことに成功している(将軍地蔵山の戦い)。翌永禄5年(1562年)3月5日に高政は河内国に於いて長慶の弟である三好実休に大勝し、実休を敗死に追い込んでいる(久米田の戦い)。そして翌6日に承禎は洛中に進軍し、8日に徳政令を敷き山城国を掌握した。
しかし、承禎は何故か山城を占拠した後は動かず、4月25日には高政に督促されたが依然として停滞し、続く5月19日から20日にかけて教興寺の戦いで畠山軍が壊滅すると山城から撤退、三好長慶と和睦した。
永禄6年(1563年)10月、義治が最有力の重臣で人望もあった後藤賢豊を観音寺城内で惨殺するという事件が起こった(観音寺騒動)。賢豊が承禎の信任が厚かったことから、義治が賢豊を殺害したのは承禎の影響力を排除する目的であったとする説もある。これにより、家臣の多くが六角氏に対して不信感を爆発させ、承禎も義治と共に観音寺城から追われるまでに至ったが、重臣の蒲生定秀・賢秀父子の仲介で承禎父子は観音寺城に戻ることができた。
永禄8年(1565年)5月、将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害される(永禄の変)と、義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が近江の和田惟政の下に逃れる。当初、承禎は覚慶の上洛に協力する姿勢を見せて野洲郡矢島に迎え入れたり、織田信長・浅井長政の同盟(お市の方と長政の婚姻)の斡旋をしているものの、三好三人衆の説得に応じて義昭(覚慶)を攻める方針に転じたため、義昭は朝倉義景の下に逃れた。これを受けて、永禄9年(1566年)には浅井長政が六角領に対して侵攻を開始するが、それを食い止めるだけで精一杯だった。
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、承禎は三好三人衆と通じて信長の従軍要請を拒絶、織田軍と戦った。しかし観音寺城の戦いで大敗を喫し、東山道沿いの観音寺城から南部の甲賀郡に本拠を移した。
元亀元年(1570年)6月には体制を建て直し、承禎は甲賀郡から南近江に北進、長光寺城に立て籠もる信長の重臣・佐久間信盛と柴田勝家を激しく攻めたてた(野洲河原の戦い)。更に8月には義治と共に朝倉義景・浅井長政や三人衆らと同盟し(野田城・福島城の戦い)、南近江の地で織田軍を圧迫した。この戦いでは同盟軍が優勢となり危機に陥った信長は同盟軍の切り崩しを図り、11月に足利義昭を通じて承禎父子と和睦している(志賀の陣、信長包囲網)。なお、観音寺城を奪還できないまま信長と和睦した承禎父子は実質的には降伏に等しく、この和睦をもって大名としての六角氏は滅亡したとする評価もある。
元亀3年(1572年)1月、甲賀郡から承禎は再度出陣し、湖南の三宅城・金森御坊(金森の一向一揆)と共に信長に抗戦している。これに手を焼いた信長は佐久間信盛と柴田勝家に攻撃を命じ、付近の寺院をことごとく放火し、近在の百を越える村々に今後、六角氏に味方しないよう起請文を提出させている(元亀の起請文)。この頃、大和の松永久秀や将軍・足利義昭も織田信長から離反しており、織田家の最前線は実質的に承禎がゲリラ戦を展開する近江まで後退していた。
元亀4年(1573年)4月、承禎は湖東に進出し鯰江貞景の鯰江城に入った。信長は百済寺に陣を構え、佐久間信盛・柴田勝家・蒲生賢秀・丹羽長秀により鯰江城を囲んだが、同月11日に百済寺が六角勢を支援していたとして寺を焼き払い、攻略を諦めて岐阜に帰還している。
しかし、天正元年(1573年)8月、承禎と連携していた朝倉義景・浅井長政が刀根坂の戦い・小谷城の戦いでそれぞれ敗れ、信長に討たれてしまう。同年9月4日、信長はそのまま佐和山城に入り、六角義治の籠る鯰江城攻めを柴田勝家に命じ、今度はこれを落とし9月6日に岐阜へ凱旋した。更に、同月、承禎の籠る甲賀郡北部の菩提寺城と石部城も佐久間信盛に包囲された。同年10月25日、長島一向一揆を攻めた織田勢は帰陣の際に甲賀・伊賀勢を加えた門徒に襲撃され殿軍の林通政が討ち取られたが、信長は難を逃れ大垣を経て岐阜に帰還した。
