リカーシヴ・コクーン
下村ケイ
第1話
無数の星々が煌めく気高い宇宙や、その中心で複雑な思考を続ける人間が、原子のランダムな配列による単なる偶然の産物だと、私にはどうしても思えなかった。これらの精妙なシステムはきっと知性ある何かによって設計されたに違いない。少なくとも私はそう信じていた。その知性ある何か——上位者は、銀河に鏤められた星々が絶え間なくたゆたう姿を見ても分かる通り、今尚人間の到底及び得ない高次の次元で存在し、観測と干渉を繰り返している。この世界がなぜ創られたのか。我々はどこから来てどこへ向かうのか。上位者の真意や思惑など計り得なかったが、私はどうしてもそれが知りたかった。しかし、神にも等しい、あるいは神そのものであるとも言える上位者と交信する手段など分かる筈もない。そもそもそんな手段など存在するのだろうか。それを確かめるべく、私はある実験を計画した。その実験に必要となる電算機の設計と開発には、私の頭脳で以てしても十年以上の歳月を要した。そうした時間の果てに出来上がったのは、事実上の無限を内包し、内部にそれを実現する機能と構造を有するという点において、既存のあらゆる電子的頭脳を凌駕すると同時に決定的にそれらに対して異質と言える代物だった。その外観は、直径二メートル程の、完璧に美しい輪郭線を持つ漆黒の球体だった。
私はその球体内部に、現実世界に存在するあらゆるパラメータを忠実に模倣し再現した仮想の小宇宙を創造した。小宇宙は無数の衝突と変容、融合と分裂を繰り返しながら、人類がある段階で直立し火を手に入れたように、やがてそこにある種の知性と呼べる何かを宿した生命体が発生した。私は彼等を、フラスコの内部に発生すると言われている者の名を借りて「ホムンクルス」と呼ぶことにした。ホムンクルスの知性は着実に進化を遂げていった。その歩調は、球体内部に流れる時間の速度が基底現実の時間進行の何十倍も、何百倍も加速して設定されていると言う事実を加味しても、文字通り驚くべきスピードであった。ホムンクルスは現実の人類さながらに無数に繁殖し、そして繁栄していった。
ここからが本番であり、私の実験の重要な箇所だった。彼等ホムンクルスが知性を進化させ続けた果てに彼等が彼等にとっての上位者——すなわち私の存在に気付いたなら、それはこの現実世界にも上位者がいることの間接的な証明になり得るのではないだろうか。そして、私に何かしらのメッセージを送ってくることがあったなら、現時点の私にはどのようなチャンネルでそれを為すか到底想像だにできないことだったが、そのやり方を模倣することで、私は私にとっての上位者と交信を図ることができるのではないだろうか。少なくともその手がかりが得られるかもしれない。私はそう考えたのである。
どこか古めかしいダイナーのテーブルに座って、注文した覚えのない珈琲を飲む私の向かいに現れたアウターゾーン教会の潜入工作員は、丁度タイプライター程の大きさをしたグロテスクな外見の甲虫だった。蟲の前には華奢なカクテル・グラスが置かれ、そこには微かな気泡の浮かぶ原色の液体が注がれていた。周囲に人の気配は皆無で、店員はおろか、客の姿一人見受けられない。私の困惑をよそに、蟲はテーブルの上から一対の透き通った瞳でこちらを見上げると、落ち着き払い過ぎてむしろ皮肉にも聞こえる口調で言った。
「私は独自に調査を続けてきた。私は君の置かれている状況を、少なくとも君よりかは理解しているつもりだ」
虫に話しかけるなんて端から見れば気が狂っているように見えるだろうし、そもそもこの甲虫の大きさも造形もそれ単体で十分に狂っていた。私は自分が何かとんでもなく奇妙なことに巻き込まれつつあることを知りながらも、それでも好奇心を抑えることができなかった。
「アウターゾーン教会というのは?」
私が尋ねると、彼は造作も無いことのように答えた。
「君のようなイレギュラーを調査し、時に信奉する集団の総称――進化と分裂による多様化の過程で、比較的早い段階にホムンクルスから分離した種族の末裔さ」
ホムンクルスという単語を聞いた時、私の心臓がどくんと不自然な脈を打つのを感じた。私はその名を誰にも明かしていなかったからである。それは私だけの秘密の実験だった筈だ。
「なぜ君がその名前を知っている」
「言っただろう。私は私なりに調査を続けてきたのだ」
「君は一体何者なの」
「先程も言った通り、アウターゾーン教会の潜入工作員だ」
私は続く言葉を束の間待ったが、それ以上のことを彼が語る気配はなかった。仕方なく、私は質問を先に進めてみることにした。
「その潜入工作員が、私に何の用?」
しばらくの間、彼は私の質問に答える素振りを見せなかった。答えるつもりがないのか、そもそも答えなんて存在しないのか。我々の間に、何とも割り切れない感じのする沈黙が流れていた。不意に私は彼がいかにして目の前に置かれたカクテル・グラスの中の液体を飲むつもりなのかが気になった。よもや胴体から触手の類がニュッと出てきて液体を舐め取る訳ではあるまい。私はしばらく彼の姿を見詰めていたが、彼は頭部から突き出た一対の触手を気まぐれに震わせるだけで、特にこれと言った動きは見せなかった。私は観察を諦め、質問を仕切り直すことにした。
「君は先ほど、私の置かれている状況を知っていると言ったが、私は今、どんな状況に置かれているの」
すると、今度はあっさりと口を開いた。
「結論から言おう、ここは君の夢の世界だ」
「夢……」
なんだ夢か——それが真っ先に頭をよぎった率直な印象だった。逆に、なぜその考えに思い至らなかったのかと私は訝しんだ。確かにこれが夢だと考えると、グロテスクな蟲と話しているという謎めいたシチュエーションにも、その蟲が誰にも話していない筈のホムンクルスの名を知っているという不可思議な事実にも一応の説明がつく。全ては私の眠りに落ちた脳が創り上げた虚構、幻想なのだ。夢にしては様々なものが明瞭すぎる気もしたが、少なくとも私は気が狂った挙げ句ありもしないも幻覚を見ている訳ではないらしい。いや、そもそも夢見がある種の狂気に関連する現象なのかもしれないが、目覚めれば終わるだけの話なのだ。
しかし、彼の言葉はそれで終わりではなかった。
「だが、ただの夢という訳では決して、ない」
「とびきりの悪夢って訳?」
「単なる悪夢だったら私は君とこうして話を交わしていないだろうし、店員の一人が私の姿を見るや否や、私を追い払うか叩き潰すかするだろう。そもそも、ここには人っ子一人いないではないか」
「それはそうだけど」
「これも結論から言う」
彼の瞳がじっと私を見詰めている。何の表情も感情も読み取れない、無垢とさえ言える一対の瞳で、真っ直ぐに私を見詰めている。
「君の夢は、ホムンクルスの意識と混線しているのだ」
すると彼は出し抜けにテーブルのカクテル・グラスに頭から小さく突進した。乾いた音を立ててグラスが倒れ、テーブルの上に原色の液体が広がった。彼はその水溜まりに近付くと、触手の付近に位置する口でぺろぺろとそれを舐め始めた。私は到底珈琲なんて飲む気にもなれず、そんな彼の無作法な飲み方をどこか気の抜けたような眼差しで眺めていた。
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