第3話 頭をフル回転させろ!

 伊豆大島生まれの美女、吉良久美子きらくみこは巨額の遺産相続人となった。久美子は旧知の親友、剣持香美けんもちこうみから相談を受ける。香美の婚約者である江戸修が失業し、生活に苦しんでいるため、手を貸してほしいとの要望だった。久美子は江戸と栃木の宇都宮のバーで会うが、江戸のカッコよさにメロメロになり、その直後に彼女は江戸との電撃結婚を発表する。いわば略奪婚だった。


 🗽

 いまや若き富豪となった夫妻は、8月に新婚旅行でニューヨークに赴くが、行く手に香美が姿を現した。香美はスタチュークルーズでリバティ島に向かった。何と!フェリーにかかるのは無料だ。自由の女神を眺めていると香美が「泥棒猫!地獄に堕ちろ!」とに暴言を浴びせて、妨害行為をして来た。香美は船の乗客に、旅行中の私立探偵の佐沼史郎さぬましろうがいることを知り、「香美を遠ざけてほしい」と頼む。だが史郎は依頼を受けなかった。


 一夜が明けた朝、ニューヨーク公共図書館で久美子は銃殺されていた。Kの血文字が残されていたことから、香美が真っ先に疑われたが、彼女にはアリバイがあった。彼女はエンパイアステートビルに来ていたのだ。最終入場は午前1時15分とかなり遅い時間までやっている。久美子の死亡推定時刻は0時30分、入場券を警察はしっかりと拝見した。

 

 僕は関係者を洗い出した。久美子の叔父で財産の管理者でもある吉良純生きらすみお、久美子を彷彿とさせる登場人物をネタに小説を執筆した作家背沼蒼佑せねまそうすけ、蒼佑の娘で久美子に嫉妬心を抱く貴恵たかえ、久美子のダイヤモンドを欲しがる怪盗チャーリー、久美子に藪医者呼ばわりされた医師の津田哲哉つだてつや。いずれも久美子と揉め事を起こしていた。

 さらには、メイドの富山夏子とみやまなつこは久美子に自身の結婚を破談されたと信じている。

 

 僕は最近、早口言葉を成功させると魔法を駆使できるようになった。敵を眠らせる魔法(怪物だけでなく人間も)……『隣の客はよく柿食う客だ』を3回言えたらOK!


 8月6日

 広島市で原爆投下から70年の節目の「原爆の日」を迎えたこの日、平和記念公園で「平和記念式典」が行われ、海外から過去最多となる100カ国の代表を含む、およそ5万5000人が参列。


 前身大会から数えて、創設100年の節目となる第97回全国高校野球選手権大会が、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開幕。


 僕は巨大デパート『ザックスフィフスアベニュー』にやって来た。5番街中心部の1ブロックを占めている。広大なシューズフロアに目まいを覚えた。

 背沼蒼佑と富山夏子が肩を寄せ合い歩いている。

「彼女が亡くなって自由になったな」と、蒼佑。

「今夜はたっぷり可愛がってね?」


 8月9日

 長崎に原子爆弾投下から70年を迎えたこの日、長崎市の平和公園で長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が行われ、被爆者や遺族などおよそ6800人のほか、原爆を投下したアメリカから核軍縮を担当する政府高官が初めて出席するなど、これまでで最も多い75か国の代表が出席。


 8月11日

  鹿児島県川内市の九州電力・川内原子力発電所1号機が、福島第一原子力発電所事故後に策定された原子力規制委員会の新規制基準に則って初めて再稼働した。

 

 ニューヨーク市警のニックは勤務中に遭遇した強盗事件で犯人に撃たれ負傷してしまう。療養中に提出しておいた転属願いにより防犯タクシー隊に配属された。イエローキャブに扮した警察車両で防犯活動を行うのが仕事だ。

 アメリカへの入国者のチェックをしていると既に死亡しているロシア人の名を騙った入国者を発見した。

 パスポートの写真を照会すると、その人物は国際刑事警察機構から手配されている国際的な暗殺者・沼田音生ぬまたねおであることが分かり宿泊先のホテルに向かうものの一足違いで取り逃がしてしまった。その後、街中でニックは偶然に暗殺者の姿を見かけ、逗留先を突き止めて監視活動に入ったがその動きから暗殺者の目的は皆目知れなかった。


