第5話 ウサギの島

 2021年4月8日……佐沼帝国の主は史郎から勝男になった。4月7日史郎はコロナのせいで死んだ。桜は既に散ってしまっていた。3月15日には東京でソメイヨシノが開花した。🌸

 タイムマシンなんかがあれば2019年頃に戻って、武漢をダイナマイトで爆破したい。

 佐沼帝国は広島県竹原市にある大久野島おおくのしまにある。島内には野生化したウサギが1000羽近く生息している。歩いていると近寄ってくる。宿泊施設も存在し、テントは最初から設営されている。島には温泉が湧き出ている。

 本州にある竹原市忠海から南方沖合い3kmに位置する。西へ1.1kmの位置にあるのが小久野島、その少し南が松島でともに無人島。さらに西が阿波島、南西側が大崎上島、南が愛媛県との県境で、その南が大三島である。東は高根島と生口島。住所は、全島域が〒729-2311広島県竹原市忠海町大久野島、旧豊田郡忠海町域で住所が忠海町表記なのはこの島だけである。

 面積0.7km2。周囲4.3km。最大標高は島の北側で108m。気候は瀬戸内海式気候。

 民家は存在せず、島内への一般車両は通行不可。携帯電話・Wi-Fi(佐沼邸のみ)の情報ネットワーク網は構築されている。ただし上水道は本州と繋がっておらず、島外から船で運ばれている。人口・定期便航行距離および寄港回数から離島振興法未指定離島である。

 昭和初期に国内で2箇所、大日本帝国陸軍では唯一の毒ガス製造工場があった島である。

 

 この海域でナウマン象の臼歯が発見されている。これは古代瀬戸内海が平原であったこと、そして現在の島は当時丘の一つだったことの証明の一つである。一方でこの島では遺跡や古墳・城址といった埋蔵文化財が発見されていない。


 大治4年(1129年)、平忠盛は山陽道・南海道の海賊追討使に抜擢されると、この地は忠盛により平定される。この際に忠盛は自らの名を2つに分け、北側の浦を「忠海」、南側の大三島の地を「盛」(盛漁港)と名付けた。これが忠海の由来である。


 康応元年(1389年)、今川貞世(了俊)が記した足利義満の厳島詣随行記『鹿苑院義満公厳島詣記』によると、義満一行は帰路の途中この付近で座礁したため忠海で潮を待ち、一句詠んでいる。

 つまり、この周辺海域は古くからの航路であり、海賊が横行していたということがわかる。


 この島には村上水軍の末裔が住んでいたと言われている。なお中世において、南側の大三島は越智氏・大祝氏の三島水軍の拠点であり、それ以外の周辺は小早川氏(小早川水軍)になり北の忠海はその庶家である浦氏(浦宗勝)の、東側の生口島は同じく庶家の生口氏(生口景守)の拠点、西の大崎上島は浦氏傘下になる大崎衆の縄張りである。伊予の能島村上氏村上武吉・村上元吉親子が竹原に移り住んだのは安土桃山時代のことであることから、この島に住んでいたのがその末裔であるなら近世に住み着いたことになる。『芸藩通志』の絵図には「久野明神」が唯一描かれている。


 勝男の仲間には戦国時代で出会った堀秀政ほりひでまさがいた。

 天文22年(1553年)、斎藤道三の家臣である堀秀重の長男として美濃国厚見郡茜部で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄の奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。

 最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄8年(1565年)に13歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた(顔が美形だったためとも言われる)。16歳で、室町幕府15代将軍・足利義昭の仮住まいの本圀寺の普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼・福富秀勝・大津長昌・矢部家定・長谷川秀一・万見重元らがいる。

 秀政は次第に奉行職だけでなく戦場でも活躍するようになる。織田軍の主要な合戦である天正3年(1575年)の越前一向一揆討伐に参加。天正5年(1577年)の紀伊雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛・羽柴秀吉らとともに一隊を率いる。翌年の有岡城の戦いでは、万見・菅屋らと鉄砲隊を率いる。天正7年(1579年)の安土宗論のとき菅屋・長谷川らと奉行を務める。翌・天正8年(1580年)、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋・長谷川らと務める。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。


 また、叔父である蓮照寺住職に育てられた関係で、本願寺との交渉にあたり、石山本願寺との和睦と紀州鷺森への退城を促し、交渉に奮闘していたことも想像される。後に秀政は、本願寺顕如から「釋道哲」の法名をいただいている。