翌天正2年(1574年)4月13日、菩提寺城と石部城もついに落城し、承禎は夜間雨に紛れ甲賀郡南部の信楽に逃れた。一方、畿内においては、同年正月に大和の松永久秀が信長に服属、同年11月に摂津の伊丹親興が織田方の荒木村重に城を落とされ自害、山城や摂津に居た三好三人衆も霧散し、畿内はほぼ信長に制圧された。
その後、承禎は甲賀と伊賀の国人を糾合して信長に抗戦したとも、石山本願寺の扶助を受けていたとも、あるいは隠棲していたともいわれるがはっきりしていない。天正9年(1581年)4月には、長年独立を保っていた伊賀もついに信長に平定された(天正伊賀の乱)。同年、承禎はキリシタンの洗礼を受けている。
その後、承禎は天下を掌握した豊臣秀吉の御伽衆となり、秀吉が死去する前の慶長3年(1598年)3月14日に死去した。享年78。子の義治は慶長17年(1612年)、義定は元和6年(1620年)にそれぞれ死去した。承禎の位牌は嫡男・義治と共に、京都府京田辺市の一休寺にある。義治の系統は加賀藩士、義定の系統は江戸幕府旗本となった。
若葉は
伊賀忍者・甲賀忍者は男の子に大人気だが、彼らを一躍有名にしたのが1487年に勃発した鈎の陣だ。
文明11年(1479年)11月、第9代将軍・足利義尚は判始を行ったが、先代将軍の足利義政は政務移譲を渋って対立し、文明17年(1485年)4月には奉公衆と奉行衆の諍いから、布施英基が義尚の小川御所にて奉公衆に殺害されている。そして、長享元年(1487年)9月12日、足利義尚は、管領・細川政元をはじめ、若狭守護・武田国信等の守護大名、在京奉公衆、在国奉公衆、さらには公家衆も率いて近江坂本へ出陣した。この時、義尚は奉行衆も連れており、鈎の陣は実質的に幕府の政務も担ったが、奉行衆のうち義政側近であった伊勢貞宗、飯尾元連、松田数秀等は同行を許されず政務から外された。義尚の遠征に対し、六角行高は観音寺城を放棄して撤退した。しかし、甲賀郡山間部でのゲリラ戦を展開し、戦闘は膠着状態に陥った。
翌長享2年(1488年)6月には、加賀守護・富樫政親が加賀一向一揆の激化によって領国へ帰還し、一揆勢に敗れ討たれている。さらに義尚は、本願寺や一揆勢をも討伐する意向を示すが、六角氏討伐を理由とする政元から反対されて断念する。同年、義尚は側近の結城尚豊を近江守護に任命した。
なお、義尚は諸大名に上洛を命じたが、多くの大名はこの討伐を警戒し、子息や家臣を代理として派遣した。また、越前守護の朝倉貞景は自らは本国越前に留まりながらも、一門の朝倉景冬を坂本に派兵し協調姿勢を見せたが、美濃守護の土岐成頼は嫡男の土岐政房を派遣した。なお、成頼は西軍の名目上の総大将だった足利義視・義材父子を美濃革手城に保護しており、また朝倉貞景は土岐家の実権を握る斎藤妙純の娘を正室に迎えており両者は婚姻関係にあった。
尾張守護の斯波義寛は織田敏定、織田寛広ら両織田一族等8000の大軍を率いて幕府軍に参陣したがこの際、越前を実効支配する朝倉氏が幕府軍へ参陣すると、かつての家臣と同陣することに大きな屈辱を感じた義寛は、義尚に対して朝倉氏の越前押領と自身の越前回復を訴えた(長享の訴訟)。この争論では斯波氏・朝倉氏ともに越前支配の正統性を主張して互いに譲らず、幕府としても討伐目標を前にしながらの内輪揉めは望まなかったため、斯波義寛に色良い答えが出ず、義寛は2月23日、失火を口実に陣を払った。
更に、足利義尚の側近衆である結城政胤・尚豊兄弟、大館尚氏、二階堂政行が、奉公衆からも反発を受け、遠征はますます膠着状態に陥った。