 暗殺者の監視中にヤンキー・スタジアム(日本だと松井秀喜、イチロー、田中将大などが活躍した)周辺で姿を見失ってしまった時、同時刻にそこに居たのが警察委員長(ニューヨーク市警のトップ)の

ノーマンだった。警察委員会(Police Commission)は日本の公安委員会に相当する行政委員会である。ニューヨーク市警の警察委員長はニューヨーク市長が任命し任期は5年。通常は市長が交代すると辞任し、次期市長が新しい委員長を任命する。警察委員長は数名の警察委員を任命できる権限がある。


 警察委員は法律上、NYPDの警察官ではない(日本の公安委員が警察官ではないのと似ている)。歴代の警察委員長や委員にはNYPD出身者も多いが、これは警察委員会が実務的なマネジメントを行うからであり、警察での業務経験が制度上必須と言うわけでは無い。制服組から任命された警察委員は州ピース・オフィサーの資格があることもあり、警察委員として就任中も銃器携帯に許可証が必要なく、また同市警察年金の対象となっている。

 

 ニックは暗殺者の目的がノーマンであることを確信し警告を発した。しかし、何らかの対策が講じられる様子も無く何故かニックは任務から外され、共に捜査をしていた同僚も他の部署へと振り向けられてしまう。そして、ニック達がそれまで集めた暗殺者に関する証拠物件もいつの間にか消えていた。


 8月20日

 僕は伊豆大島にやって来た。津田哲哉と吉良純生を追っていた。東京の竹芝桟橋からジェット船に乗り、1時間45分で到着した。

 島につくなり、2人は愛らんどセンター御神火ごじんか温泉ってところにやって来た。

 ジャグジーや打たせ湯、サウナなどが完備されている。温泉に入った後は温水プールで泳いだ。

 その後、喫茶コーナーでコーヒーを飲んだ。☕

 鳩時計がポッポーと時間を知らせた。午前10時になったところだ。その後、レンタカーで三原山に向かった。僕はバギーで追跡した。


 僕は漆黒の大地を眺めていた。真っ黒な砂の正体はスコリアという火山噴火物の一種だ。強風が吹いている。10分ほど歩くと第1展望台に到着。津田たちは記念撮影をしている。しばらく進むとクレーターが出現した。地理の時間に習ったな、これはカルデラだ。もしかしたら、息子が見たのはカルデラだったのかな?

 霧が立ち込めてきた。幻想的な景色に僕は溜め息を吐いた。🌁

 砂漠の探検を終えると、2人は元町に向かった。


 元町には老舗旅館や食堂が林立している。

 郷土料理屋に入った。島のりおむすびやメジナ唐揚げポン酢添えなどどれも美味しかった。

 食事をしながら津田が過去の過ちを話しだした。

 津田が虫垂炎手術の際、誤って患者の回腸を傷付けてしまい、腹膜炎を併発させて患者を死亡させたようだ。が、津田は魔法を使って過ちをなかったことにすることに成功したそうだ。

 僕は似たような事例を調査したことがある。医師が患者の盲腸手術の際に麻酔薬を指示したところ、看護師が誤って静脈注射用止血剤を持ち出し、医師が薬剤を確認せずに注射して患者を痙攣や呼吸困難で死亡させるミスが発生したのだ。


 食事の後、伊豆大島火山博物館にやって来た。三原山をはじめとする世界の火山について学べる施設だ。

 火山は、地殻の深部にあったマグマが地表または水中に噴出することによってできる、特徴的な地形をいう。文字通りの山だけでなく、カルデラのような凹地形も火山と呼ぶ。火山の地下にはマグマがあり、そこからマグマが上昇して地表に出る現象が噴火である。噴火には、様々な様式があり、火山噴出物の成分や火山噴出物の量によってもその様式は異なっている。

 火山の噴火はしばしば人間社会に壊滅的な打撃を与えてきたため、記録や伝承に残されることが多い。

 Volcano は、ローマ神話で火と冶金と鍛冶の神ウルカヌス(ギリシア神話ではヘーパイストス)に由来し、16世紀のイタリア語で volcano または vulcano と使われていたものが、ヨーロッパ諸国語に入った。このウルカヌス(英語読みではヴァルカン)は、イタリアのエトナ火山の下に冶金場をもつと信じられていた。シチリア島近くのヴルカーノ島の名も、これに由来する。日本で volcano の訳として「火山」の語が広く用いられるようになったのは、明治以降である。

