五
姉のとてつもない暴力にあった後からしばらくの間の記憶は、友幸の中からすっぽり抜け落ちている。姉からの折檻のあと、更に嫌なことでもあったのか、あるいは怪我のせいでなにかを考えるどころの話ではなかったのか。
とにかく友幸の次のはっきりとした記憶は、小学五年生になったあと。つまり、姉が小学校を卒業してから始まる。
この頃になると友幸の頭の中は随分と整理されている。端的に言えば、周りがなにを求めているのかを理解しはじめていた。教師の発する言葉の意味をしっかりとれるようになったのにはじまり、他人が話しかけてくる言葉の意味もおおむね呑みこめるようになった。なぜ、急にこうなったのかは、友幸本人にもよくわからなかったが、ほぼほぼ同時期に図書室で読んでいた本から楽しみを見出すようになりはじめていたのもあり、そこら辺が関係しているのではないのか、と踏んでいる。これにともない、今までほとんど山勘で書いて提出していたテストも、しっかり意味をとった上で解答できるようになり、文系科目限定ではあるがクラス上位に食いこむようにもなった。
とはいえ、生まれてから十年近く、ほとんどなにもわからないまま生きてきた年月を消し去るのは容易ではなく、周りからの扱い自体はあまり変わらなかった。むしろ、なまじテストの点数が良かったのをあげつらわれ、やっかみの対象にすらなった。加えて、友幸自身も内向的なままで、体も依然として小さかったため、同姓のクラスメートを中心として、手持ちの筆箱や教科書をブーメランやボール代わりにされたり、羽交い絞めにされて電気あんまをされたりした。
いっそ、テストの問題をわざと間違えてしまおうか。クラスメートたちの標的にされる理由の一端がそこにあるのであれば、その方がいいのではないか。友幸自身、テストの解答欄に赤い丸がつくことに快感を覚えなくはなかったものの、そのせいで自分にとって嫌なことが増えるのであれば、いっそ、白紙で提出した方が良いのではないのか。そんな考えを起こしかけた。しかし、その計画は、答案用紙を見ていつになく喜ぶ母親や機嫌がよくなった父親の顔を見て頓挫した。
これまでの人生においても、両親は友幸がしてはいけないことをした時に叱りはしたものの、姉や近所の子供、クラスメートや一部の教師とは異なり、一方的な貶し言葉を向けてはこなかったため、嫌なことをしない人、という認識があった。その両親が、これまでの人生で見た中で一番の喜びとともに誉めてくれた。さすがに、この人たちが嫌がるようなことはしたくない。そんな思いが友幸の中で根付いていた。
ゆえに友幸はテストには自分なりに真剣に取組みつつ、たびたび教室で誰かのオモチャにされるような生活を送り続けた。とはいえ、クラスメートたちの興味はあちこちに向いていたため、友幸に対する過度ないじりも、所詮は数ある遊びの一つでしかなく、少し興味が逸れれば、放っておかれる。そういった空き時間の過ごし方は以前と変わらず、図書室で費やされることになった。教室で読んでいると、本ごと投げられる可能性があるというのもあったが、それ以上に自身の興味が学級文庫から逸れたのがあげられた。この頃になって、ようやく友幸の中に好みというものが生まれつつあった。
今までは比較的無秩序に選んでいた本の類から、主に小説などの物語を好みはじめた。思い返してみれば、朝や夕方にやっているヒーローものを楽しめていたので、元々お話というものを楽しむ素養はあったのかもしれないが、言葉と意味が繋がり知性を持つにいたる前段階においては、テレビなどでやっているものと本の中にあるものが上手い具合に繋がっていなかった。ここに来てようやく、暇潰しでしていたことに楽しみが生まれた。