長享3年(1489年)3月、足利義尚は体調を崩し重体となったため、近臣らは養生のため義尚を一時帰京させて、足利義視・義材親子に六角氏討伐を一時的に任せようとはかった。これに義視・義材親子は同意したが美濃から出国する直前の3月26日、足利義尚は近江鈎の陣中で死去した。4月14日、義視・義材親子は入京し、4月22日には日野富子邸(小川御所)に移った。近江では守護であった結城尚豊が出奔し、六角討伐は中断となった。
時は過ぎ、1587年に天正伊賀の乱が勃発する。この戦では、織田信長の次男・
六角若葉は佐沼帝国から脱出し、新宿中央公園にやって来た。巨大な穴が空いている。
「えいっ!」
若葉は穴へと飛び降りた。戦国時代にタイムスリップして、各地を旅した。長野の真田衆、山梨の三ツ者(武田氏に仕えた)、石川の
忍びの日常は午前4時に起きることからはじまる。朝食を済ませると農業や林業に励み、昼食も摂らずに夕方まで弓や馬などの軍術に励んだ。
「あ〜マックのハンバーガー食べたい」🍔
日が沈むと帰宅して食事を採った。
豆腐や納豆、みそなどの大豆食品が中心だ。野菜や山菜を使った漬物は絶品だった。魚は食べることがあるが、肉はタブー視されていたので食べられない。
「若葉、ウズラをしっかり食べるのじゃよ」
「卵はタンパク質が豊富ですからね」
「うずら隠れがうまくなるからじゃよ」
土遁 - 地形を利用して身を隠す。土地の起伏、没地、低地、岩石などを利用して、敵の視界から身を隠す事を指す。隠し穴や抜け穴の利用も含まれる。夜間に手足を縮めて体を丸めて俯せになって、建物や岩陰に寄り添って気配を消す術を「ウズラ隠れの術」という。
食事の後、
材料は梅干しの果肉、氷砂糖、麦門冬(ジャノヒゲの根が原料の生薬)。梅干しから種を取り除き、氷砂糖と麦門冬を粉末状にして、梅・氷・麦をまぜまぜして団子みたいにする。
「あとは天日干しすりゃ大丈夫だ」
明日の夕方には出来上がる。
同じ頃、
出浦の子供はまだ7歳くらいで、父親の忍具を一緒に作っている。
出浦
天文15年(1546年)、信濃埴科郡出浦にて、清和源氏・信濃村上氏の一族である出浦清種の次男として誕生したとされる。
天文22年(1553年)に村上義清が武田信玄に敗れ越後国に逃れると、その後甲斐武田氏に臣従し、甲州透破(三ツ者)を統率した。武田氏滅亡後は織田信長家臣の森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国人はほぼ全員が長可を裏切ったが、昌相は撤退に協力した。長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えたという。
その後、天正11年(1583年)から真田昌幸・信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し、吾妻奉行を拝命した。更級郡上平城主を務め、岩櫃城では最後の城代を務めている。横谷左近と共に吾妻忍び衆を統率して活躍。天正18年(1590年)6月、豊臣秀吉の関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻め(忍城の戦い)でも活躍した。
松代藩では忍者の頭領となり、武者奉行にもなった。この頃は出浦対馬守を称している。関ヶ原合戦後は、上州吾妻郡原町に住み、 元和9年(1623年)に78歳で死去。
子・幸久は松代藩で1000石を領する家老となっている。
「幸久、儂みたく強くなるんじゃよ?」と、盛清。
「鷲じゃなく、鷹みたくなりたい」
ユニークな7歳児だなぁ、と若葉は思った。
日が暮れる頃には床についた。
5月23日 - 女優の三浦真澄がネットいじめを苦に自殺。
時は1576年、天王寺の戦いが起きた頃だ。
元亀元年(1570年)9月、石山本願寺の門跡・顕如は織田信長との対決を決意した。石山合戦の始まりである。
本願寺と織田軍は一進一退を繰り返したが、顕如の義兄武田信玄の病死や浅井長政・朝倉義景・長島一向一揆滅亡などで追いつめられていった。そんな中、天正4年(1576年)2月、足利義昭の呼びかけに応じて毛利輝元が信長包囲網の一翼に参加し、本願寺に兵糧などの援助を始めた。これが顕如を強気にして、畿内の信徒に動員令を出して5万の兵力を集めた。このため、諸々の事情から停滞していた本願寺と織田家の戦闘が再燃することとなった。