 火山の地下には、必ずマグマ溜りが存在する。マグマだまりの深さは、地下数kmから数十kmとされる。このマグマだまりから岩盤を突き抜け、何らかの理由でマグマが地上に放出される、その地点が火山である。マグマが地上に到達するまでに通るルートを火道と呼び、火道が地上に抜ける地点を噴火口と呼ぶ。火道はしばしば主火道から逸れて形成され、その副火道が地上に噴出すると側火山と呼ばれる小火山を形成する。また、副火道が地上に噴出せず地下にとどまったままのものを岩脈、岩脈が地層に沿って平行に地中で広がったものを岩床と呼ぶ。


 2人はそれから陶芸工房にやって来た。ろくろなどの機械を使わない手びねりで作品を造る。3500円の体験料は少し高いと思った。  

 純生はベテランらしく、手こずることなく瓶を完成させた。

 陶芸のあとは海岸で釣り、津田はアジとサバ、純生はカンパチとマダイ、僕は坊主だった。🎣

 黄昏のサンセットをブラブラ歩いた。

「明日は9時半にヘリポートな」と、純生が言った。

 利島にでも行くのだろうか?

 2人は元町の山腹の森に佇む隠れ家リゾートに泊まった。

 僕はというと、港から徒歩圏内にあるゲストハウスに泊まった。和室で、バスタオルやドライヤーなどのアメニティも充実していた。

 素泊まりで5000円、かなり安い。

 夜はスナックに出かけた。赤が基調のシックな店内で、ソファに座りジンフィズを飲んだ。美しい女性客が『ヒロイン』(back number)を歌っている。僕は思わず聞き惚れた。

 僕は『ワタリドリ』(Alexandros)を歌った。久しぶりのカラオケでストレスが解消された。


 翌朝、9時半にヘリポートにやって来た。7人乗りのヘリに僕は乗り込んだ。その中には吉良純生もいたが、津田哲哉の姿はなかった。風邪でも引いてしまったのだろうか?利島まではわずか10分だった。

 伊豆諸島北部の利島全域を村域とし、伊勢エビ、サザエ(大サザエ)などが有名だ。気候は温暖である。

 所属する郡はなく「東京都利島村」が正式な表記である。所管する都の行政出先機関は大島支庁。

 農林業 - 椿の栽培が盛ん。全島の80%を占める椿林から生産される椿油は、日本一の生産量を誇る。島内に多数の産業用モノレールが敷設されており、椿の実の収穫の際などに活用されている(産業用のため、一般人の乗車はできない)。

隣の大島町で売られている椿油も利島産のものが多い。農業生産者から集められた椿実を、島内の製油センターで搾油・精製し、農業協同組合が販売している。他にシドケやアシタバが生産・出荷されている。

 以前は、サクユリという百合の栽培も盛んであった。現在でも球根の出荷は行われている。


 水産業 - イセエビ、サザエ、タカベ、トサカノリ、ハバノリ、メッカリ、金目鯛等が中心。

利島産のサザエは非常に大きく「利島の大サザエ」と呼ばれ、島内では1個350グラム前後が標準サイズで、さらに大きなサザエになると1キログラム近いものが採れる。一般的に1個200グラムほどでも、特大サイズとして扱われているため、利島産がいかに大きいことがわかる。


 サービス業 - 就労人口の65%を占める。観光業を中心とするが、伊豆諸島の他の島に比べると、交通の便に恵まれないこと、海水浴場や温泉といった観光資源がないことから、観光客の誘致には消極的である。

 2011年ごろから、御蔵島のものと思われるイルカが出没するようになり、観光客が増えている。

 

 僕は現地の老人に、利島について尋ねた。島の緑の8割近くを占める椿の他に特段見どころは無く、伊豆諸島の中で、産業としての観光に依存する意識がもっとも希薄な島の一つである。そのため、観光客は、驚きの目をもって島民達に迎えられる。天候の良いときは富士山を眺めることができ、島の南側に設置された展望広場からの眺めは絶景で、利島より南側にある伊豆諸島の島々を眺めることができるそうだ。

