第2話

 ひんやりとしたそよ風が頬を撫で、私は目覚めた。まだ寝ぼけた頭のまま、記憶の糸を辿る。どうやら私はソファに座ってとりとめのない考え事をしている内に、そのまま眠りに落ちてしまったらしい。上体を起こすと、見慣れた部屋の光景がいつもの落ち着いた様子で広がっていた。さして広くもなければ新しくもない部屋だが、ここに住み始めてからもう随分の時間が経っている。今は亡き父から唯一貰い受けることになった年代物の、座り心地の良い革張りのソファ。工場で大量生産されている類の、安価だが無骨で堅牢な感じのするベッド。風に揺れるレースのカーテン。暇潰しと気晴らしの目的で無作為に買い集めた様々な分野の専門書が気まぐれに詰め込まれた背の高いがっしりとした木製の本棚。飾り気のない実用一辺倒と言った感じの机と椅子。生活感に乏しい簡素な台所。そういった馴染み深い光景の中にあって唯一異質な印象を与えているのは、部屋の中央に置かれた物言わぬ漆黒の球体だった。開け放たれた窓から差し込む陽気な太陽の光は不吉さや不気味さからは程遠いものだったが、それでも尚、球体はどこか底知れない何かを孕んでそこに歴として存在していた。部屋のどこにいてもあんなものが視界に入るのだから、それが理由であんな妙な夢を見たのかもしれない。

 台所に備え付けられた棚には安価な即席麺等が既に大量に備蓄してあったが、食欲はなかった。私は、ソファに比べて座り心地に個性もへちまもない椅子に座ると、机の上一面に並べられた黒いモニターの電源を入れていった。球体の背部から伸びる無数のケーブルが接続されているこのモニターを介して私は球体内部の世界やホムンクルスの動向を観測していた訳だが、どういう訳か数日前からそこに表示されるのは意味不明な記号の羅列ばかりだった。本来であれば、私が組み上げた復号ソフトがそれらを解読可能な数式や情報に置き換えるはずなのだが、それさえも及ばない何かしらの現象が現在進行形で球体内部に発生しているらしい。何か手を打たねば実験が頓挫してしまう。しかし、一体何をすればいいのだろう。私はしばらくの間、不規則に明滅する記号の羅列をぼんやりと見詰めていたが、やがて溜め息を一つ吐き出すと、モニターの電源を落とし、ベッドの上に仰向けに倒れるようにして横になった。何の装飾もない灰色の天井をじっと見詰める。様々な思考が具体的な輪郭を帯びずに浮かんでは流れていったが、総体としてそこに浮かび上がってくるのはやはり球体に関する事柄だった。しばらくそうして時間を潰している内に、なんだか煙草が吸いたくなった。煙草の箱とライターと灰皿は机の上に置かれている。どれも何の面白みもない安物だ。それでも喫煙の習慣だけは止められなかった。私はのそりと起き上がると、机に近付き、煙草の箱から一本抜き取った。それを口に咥えると、ライターで先端に火を点した。そのまま椅子の脚を背もたれにして、ぺたんと床に腰を下ろした。体育座りの要領で両膝を立てて座り込み、深々と煙草を吸い込むと、白い煙を溜め息のように吐き出した。吐き出された煙は窓から吹き込むそよ風に攪拌され、空間それ自体に吸い込まれていくように薄れていき、やがて消えていった。


 ここ数年の様々な分野における科学技術の発達はめざましく、それらは様々な社会問題を解決したとは言え、第三世界の台頭と無計画な開発、惑星の改造、そして無軌道な人口の増加によってその割を食った国も少なくはなく、かつて先進国と呼ばれた国々は軒並みその生活水準を衰退させ、私の暮らすこの都市もその例に漏れず凋落を始めて既に久しい。都市の遠景はかつては栄華を誇る煌びやかな摩天楼だったが、今は空虚な空に向かって無秩序に聳える墓標の群れのように見える。人々は狭い未来に向かって細々と暮らしていた。誰しもが将来に希望なんてどこにもない、事態がこれ以上良くなる兆しも予感も何も無いと言った具合に、憂鬱な表情を浮かべていた。