4月14日、信長は、荒木村重には尼崎から海上を通って北の野田に3箇所、明智光秀・細川藤孝らは南東の守口・森河内の2箇所に、塙直政は南の天王寺に1箇所それぞれ砦を築かせ、本願寺の包囲を強めようとした。一方、本願寺側は楼の岸・木津の2箇所に砦があり、難波方面への水路を確保していた。信長はこれを断つため木津砦を攻撃する事を決め、天王寺砦に佐久間信盛の嫡男佐久間信栄と光秀を入れ置いた。
5月3日早朝、織田軍は木津に攻撃をかける。陣立ては先陣が三好康長・根来衆・和泉衆、2番手が塙直政・大和衆・山城衆である。しかし、楼の岸砦から本願寺勢・約1万が討って出てきて、織田軍を包囲しつつ数千丁の鉄砲で銃撃を加えた(精強鉄砲隊の雑賀衆が味方していた)。直政の軍勢がこの攻撃を引き受けて数刻の間戦ったが敵に囲まれ、直政は一族の塙安弘・塙小七郎や蓑浦無右衛門・丹羽小四郎らと共に討死、康長は逃亡して軍は崩壊した。本願寺勢は勢いに乗じて天王寺砦を包囲・攻撃、窮地に陥った光秀・信栄らは、京都に滞在していた信長に援軍を要請した。
これを聞いた信長は諸国に動員令を出し、5日に100人の兵を率いて河内若江城に入った。しかし突然の命令だったため、兵力が集まらなかった。
6日、信長は軍勢の到着を待ったが、突然の出陣だったためあまり兵力が集まらなかった。天王寺砦からは「あと3、5日さえ持ちこたえるのは難しい」とたびたび知らせてきたため、信長はこのまま眼前で味方を攻め殺させて面目を失っては無念と考え、わずかな手勢で本願寺勢を強襲することを決定、翌日の7日、信長は3000ほどの兵で本願寺勢1万5千に突撃した。
陣立ては3段で、先陣は佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆、2番手は滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄ら、3番手は信長の馬廻りで、信長自身は先手の足軽に混じって指揮を取った。なおこの時、信長は荒木村重に先陣を任せようとしたが、村重は木津方面の守備を引き受けるといって断った。本願寺勢は鉄砲で防戦したが、織田軍はこれに突っ込んで敵陣を切り崩し、天王寺砦の守備隊と合流した。この際、信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷を負った。
合流されたとはいえ、本願寺勢は退却せず、陣形を立て直しつつあった。信長はそこへ再度攻撃をかける事を決める。家老たちは多勢に無勢であるとして止めたが、信長は「今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所の由(いま敵が間近にいるのは天の与えた好機である)」と言い放ち、陣形を2段に立て直して突撃。本願寺勢を撃破し、更にこれを石山本願寺の木戸口まで追撃し、2700余りの敵を討ち取った。こうして織田軍の勝利で天王寺砦の戦いは終結した。
信長は大坂の10箇所に付城を作るよう命じ、佐久間信盛・信栄父子と松永久秀らを天王寺砦に入れると、6月5日に若江城に帰還した。
5月25日 - コロナウイルスに伴う緊急事態宣言が約1ヶ月半ぶりに解除された。
沼田音生は佐沼帝国に対抗する六角帝国にやって来た。帝王はタイムスリップ中で、長男の
「おや、新入りさんかい?」
「沼田って言います」
「俺は
知念は茨城にある食品工場に派遣されていたが、ボーナスもなく退職金もない劣悪な会社で、さらに派遣切りされたらしい。
佐沼の帝王を倒せば賞金100万が手に入る。
六角帝国には他に
世界各国でコロナによるパニックで、トイレットペーパーやマスクが品切れになった。また、店舗への略奪や強盗などが増加した。