 年中通して釣り客が訪れる。椿の花の見頃には多くの愛好家がトレッキングに訪れる。キャンプおよび野宿は全島で禁止されている(村営バンガローのある御蔵島村のように安価に宿泊できる施設もない)。旅館が1軒、民宿は数軒ある。また、勤労福祉会館内にボウリング場が併設されている。レーン数は2レーンで1ゲーム300円。たまにボウリング大会が開かれているが、普段は個人も含め利用者はあまりいない。

 

 純生は釣りが目的なようで釣り竿やクーラーボックスを持ってきていた。

 僕もそこそこ釣りが好きだ。フライ・フィッシングが特に好きだ。

 フライ・フィッシングとは、欧米式の毛針であるフライを使う釣りである。起源はイギリスの貴族で、現在も格調高い紳士のスポーツとして楽しまれている。

 日本では1902年(明治35年)、栃木県日光市の湯川と湯ノ湖に、英国商人トーマス・グラバーがカワマスを放流して楽しんだことが始まりとされる。このため、この一帯は「日本のフライフィッシングの聖地」と称される。

 日本の伝統的な毛針を使った釣りであるテンカラ釣りがこれと大きく異なる点は、リールを使用しないことと毛針による誘い方の違いである。

 

 僕は純生のすぐ近くで釣りをした。タカベを釣ったときは腰が抜けそうになった。全長20cmほどだ。体型は紡錘形で体色は背部が青色、腹部は銀色であり、背部の中心から尾鰭全体にかけて特徴的な黄色または黄金色を呈している。顎は小さく頭部は若干丸みを帯びている。岩礁近くに群棲し、動物性プランクトンなどを捕食する。マアジやマサバ等と比較すると顎が非常に小さいことから釣りにくく、タカベは「餌取り名人」といえる。

 外見が似ていることからしばしばウメイロと混同されるが、ウメイロはスズキ目フエダイ科に属する別種の魚である。タカベにおいては後背部の黄色が背鰭や尻鰭にも見られるのに対し、ウメイロの背鰭・尻鰭は黄色くない。またウメイロは全長40cm程度とタカベに比較して倍近く大きい。

「アンタ、やるじゃねーか」

 純生が声をかけてきた。

「いや〜それほどでも〜」

「クレヨンしんちゃんかよ」

 純生は55歳、僕と同い年だ。

「それにしても暑いですな〜」

「夏だからな」

「どこから来られたんですか?」

「生まれは伊豆大島だが、今は東京に住んでいる」

 純生の職業は外交官だ。

 臨時の外交使節を派遣・接受することは紀元前の中国やギリシャなど非常に古くから行われ、日本の遣隋使や遣唐使もその例であるが、常駐の外交使節団が初めて置かれたのは13世紀のイタリアであったといわれている。ミラノ公国がジェノヴァ共和国に初めて公使館を設置して以後、イタリアの諸国家間で国家間の交渉に専門的に従事する外交官が相互に派遣されるようになり、またカトリック教会の長であるとともにイタリアの一君主としても位置づけられたローマ教皇も各国に教皇派遣使節を送った。14世紀にはイングランドのジェフリー・チョーサーが外交活動をしており、また1455年にはミラノがフランス宮廷に常駐使節を送り、そのシステムは主権国家が形成されるようになった16世紀以後ヨーロッパ各地に広まるとともに、外交慣行の基礎が形成された。


 絶対王政期には、宮廷内部において国家の重要な政策決定が行われることが増加し、そのために君主あるいはその側近との個人的関係が外交交渉の成否に深く関わるようになった。一流の外交官は公式の場ではなく、夜中に接受国の君主の寝室に通されて直接重要交渉を行うものとされていた(閨房外交(Boudoir Diplomacy))。また、接受国における主君の代理として自国の名誉を守る責務も課されており、接受国での宮廷内における外交官同士の序列が時には互いの国家の尊厳に関わるものとして激しい議論や決闘にいたる例もあった。そのため、外交官には貴族や軍人などが任命されることが多かった。その後、国民国家の成立とともに宮廷外交・閨房外交の時代は終わり、交渉能力とともに相手国の各種情報を総合的に蒐集・報告する能力が求められるようになった。こうした中で職業外交官も外交専門職任用試験を経た人材が登用されるようになっていった。