 私はすっかり寂れ果てた公園のベンチに座ると、煙草を吸いながら、しばらくの間時間を潰していた。私が親だったなら——そんな可能性は万に一つもないのだろうが、仮にそうだったとして、自分の子供をそこで遊ばせるのを躊躇うほど荒涼とした光景が、そこには広がっていた。遊具は錆だらけになって今にも軋む音が聞こえてきそうな程だったし、植込みは見知らぬ外来種的な雑草でぼうぼうに生い茂っていた。敷地の片隅にはいかにも不潔な感じのする毛色をした野良の獣が数匹、鳩の糞尿にまみれながら寝転がっていた。時たま聞こえる音とて無い、世界から見放されたかのような公園だった。

 それでも私は散歩の合間にこの公園に立ち寄っては、一人で煙草を吸って時間を潰す。孤独にはすっかり慣れていて、むしろこれに居心地の良さを感じるまでになっていた。目的が手段を神聖なものにする、と言ったのは誰だったろうか。今の私には崇高な目的意識がある。それを思えばこそ、こんな辺鄙な公園で薄汚れた獣に混ざって孤独に煙草を吸っているという自分の姿にも肯定的でいることができる。私はあの漆黒の球体で、上位者と交信を果たすのだ……。それがためなら、どんなに身をやつしても構わないと思っていた。何本目かの煙草を携帯灰皿で磨り潰すと、私はベンチから立ち上がり、ぐーと伸びをしてから、家へと帰ることにした。

 その途中のことだった。

 通りを歩いていると、不意に周囲に何とも形容し難い異臭が漂い始めた。それは今までに嗅いだことのない類の匂いだった。強いて言うなら何か生物的な……腐臭にも似た匂いだ。その匂いは直感的に人に生理的不安と生理的恐怖を催させるようなものだった。一体どんな死体であれば、このような匂いが出せるのだろう。私はその不快な、思わず人をたじろかせるような、どこまでも異様な感じのする異臭がもたらす不安や恐怖が、やがて持ち前の好奇心に取って代わるのを感じると、その正体を何とかして確かめてみたくなった。私はハンカチで鼻を押さえると、時たまその異臭の漂う方向を確かめながら、しばらくの間道を歩き続けた。

 そして、それは不意に私の視界に現れた。

 十階建ての雑居ビルとビルの隙間、細く薄暗い路地に、「それ」と呼称するにはあまりに巨大な、どこかラフレシアを思わせる、しかし触手にも似た突起が無数に、おしべとめしべのように伸びる植物とも動物とも形容しかねる「何か」が横たわっていた。私は視線をその「何か」の足下から先端まで視線を動かしながら、その大体の大きさを目算した。全長にしておよそ十メートル程はあるだろう。その外見は既知のどんな動植物にも似ず、あまりに醜く、それがために余程狂気に近い感性の持ち主なら、そこに地球という惑星の類型からは遠く離れた異星的、あるいは現世と隔絶した異界的な美しさを見出したかもしれない。巨大な、謎の肉塊。そのディティールはあくまでおぞましく、胸をむかつかせる何かがあった。全長十メートルの何かは片側を半ばビルの壁面に癒着させ、こすれた呼吸のような音を静まり返った周囲に不気味に響かせながら、その表面は心臓の鼓動によく似たリズムで脈動していた。その周囲には一層、あの不快な異臭が強く漂っていた。私は立ち竦んだ。これは一体なんなのだろう。その疑問に呼応するかのように、

「それは巨人の死骸さ」

 聞いたことのある声が背後から聞こえて、私は振り返った。そこには誰もいなかった。いや、視線を地面に落とすと、そこにあのグロテスクな外見の、タイプライター程の大きさをした、例の甲虫がとことこと歩いていているのを発見した。ということは、記憶の糸を辿ってみても現実との境目はどこまでも曖昧だったが、

「ここは夢の世界なのか」

 私がハンカチを仕舞いながら蟲に尋ねると、

「そうだ」

 と、彼は短く答えた。そして私の隣に並んだ。

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