額田はオープンセキュリティサークルについて教えてくれた。安全圏がブルー、中程度の危険範囲がイエロー、超危険範囲がレッドだ。ブルーはライフルでも届かない、イエローならハンドガンが届く範囲、レッドは直接的な攻撃が届く範囲だ。
額田のリュックサックの中にはナイフ、麻紐ロープ、地図、コンパス、ペンとメモ帳、ウォーターボトル、ライター、マッチ、ビタミン剤、ドライフード、調味料、歯ブラシ、ガーゼ、絆創膏、マキロン、マスク、ホイッスル、ミラーが入っていた。
額田はラジオやエマージェンシーシートを手にしていた。エマージェンシーシートは薄いが保温効果が高い非常用シート、ラジオは電気やネットがダウンしても使える。
「イベント会場なんかには行かない方がいい」と、陸前。
「コロナに罹りますね」と、知念。
「それだけじゃない、ゲリラ攻撃の標的に遭う」
「陸前さんはコロナはテロだと?」と、額田。
「うん」
「佐沼帝国をどうやって倒しましょう?」
アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』を読みながら額田が言った。
「我々には武器がない」と、知念。
「武器なんかなくたって車で人混みに突っ込む方法がある」
「沼田さん、そんなことで帝王を倒せるかな?」
5月26日 - 当月の各大手メディアによる安倍内閣の内閣支持率調査で相次いで20%台を記録した(2017年7月以来)。
広島市内で映画館を営む一文字六郎は、破壊活動をする裏の顔を持っている。隣の八百屋の店員になりすました刑事、備後が彼を監視する中で次の指令を受けた一文字六郎は、警察の目をごまかすために、幼い息子の春馬に爆弾を持って行かせる。しかし、春馬は爆発の設定時刻までに目的の場所に持っていけなかったため、移動のバスの中で爆死する。春馬の死に激しいショックを受けた妻の虹子は開き直る夫を咄嗟に刺してしまう。そこに現れた備後は、かねてより虹子に対して好意を抱いていたことから、彼女と共に佐沼帝国に逃げることを提案する。一方、爆弾を用意した魚屋の
中国の水道水が炭疽菌で汚染された。
炭疽菌は非常に取り扱いやすく、発芽するまでは各種薬品や紫外線などに対する耐性も非常に強い。
しかも、肺に感染する肺炭疽にかかった場合には致死率が90%前後に達する。そのため炭疽菌は従来より生物兵器の代表格とされており、2001年には実際にアメリカでテロに使用され、死者を出している。日本でも、1993年にオウム真理教が東京都江東区亀戸の新東京総本部(登記上の主たる事務所でもあった)で実際に噴霧している。死傷者こそ出さなかったものの悪臭が周辺に漂う騒動となった(亀戸異臭事件)。
自然界における炭疽菌への感染は、炭疽菌が含まれる土壌などへの接触によることが一般的である。この場合炭疽菌は皮膚に感染(皮膚炭疽)するが、この皮膚炭疽は治療を行わなかった場合でも致死率は約20%、適切な治療を受ければ約1%まで下げることが可能で、(兵器としては)それほど問題はない。
兵器として使用する場合は皮膚炭疽では威力不足であるため、空気中に散布して肺に感染させる必要があるが、エアロゾル化にはある程度の技術力が必要である。
炭疽菌に有効なワクチンは存在するが、接種に手間がかかるし、1年ほどしか効果がない。さらに、弱いながらも副作用が発生する可能性が比較的高いことなどから、一般的には使用されていない。
炭疽菌の兵器としての欠点は感染力が弱いことで、人から人へ感染することはない。他方でこれは、兵器を使用した側が使用した地点に進出しても被害を受けない、と言う面では利点でもある。
竹原市を勝男は散策した。古くから瀬戸内の交通の要衝として発展した。室町時代より港町として知られ、江戸時代後期は製塩業で栄えた。現在は 『安芸の小京都』 と呼ばれ、2000年に国土交通省によって、町並地区が「都市景観100選」に選定された。広島県の南中部に位置する。市街地は、JR竹原駅を中心として扇状に広がる官公庁・商業地区、港を中心とした港湾・工業地区、文化財が集中する寺院等を含む町並み保存地区に大別される。また、市の特産物であるタケノコなどの産地である小吹地区などに分類される。