 常駐使節の制度は1648年のヴェストファーレン条約締結以降一般的な慣行と化したが、一般条約である外交関係に関するウィーン条約が採択されたのは1961年である。


 常駐外交使節団を構成する外交官の任務は接受国で派遣国を代表し、その意思の表明、交渉、条約の締結を行うこと(代表機能)、接受国の事情について適法な手段により一切の情報を収集し派遣国に報告すること(報告機能)、両国間の関係の促進をはかること(推進機能)に大別される。

 また、特定の問題の交渉や任務にあたる特別使節団も、実質的に常駐外交使節団と同等の扱いを受ける。

「東京だと、就職とかもしやすいでしょう?私は栃木県出身なんですけど、就職活動には苦労しましたよ」

 大学院を卒業し、25歳のときに刑事になった。時は1985年、日米貿易摩擦の深刻化を打破するためプラザ合意が結ばれ、この年は円高不況となった。しかし同時にこれは翌年以降のバブル景気の契機ともなる。

 いちご大福(玉屋)やのど飴(ロッテ)といったその後メーカーの壁を超えて市民権を得ていく商品が登場した。

 携帯電話の先駆けとなるショルダーフォン(NTT)が登場し、話題を集めたが携帯性の低さから普及には至らなかった。

 いじめ問題が深刻化、この年は「いじめ自殺元年」といわれた。

 眉を太く描くメイクが流行したほか、ペイズリー柄が再人気を呼んだ。またコンサバと呼ばれる保守的なファッションがトレンドとなった。

 ファミコン用ソフト『スーパーマリオブラザーズ』が発売され空前の大ヒットを記録、社会現象となる。

「栃木ですか、山口智子とか小田茜が有名ですね」

「山口さん、『古畑任三郎』とか『王様のレストラン』に出てらした」

「三谷幸喜ファンですか?『新選組!』は面白かったな」

 純生や久美子は吉良上野介の血を引いているのだろうか?  

 吉良義央きらよしひさは、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件で浅野長矩により刃傷を受け、隠居後は赤穂浪士により邸内にいた小林央通、鳥居正次、清水義久らと共に討たれた。同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介。一般的には吉良上野介と呼ばれる。

 本姓は源氏。清和源氏足利家支流。鎌倉時代に足利家から足利宗家継承権をもったまま分家した支族(長男でありながら母が側室であるため足利宗家を継承できなかった為に宗家継承権を持ったまま分家するという特例措置)であり、後に足利家が将軍家へと栄達した室町時代には足利将軍家が途絶えた際には次に吉良氏から将軍を輩出すると言われた程の名門であったが、実際には足利将軍家に重用される事もなく名門意識を持ちながら三河の地に埋もれ、戦国時代には更に没落し貧窮していた。徳川家康が源氏を名乗る際には、吉良氏の家系図を借用したとも言われる。徳川幕府により旗本3000石(後に4000石)に取り立てられた家格の出自である。家紋は丸に二つ引・五三桐。足利家が上杉家と縁続き(足利尊氏の母が上杉家出身)であるため代々足利一族と上杉家は婚姻外交を繰り返しており、その関係で吉良家も上杉家とは古来からの縁者である。


 寛永18年(1641年)9月2日、高家旗本・吉良義冬(4,200石)と大老・酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。一説によれば、陣屋があった群馬県藤岡市白石の生まれともされる。義冬の母及び父方の祖母が高家今川家出身で、今川氏真と北条氏康の娘・早川殿の玄孫、武田信玄の傍系の子孫である。継母は母の妹。


 弟に東条義叔(500石の旗本)、東条義孝(切米300俵の旗本)、東条冬貞(義叔養子)、東条冬重(義孝養子)、孝証(山城国石清水八幡宮の僧侶・豊蔵坊孝雄の弟子)の5人がいる。妹も2人おり、うち1人は安藤氏に嫁いだ。


 承応2年(1653年)3月16日、将軍・徳川家綱に拝謁。明暦3年(1657年)12月27日、従四位下侍従兼上野介に叙任。


 万治元年(1658年)4月、出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚。


『上杉年譜』では「万治元年3月5日、柳営において老中・酒井忠清、松平信綱、阿部忠秋列座のなか、保科正之から三姫を吉良上野介へ嫁がせるべき旨を命じられたことを千坂兵部が(綱勝に)言上した」と幕命による婚儀と記している。