 天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱において信楽口からの部隊を率い、比自山城の戦いなどを戦い抜いている。この功績ならびに荒木村重討伐、越前一向宗制圧の功績により、この年、織田信長から長浜城主2万5,000石を与えられた。


 天正10年(1582年)の甲州征伐では信長に従って甲信に入るが、既に織田信忠が武田氏を滅ぼした後だったため戦闘には参加しなかった。本能寺の変の直前には、明智光秀が徳川家康の接待役を外されたあと、丹羽長秀と共にこれを務めており、この接待を終えた後、備中の秀吉の下へ向かっている。


 天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が起こって信長が死去した時、秀政は秀吉の軍監として備中国にいたが、信長死去の報を知ると秀吉と共に急ぎ上方へ戻って山崎の戦いに参陣し、中川清秀や高山右近らと先陣を務める。秀政は光秀の援護にきた明智秀満を坂本城に追い込み、敗北を悟った秀満は先祖代々の家宝を秀政の家老・直政に譲る旨を告げた後に、城に火を放ち自害した。


 山崎の戦い後の6月27日に開かれた清洲会議により、秀政は丹羽長秀に代わって近江国の佐和山城と所領9万石を拝領し(佐和山は北ノ庄城攻めの恩賞として賜ったという史料もある)、三法師の蔵入地の代官と守役を承った。その後、秀政は秀吉の家臣となり、天正10年(1582年)10月20日付の書状には羽柴の名字を使用している。これにより秀吉の一族以外で初めて羽柴氏の名字を与えられたのは秀政であったと考えられている。


 天正11年(1583年)4月、秀吉は越前北ノ庄の柴田勝家を攻めた。家康が秀吉に宛てた書状には「はた又、久太郎(秀政)方砦へ、柴田取りかかり候のところ、すなはち合戦に及び、切り崩され、あまた討捕られ候えば、定めて比類なき儀、心地よく候、云々」と秀政の軍功を褒めている。戦後、従五位下・左衛門督に叙任。従兄弟の六右衛門が一向宗蓮照寺住職となっていた関係で、本願寺方との交渉をも受け持った。


 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、味方の軍は大敗を喫したが、自軍を三手に分け、余勢を駆った家康方の大須賀康高や榊原康政らを待ち伏せし、挟撃して敗走させた。その後、家康本隊とは戦わず退却する。


 天正13年(1585年)に秀吉が関白になると、秀政は従四位下・侍従兼左衛門督に叙任。同年の紀州征伐(千石堀城の戦い、第二次太田城の戦い)や四国平定戦による軍功により丹羽長秀の遺領越前国北ノ庄に18万石を与えられた。与力に加賀小松の村上義明、加賀大聖寺の溝口秀勝が付けられた。天正14年(1586年)には、長谷川秀一とともに昇殿を許された。なお、秀政が各地を転戦している間、佐和山城には城代として父の堀秀重や弟の多賀秀種が在城して統治にあたった。


 天正15年(1587年)の九州平定にも参陣し、秀政は先鋒部隊を任される。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。


 天正18年(1590年)の小田原征伐にも参陣、左備の大将を命ぜられる。箱根口を攻め上り、山中城を陥落。小田原早川口まで攻め込み、海蔵寺に本陣を布いた。しかし5月下旬に疫病を患い、5月27日に陣中にて急死した。享年38。


 勝男が秀政と出会ったのは、越前一向一揆討伐の際だ。

 顕如が越前「守護」として派遣した下間頼照や大野郡司の杉浦玄任、足羽郡司の下間頼俊、府中郡司の七里頼周ら大坊主らは、討伐した朝倉氏旧臣の領地を独占し、さらに織田軍との臨戦態勢下にあると称して、重税や過酷な賦役を越前在地の国人衆や民衆に課すなど悪政を敷いた。このため、越前における天台宗や真言宗らが反発し、真宗高田派(専修寺派)をはじめ国人衆や民衆、遂には越前の一向門徒までもが反発。天正3年(1575年)頃から、一揆衆は内部から崩壊しつつあった。


 一方、信長はこの年から領国全域で道路や橋を整備するなど、各地での戦いに備えていた。そして5月には武田勝頼との合戦に大勝(長篠の戦い)、余裕の生じた信長は越前の一向一揆の分裂を好機ととらえ、越前への侵攻を決める。