元来、墾田永年私財法により、京都・下鴨神社の荘園地として開墾されたのが最初とされるが、名前の由来は、「竹の原」なのか或いは荘園管理者が「竹原氏」であったからかに分かれている。室町後期には、毛利家三男「隆景」が、竹原で幼少期を過ごすなどあったが江戸後期の「塩田」と「酒造」により発展し、忠海町には関所払いができたほどである。また、塩はその当時広島県が全国の80%のシェアーを占め遠く大阪や江戸まで北前船で輸送した。
尚、竹原市の高崎町阿波島周辺の『スナメリクジラ回遊海面』が1930年(昭和5年)に天然記念物保護指定されている。これは1960年代までスズキなどの魚をスナメリを目印に釣る伝統漁法によって指定されたものである。しかし保護指定にもかかわらず、スナメリは減少し、現在この漁は行われていない。なお、この関連施設として『宮島水族館』が指定されておりスナメリも飼育されている。
夕闇の裏路地を勝男は歩いていた。ナイフを持った黒いマスクの男に襲われた。ショルダーバッグを肩から下ろし、ベルトの上下の端を内側に丸め込むように持って盾代わりにした。ノートパソコンやビジネスブックが入っていた為にナイフは貫通しなかった。
サイレンの音が聞こえた。刺客はそそくさと逃げ去った。
音生は王子を殺し損ねて愕然としていた。勝男を殺せば50万が手に入る。
5月28日
コロナによって遊具を使うことが禁じられ、佐沼公園は閑散としていた。ベンチで本を読んでいた。ビジネスに関する本だ。『ビジネスもナンパだと思えば怖くない』というフレーズに感銘を受けた。
背後から銃を突きつけられた。無抵抗でいれば生存率が上がるらしい。銃を突きつけられたときに、相手を怒らせたりしてはいけないと、父の側近の
勝男も早口言葉を3回クリアすると魔法を使えた。
「バス ガス 爆発、バス ガス 爆発、バス ガス 爆発」
刺客は爆音とともにバラバラになった。
午後3時、広島市内にあるファミレスを銃で武装した3人組が襲撃した。
「佐沼帝国は偉大なり!」と叫びながら脇坂はトカレフ拳銃をぶっ放した。
『ゆとりはマジで使えない』
事あるごとに脇坂たちを詰った、豚みたいな店長の腹を撃った。
横澤は手榴弾をボックス席に投げた。ギャルたちが吹っ飛んだ。園子はレストランスタッフを人質に取った。
襲撃後に屋上から逃げた人や、トイレに隠れて助かった者もいる。
警察の特殊部隊が突入して午後7時には鎮圧された。犠牲者は15人、その中には脇坂と横澤もいた。園子は投降した。
武漢の市街地にヘンリーはやって来た。見慣れない黒いワンボックスカーが停まっている。
ショッピングモールは閑散としており、空き缶がカラコロと転がる。
アメリカにはRUN・HIDE・FIGHTという原則がある。テロやゲリラに遭遇したらまずは逃げる。それでもダメなら隠れる、戦うのは最終手段だ。
佐沼帝国は東京にある夢の島にステルス要塞を築くことに成功した。ミサイルは武漢ではなく、北京に着地した。射程距離は約2000kmだ。
武漢を訪れていたヘンリーは「God!」と怒りを露わにした。
北京にはヘンリーの竹馬の友のニックが来ていた。大都会のビルの谷間にいた為に爆風をもろに浴び、ガラスの雨に打たれて死んだ。
日本から来ている特派員の
僕は帝国にある城の自室で、みたらし団子とキムチを混ぜ合わせたオヤツを食べながら、ニュースを見ていた。
核攻撃は成功したようだ。
団子の甘さとキムチの辛さがマッチして美味だった。
昨夜、白の近くの丘で、2035年からUFOに乗ってやってきた少女にとんでもない未来を聞かされた。
「日本は2035年、中国による侵略戦争で滅びる。世界を変えることが出来るのはおじいちゃんだけよ」
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