 富子との間に二男四女(長男・三之助、次男・三郎、長女・鶴姫、次女・振姫、三女・阿久利姫、四女・菊姫)に恵まれた。ただし次男・三郎と次女・振姫は夭折。


 万治2年(1659年)から父とともに出仕する。部屋住みの身分ながら、家禄とは別に庇蔭料1,000俵が支給された。


 寛文2年(1662年)8月には、大内仙洞御所造営の御存問の使として初めて京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜る。以降、生涯を通じて年賀使15回、幕府の使者9回の計24回上洛した。父の義冬がまとめた吉良流礼法の後継という立場から、部屋住みの身でありながらも使者職を任じられており、通算24回もの上洛は高家の中でも群を抜いている。こうした扱いは、徳川家が新しく武家の礼法を欲していた為ともいわれている。


 寛文3年(1663年)1月19日、後西上皇の院政の開始に対する賀使としての2度目の上洛の際、同年2月3日、22歳にして従四位上に昇叙。


 寛文4年(1664年)閏5月、義兄・上杉綱勝が嗣子なきまま急死したために米沢藩が改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、長男・三之助を上杉家の養子(上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で危機を収束させた。綱勝急死は義央による毒殺説が存在するが、これは上杉家江戸家老・千坂高房らと対立して失脚した米沢藩士・福王子八弥の流言飛語とも言われ、毒殺説の信憑性は乏しいとされている。


 以後、義央は上杉家との関係を積極的に利用するようになり、財政支援をさせたほか、3人の娘達を上杉家の養女として縁組を有利に進めようとした。長女・鶴姫は薩摩藩主・島津綱貴の室、三女・阿久利姫は交代寄合旗本・津軽政兕の室、四女・菊姫も旗本・酒井忠平の室となっている(鶴姫は1680年11月20日に綱貴に離縁され、菊姫も死別するが、のちに公家・大炊御門経音の室となって1男1女を産む)。


 寛文8年(1668年)5月、父・義冬の死去により家督を相続する。時に28歳。


 延宝8年(1680年)8月29日、高家の極官である左近衛権少将に転任し、延宝8年(1680年)11月20日に島津綱貴に嫁いでいた鶴姫が離縁される。天和3年(1683年)3月には大沢基恒、畠山義里とともに高家肝煎に就任した。貞享3年(1686年)に領地のあった三河国幡豆郡に黄金堤を築いたという伝承があるが、実際に義央が築堤したという信憑性は乏しいとされている。


 また、長男・綱憲の上杉家入り以後、嫡男は次男・三郎だったが、貞享2年(1685年)9月1日に夭折。綱憲や幕府とも協議の末、綱憲次男の春千代を吉良左兵衛義周と改名させて養子とし、元禄3年(1690年)4月16日に江戸鍛冶橋の邸宅へ迎え入れた。


 元禄11年(1698年)9月6日、勅額火事により鍛冶橋邸を焼失し、のち呉服橋にて再建する。この大火で消防の指揮をとっていたのは播磨赤穂藩主・浅野長矩であった。


 元禄14年(1701年)2月4日、赤穂藩主・浅野長矩と伊予吉田藩主・伊達村豊両名が、東山天皇の勅使である柳原資廉・高野保春、霊元上皇の院使である清閑寺熈定らの御馳走人を命じられた。義央は高家肝煎饗応差添役だったが、朝廷への年賀の使者として京都におり江戸に帰着したのは2月29日だった。長矩は過去に1度、勅使御馳走人を経験していたのだが、以前とは変更になっていることもあって手違いを生じていた。ここに擦れ違いが生じた、と見る向きもある。


 3月14日午前10時過ぎ、松之大廊下において、義央は浅野長矩から背中と額を斬りつけられた。長矩は居合わせた留守居番・梶川頼照に取り押さえられ、義央は高家・品川伊氏、畠山義寧らによって別室へ運ばれた。外科医・栗崎道有の治療もあって命は助かったものの、額の傷は残った。その後、目付・大久保忠鎮らの取り調べを受けるが、長矩を取り調べた目付多門重共の『多門筆記』によると、義央は「拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心と相見へ申し候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由」と答えている。長矩は、即日切腹を命ぜられた。