子供用の西遊記、ハリーポッターなどからはじまり、黄色い部屋の秘密やホームズなどの推理小説、坊ちゃんや雪国といった文豪の書いたものまで。中には面白さや意味がよくわからないものもあったものの、とにかく物語らしきものを読み漁り続けた。そうしていくうちに、友幸は意識らしきものを自覚するにいたった。意識らしきものがはっきりしていくにつれて、楽しみも増えれば嫌なことも増していく。それはおそらく人間らしさの会得だったと後々の友幸は考えていた。
そんなはっきりとしはじめた意識の元、友幸の目に映る姉の姿もまたわずかな変化を強いられた。
記憶の脱落期間に誰かに諭されたせいか、あるいは顔を見るのも嫌になったからか、姉は以前にも増して徹底的に弟である友幸のことを無視した。挨拶しても帰ってくることはなくなったし、それどころかまるで見えていないみたいに目の前を横切られることがほとんどだった。
まるで、本当に見えていないみたいだ。そんな感想を抱いた友幸は、以前大人向けの本で似たような話を読んだおぼえがあったのもあり、半ば本気で姉には自分が見えていないのではないのかと疑いかけたものの、一度家の中でぶつかった際に、どけぐず、と怒鳴られた経験から、一応目に入ってはいるらしい、と判断した。
とにもかくにも姉が空気のように弟を扱うということは、弟側からも姉は実質空気のようになるということでもある。実際、物理的にはそう言って差しつかえはなかった。
多くの場合、姉はいるだけで目を惹いた。
少年のように短かった髪は肩を覆うくらいまで伸び、手足はよりすらりとしはじめていた。大女と呼ばれない絶妙な範囲まで伸びた身長に小さく整った顔立ちは、友幸がぼんやりとテレビで見たことのあるファッションモデルを彷彿とさせた。
これが美しいものなのか。何度か盗み見た際、そんな風な考えを持った。少なくとも同年代の知り合いの中では、郡を抜いて人目を惹くというのが、友幸の素直な感想だった。
姉は中学で入った陸上部では短距離走において好成績をおさめ、成績もまた校内で十位以内で、おまけに多くの友人に慕われている。友幸の同年代の知り合いと両親からはそんな情報が入ってきた。そんな人が、どうやらぼくのことだけは酷く嫌っているらしい。そう認識しつつ、友幸はなぜ、そうなっているのかよくわからない。
持ちはじめたばかりの知性らしきもので考えるかぎり、過去に姉に対して悪いことをいくつかしたのだろうというのはわかったし、そのいくつかもあげられる。しかし、だからといって徹底的に無視されるほどのことだろうか。車が走っている横断歩道に飛び込めといわれるほど嫌われるものだろうか。友幸にはとんとわからないし、考えても答えらしきものは一向にみつからない。そのうち、思考を止め、そういうものなのだろう、と片付けた。聞いてみれば、万が一にも答えてくれるかもしれなかったが、散々嫌がられた末に、以前と同じように折檻される可能性がある以上、どうにも躊躇われた。姉の気持ちに対しての興味は心の中にあり続けたものの、わざわざ嫌な思いや痛みをおってまで満たしたいわけでもなかったため、もやもやはもやもやのまま放置された。
そんなわけで同じ家の中に住む弟と姉はお互いに触れ合わないまま暮らし続けることとなった。とはいえ、否が応でも顔を合わせなくてはならないのは食卓くらいであり、慣れれば、これもまた、そういうものだと呑み込めた。むしろ食事の時ですら、どことなくぎこちない空気に呑みこまれているのは両親たちで、友幸も姉も特に会話をかわさないというだけでたいして気にならなかった。ただ比較的食事の合間に話をしがちな両親にとってはやりにくいことこのうえなかったらしく、父にしても母にしても、弟と姉に交互に話しかけては、二つの話題を同時にこなしたりしていた。
まるで、家の中が二つの世界に分かたれたみたいだったな。後年、苦笑いしながらそう語る父を見て、友幸はすまなかったなぁ、と思ったたものの、この頃は、これが普通なんだろう、くらいの認識で生きていたため、気になりもしなかった。
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