あれは小学校高学年になった頃だったと友幸は記憶している。おそらく、姉がまだランドセルを背負っていたところや、低学年まで行なっていた集団下校をしていなかったおぼえがあるところからすれば、ぎりぎり高学年になっていた時期だと推測できた。

 この頃もまた、まともな友達がいない友幸は、休み時間を図書室でやり過ごすというすべをおぼえはじめ、放課後もぼんやりと本に目を落とす日々を送っていた。さすがに何年も似たような生活を送っていれば、ある程度は本の内容が頭に入ってくるようになってはいたものの、相変わらず中身に対しての関心は薄く、学校の怪談がまとまったようなものや、子供用の三国志、星座図鑑などをパラパラと捲って時間を潰していた。

 こうした日々のうちのとある一日、友幸が下校時刻ぎりぎりまで粘ってから下駄箱を飛び出したところで、ばったり姉と出くわした。いつも人に囲まれていることが多いこの年上の少女にしては珍しく一人だった。

 すぐさまあの蔑むような眼差しが姉から向けられた。友幸は、嫌な人に会った、と思いつつも、軽く黙礼したあと、一人で帰ろうとした。しかし、そこは一緒の家に住む姉と弟。望もうと望むまいと帰りつくところは一緒なため、足並みは揃わなくても同じ通学路を経ることになる。

 夕焼け空の下、校門を出る。眼鏡をかけた中年女性の先生からのさようならに、姉は満面の笑みを浮かべて、さようなら、を返し、友幸は黙ったまま静かに礼をして過ぎ去った。後ろから微かな声で漏らされる、お姉ちゃんに比べて愛想が悪いわよねあの子、という言葉を、友幸の耳はしっかりととらえていたが、いつものことだったため、さほど気にならなかった。

 サツマイモ色のタイルで作られたなだらかな下り坂じみた歩道を、二人ともしばらく無言で歩く。小学生の下校時刻にしては遅めなせいか、あまり人とすれ違わない。その際、先行する姉の背丈は相変わらず高く、あらためて、大きいなという印象が強まる。そうやって坂を延々と下り、信号に足を止められた。ここを渡れば、少し長めの上りになり、ほぼほぼ家まで一直線だった。

「あんたさぁ」

 唐突に、姉が言葉を発する。友幸は幾分か間を置いてから、それが自分に向けられたものだとようやっと気付いた。

「その年になって、ちゃんと挨拶もできないわけ」

 姉は振り向かないまま言葉を続ける。この頃、既に二人の間の会話すらろくになくなっていたため、友幸としてはどう反応していいかわからず、しばらくの間、瞬きを繰り返すばかりだった。 

「きいてるの」

 苛立たしげな声そのままに姉が振り向く。目の中には声と同じように怒りが宿っているように見えた。とはいえ、いまだにどう答えていいかわからず、ただただ頷くしかない。

「それはなににうなづいてるわけ。ちゃんと言わないとわかんないんだけど」

 信号が青に変わった。姉はそれに気付いたのか気付いていないのか、横断歩道に背を向けたままでいる。

「きいてる、よ」

 どこかこもった声で応じたあと、友幸は横断歩道へと歩を進めようとする。ここの信号は変わるのが早く、急がなければならなかった。しかし、その肩を姉ががっしりと掴んだ。指が食い込みそうなほど強い力だった。

「なに、いこうとしてるの」

「だって、信号変わりそうだし」

「そんなのあとでいいでしょ。今、あんたはあたしと話してるんだから、ムシすんな」

 直接、耳に向けて叫ばれたせいか、鼓膜が悲鳴をあげそうになり、たまらずに抑える。姉は肩から手を離したあと、今度は当時後ろに伸ばしっぱなしになっていた友幸の髪を引っ張った。

「いたい、よぉ」

「うるさいっ。いいから、あたしの話を聞け」

 なんでかわからないが、また姉を怒らしてしまったらしい。それがその時に友幸がおおまかに思ったことである。

 振り返れば、姉の行動の是非は別として、原因らしきものははっきりしているし、それはそれとして横断歩道くらいは渡ってから話をしても良かったのではないのかと後の友幸は考えてしまうものの、起こってしまった以上は今更どうしようもなかった。