 義央は3月26日、高家肝煎職の御役御免願いを提出。8月13日には松平信望(5000石の旗本)の本所の屋敷に屋敷替えを拝命。受領は9月3日であった。当時の本所は江戸の場末で発展途上の地であった。なお旧赤穂藩士との確執が噂され、隣家の阿波富田藩蜂須賀飛騨守から吉良を呉服橋内より移転させるよう嘆願があったとされる[2][注釈 1]。これは堀部安兵衛らが大石に送った8月19日付書簡に書かれてあったことで、後世になって流されたものとされる。


 また、屋敷替えに富子は同道していなかったといわれてきたが、義央も隠居し、養嗣子の義周に家督を譲って以降は、妻の富子らと共に上杉屋敷などに住み、本所屋敷には常住していなかったことが『桑名藩所伝覚書』・『江赤見聞記』・『忠誠後鑑録』などの複数の史料によって判明している。


 この屋敷替えに合わせるように、8月21日、大目付の庄田安利、高家肝煎の大友義孝、書院番士の東条冬重など、義央に近いと見られた人物が「勤めがよくない」として罷免されて小普請編入となっている。


 12月11日、義央は隠居願いを提出した。これは即座に受理された。養嗣子・義周が家督を相続した。元禄15年(1702年)7月に浅野長矩の弟・長広が浅野本家に預かりとなった。

 これと前後して茶人・山田宗徧は本所に茶室を構えていたので、義央から吉良家の茶会にしばしば招かれていた。12月14日に本所の吉良邸で茶会があるとの情報が宗徧を通じて、宗徧の弟子・脇屋新兵衛(その正体は四十七士の一人大高忠雄)につかまれていた。


 義央は養嗣子の義周に家督を譲って以降、上杉屋敷などに住み、本所屋敷には常住していなかったため、常に上杉の兵達に守られている状況にあった。そのため、義央が上杉屋敷を離れ、本所の吉良邸で茶会を行うこの日を元赤穂藩筆頭家老・大石良雄は討ち入り日に決定した。


 12月15日未明に、大石を始めとする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入った。当時の吉良邸には、諸説あるが『桑名藩所伝覚書』に「上杉弾正様より吉良佐平様へ御附人之儀、侍分之者四十人程、雑兵共百八十人程参居申候よし」とあるように、上杉家(米沢藩)から220人ほどが派遣されていて、義央の警固にあたっていたとされる。


 討ち入った赤穂浪士はまず、家臣達が寝起きする長屋の戸口をかすがいで打ちつけ、吉良家の家臣達が出られないように工作を行った。 そのため、戸口を破って応戦したり、逃亡した者数名を除いて、長屋から出なかった者達(用人1人、中間頭1人、徒士の者5人、足軽7人、中間86人)と赤穂浪士らに抵抗しなかった裏門番1人の合計101人には、死傷者は出なかったとされる。


 赤穂浪士らの襲撃に気づいた吉良家の者達は、この時の当主・義周をはじめとした吉良家臣40名ほどが防戦にあたり、その間に、義央は寝所から二人の供を連れて、台所横の炭小屋に隠れた。赤穂浪士らは吉良家の家臣達と戦いながら 義央の捜索にあたったものの、容易に見つけることはできなかった。 しかしながら、義央の寝所にたどり着いた赤穂浪士のうち、茅野和助が夜具に手を入れ、まだ夜具が温かい事を確認すると、赤穂浪士らは義央が寝所から離れてそう時間が経っていないと判断し、再び捜索にあたった。


 そして、吉田兼亮や間光興らが、台所横の炭小屋から話し声がしたため、中へ入ろうとした。すると、炭小屋にあった皿鉢や炭などが投げつけられ、赤穂浪士らに向かって2人の吉良家臣が斬りかかってきた。そのため、その二人を切り伏せ、炭小屋内を調べると、奥で動くものがあり、間光興が槍で突いた。間光興が突いたのは 寝所から逃げてきた白小袖姿の義央で、義央は脇差を抜いて抵抗したが、武林隆重に斬り捨てられ、首を討たれた。享年62(満61歳)。

 

 

 

 

 

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