第8話 数学は大胆な者を好む5

 ターキーレッドのフルフェースを手に持った時、数渡の額に汗が浮かんだ。心臓が嫌なリズムを刻み始める。勝負の内容はシンプルだ。樹神の合図で「オーダー」を被り、問題を解いた後「空間座標」から早く帰ってきた方の勝ちだ。数渡は横目で隣の席に座る樹神を見た。机に備え付けられた衝立のせいで、その顔までは見えない。樹神は緊張しているだろうか、と数渡は思った。おそらく緊張はしているのだろう。しかし、樹神からは自信も感じ取れる。数渡の感じている不安を伴った緊張とは似て非なるものだ。


「準備はいいか、数渡?」


 樹神は数渡を見て言った。数渡は汗がにじんだ手をズボンで拭ってから「オーダー」をしっかりと持ち直し、一度唾を飲み込んだ。もう後には退けない。ここで負ければ、マスは本当に手の届かないところに行ってしまう気がする。問題に答えられなければ命を落とす。数渡は静かに覚悟を決めた。幼鳥が初めて空を飛ぶことを決めるように。数渡は樹神を見てゆっくりとうなずいた。


「じゃあ行くぜ。よーい、スタート。」


 樹神の掛け声と同時に数渡は持っていたフルフェースを被った。ほどなくして机上のタブレットに問題が表示される。


問題

 関数2ⅹxeの第n次関数を求めよ


 数渡はすぐにルーズリーフにペンを走らせた。ここで負ける訳にはいかない。数渡は思った。一体何がこれをそこまで彼を駆り立てているのか自分でも分からないほどに、数渡は熱烈に樹神に負けたくないと思った。手に滲む汗を気にせず、数渡はペンを一心に走らせる。そして・・・。カチッという音と共に、数渡の意識は無限に広がる「空間座標」の中へと消えていった。



 目を開けると、「空間座標」に住まう「数の化身」の姿は数渡のすぐ目の前にあった。多分五メートルも離れていない。その「数の化身」は今までに見たどの「数の化身」よりも人に近い姿をしていた。ただし身長はかなり高く、二メートルを超えている。その体は痩せ細っていた。人間では考えられないほどに細い。胴体だけではない。手も足も、頭部以外の全ての部位が常識外れなぐらいに細かった。頭部には人間の顔のかわりに横に長い楕円形の物体が付いていた。目や口や鼻といったものは見受けられず、完全なのっぺらぼうだ。数渡はその姿に、小学生の時にノートに落書きした棒人間を思い出した。


 棒人間のような「数の化身」は細い木の枝のような腕をゆっくりと持ち上げ、指先を数渡の方へ向けた。その瞬間、数渡の脳裏に三角錐状の「数の化身」に体を潰された時の感覚が蘇ってくる。目の前にいる「数の化身」はすでに自分への敵意で満ちていた。


「{2ⅹ+2nⅹ+n(n₋1)}ⅹe。ただしn≻=3の時は2ⅹ(n)(ⅹe)+n‘(2ⅹ)(n₋1)(xe)+nC2〝(2x)(n₋2)(xe)」


数渡は迷うことなく叫んだ。白い空間の中で一瞬、時間を含めたすべての事象が止まってしまったかのように白い空間は息をひそめた。その僅かな時間は数渡の心に黒い不安を呼び起こした。もし解答が間違っていたら自分はここで命を落とすことになる。


 次の瞬間、世界の秩序が整う感覚と共に、目の前に立っていた棒人間のような「数の化身」が白く輝く光に包まれた。そして間もなくその体は無数の白い光の粒となって「空間座標」の中を霧散していった。


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