 信長は8月12日に岐阜を出発し、翌13日に羽柴秀吉の守る小谷城に宿泊。ここで小谷城から兵糧を出し、全軍に配った。14日、織田軍は敦賀城に入った。

 8月15日、風雨の強い日であったが、織田軍は大良(福井県南条郡南越前町)を越え、越前に乱入した。

 信長率いる織田軍は2万余。武将は佐沼勝男、佐久間信盛、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、佐々成政、前田利家、簗田広正、細川藤孝、塙直政、蜂屋頼隆、荒木村重、稲葉良通(一鉄)・稲葉貞通、氏家直昌、安藤守就、磯野員昌、阿閉貞征・阿閉貞大、不破光治・不破直光、武藤舜秀、神戸信孝、津田信澄、織田信包、北畠信雄(伊勢衆)、金森長近、原長頼が動員された。また軍勢の最前列には、越前衆のうち坊官の悪政に反発し織田勢に寝返った国人や浪人、宗徒が配置された。


 これと会わせて、海上からは水軍数百艘が進んだ。若狭の粟屋越中守、逸見駿河守、粟屋弥四郎、内藤筑前、熊谷伝左衛門、山県下野守、白井、松宮、寺井、香川、畑田、そして丹後の一色義道・矢野・大島対馬守・桜井豊前守が動員された。これら水軍は浦や港に上陸し、あちこちに放火した。


 対する一向一揆側は、円強寺勢と若林長門守親子が攻撃してきたが、羽柴秀吉・明智光秀が簡単に打ち破った。羽柴隊・明智隊は200~300人ほどを討ち取ると、彼らの居城である大良越・杉津城および海岸の新城に乗り込み、焼き払った。討ち取った首はその日のうちに敦賀の信長に届けられた。


 この日の夜、織田勢は府中竜門寺に夜襲をかけ、近辺に放火した。背後を攻撃された木目峠・鉢伏城・今城・火燧城の一揆勢は驚き、府中に退却していったが、府中では羽柴秀吉・明智光秀が待ち受けており、2000余りが討ち取られた。この時、鉢伏城に拠った杉浦玄任は討死、城将の阿波賀三郎・与三兄弟は降伏して許しを求めたが、信長は許さず塙直政に命じて殺害した。


 8月15日、織田軍は杉津城に攻撃を開始する。この城は大塩円強寺と堀江景忠が守っていたが、織田の大軍が来襲してきたことを知ると、景忠は森田三左衛門や堺図書助らとともに内応して織田勢に寝返った。これを受けて、板取城の下間頼俊、火裡城の下間頼照、そして今庄の七里頼周は逃亡。一向一揆指導部は完全に崩壊し、一揆衆は組織的な抵抗が不可能な状況に陥った。


 16日、信長は馬廻をはじめとした兵1万を率いて敦賀を出発し、府中竜門寺に布陣すると、今城に福田三河守を入れて通行路を確保させた。


 下間頼俊、下間頼照、専修寺の住持らは越前の山中に逃亡・潜伏したが、一揆衆の不利を悟って織田方に寝返った安居景健に殺害された。景健は下間らの首級を持参して信長に赦免を請うたが許されず、自害を命じられた。この時、景健の家臣の金子新丞父子・山内源右衛門ら3人が切腹して殉死した。


 18日、佐沼勝男・丹羽長秀・津田信澄の3人が鳥羽城を攻撃し、敵勢500~600を討ち取って陥落させた。金森長近、原長頼は美濃口から根尾~徳山経由で大野郡へ入り、杉浦玄任の軍を壊滅させ、数箇所の小さな城を落として一揆衆多数を斬り捨て、諸口へ放火した。杉浦玄任はここで戦死したとも、落ち延びたともされる。


 一揆は完全に崩壊し、一揆衆は混乱の中取るものも取りあえず右往左往しながら山中へ逃げていった。しかし信長は殲滅の手をゆるめず、「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ」と命じた。


 一連の合戦において、一揆衆は1万2250人以上が討ち取られた。さらに奴隷として尾張や美濃に送られた数は3万から4万余に上るとされる。


 9月2日には一向一揆の味方をしたことを問われた豊原寺が全山の焼き討ちを受けた。


 こうして、越前から一向衆は完全に駆逐された。また、1932年(昭和7年)に小丸城跡(武生市、現在の越前市の一部)から発見された瓦に、5月24日(1576年(天正4年)のと比定される)に前田利家が一揆衆千人ばかりを磔、釜茹でにしたことを後世に記録して置く、という内容の書き置きがある。

 

 時代が変わる前はこの戦いに柴田勝家も参戦し、北ノ庄城の城主に任じられているが姉川の戦いで命を落としている。

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