 髪を引っつかんだまま姉は、頭上から叩きつけるようにして、

「前から思ってたけど、あんたがあたしの弟だってだけではずかしいんだけど。くらいし、気持ちわるいし、ぐずだし。時々、友だちとあんたの話になるたびに、こっちははずかしいおもいをさせられるんだよ。あんたはそういうことを考えたことがあるわけっ」

 弟に対する不満を盛大にぶちまけていく。それを耳にしながらも、友幸は言葉の意味をまっすぐに受けとらないまま、痛いなぁ、だとか、うるさいなぁ、だとか、早く家に帰ってご飯を食べたいなぁ、だとかいうことを思うのみだった。この日の姉の叱責もまた、いつもと同じく、世界に多くある嫌なことの塊の一つとしか感じていなかった。それに対して持ち合わせている手段は、ただただ時が過ぎ去るのを待つばかりである。

「あんた、ずっとそんなぐずのままでいるわけ。ずっと気持ちわるいままでいるわけ。そういうの近くでみてるだけでぞっとするんだけど。もうちょっと、ちゃんとしてよ」

 ちゃんと。それがどういうことか、当時の友幸にはわからなかったし、下手をすれば今もわかっていないかもしれない。ただ、この頃になると友幸の中にも、年相応の物心らしきものが芽生えはじめていたのもあってか、今のままでいるとこうして嫌なことをされ続けるんだろう、というところまでは理解が及んでいた。だからといって、なにをどうすれば今のままでなくなるかもわからないし、なぜ自分が変わらなければならないのかという不満も湧きはじめてもいた。

 耳元では延々と姉の罵声が響き続け、髪は相変わらず強い力で引っ張りあげられている。既に、熱くなっている姉がなにを言っているのか不明瞭になりつつあり、ただただうるささと不快さ、そして無視できない痛みが、友幸の中に眠っていた苛立ちに火をつけつつあった。

「なんなら、これからここで車にひかれてよ。そうしたら、ちょっとだけ泣いてあげてもいいよ」

 久々に聞きとった一言と同時に、友幸は自分の中で何かが切れる音を聞いた。顔をあげる。目の前には歪んだ笑みを浮かべる姉の姿。顔の輪郭をとらえると同時に、思い切り拳を振りあげた。どこに当てるかなどという目標はなく、大雑把に姉をぶん殴りたいという衝動ばかりが肥大した結果だった。

 拳は何か柔らかいものを抉りこんだ。驚いたように目を見開いた姉は、くの字に体を曲げ倒れこむ。友幸は自らの掌に残る色濃い生身の感触を、手を開いたり閉じたりして確認したあと、ただただ呆然としていた。

 程なくして立ち上がった姉の目に宿っていたのは、強い怒りだった。

「なにしてくれんの、このぐずっ」

 鋭い叫び声とほぼ同時に繰り出された張り手は思いきり友幸の顎を抉りぬく。打たれた方の頬を押さえながら膝を折る友幸の顔に、今度は運動靴が叩きこまれる。

「ぐずのくせに、あたしのじゃまばっかしやがって」

 そのまま亀の形に倒れこんだ友幸に、姉は殴る蹴るの暴行を加えていく。わき腹、背中、側頭部、太もも、二の腕。その他多くの部位に打撃が加えられていった。友幸は体の節々で起こる痛みに耐え切れず、ただただその姿勢を保つほかなく、そうしているうちに気が遠くなっていった。

「あんたなんか誰の役にも立たないんだから、トウメイニンゲンみたいになってればいいんだよ。いっそ死んでくれればいいのにっ」

 薄れ行く意識の中で、そのような言の葉を聞いたおぼえがあるものの、後年の友幸はそれらの言葉を頭の中で作り出した被害妄想の類なのではないのかと疑っている。その疑いの背景には、さすがにあの頃の姉でもそこまでは言わないだろうという常識的な考えと、できれば言っていて欲しくないという期待が合わさっていたが、真実は今をもって闇の中だった。


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