第8話 数学は大胆な者を好む6

 数渡ははっと目を開けた。問題を無事解けたことへの刹那の安堵と、勝ったという自信が沸き起こる。問題はかなり早く解いたはずだ。そうだ、負けたはずはない。数渡はフルフェースを外すこともせず、ゆっくりと隣を見た。数渡の心臓が大きな音を立てる。そこには勝ち誇った笑みを浮かべた樹神の顔があった。


「よお数渡、ちょっと遅かったな。残念だがおれの勝ちだ。」


 嘘だ、数渡は心の中で叫んだ。


「そのヘルメット、早く外さないと次の問題始まっちまうぜ。」


 こんなの嘘だ。数渡は茫然としながらフルフェースを脱ぎ、それを両手に収めた。フルフェースに移りこんだ自分の顔はどことなく異形だった。数渡はそこに映った自分の顔から目が離せなくなった。違う、こんなのは自分じゃない。ここに映ってるのは何者だろう。何か別のものだ。数渡はそう自分に言い聞かせた。だが、どれだけのぞき込んでもそれは、丸みを帯びたものに反射しているために不気味に歪んだだけの自分の顔に間違いなかった。全部否定されたみたいだ。


 そう思う反面で、数渡は自分が樹神に敵わないであろうことを心のどこかで薄々感づいてもいた。ずっとそうだった。数渡が樹神に出会ったのは小学校に上がる前の事だ。その時から樹神は常に自分より一枚上手であると、数渡は思っていた。樹神に逆らう事は、決して良くない結果を自分にもたらすだろうと。あれから十年余りが経った。樹神と別れてから数渡は卒なく生きてきたつもりだった。それなのに自分と樹神との関係は何一つ変わらないのだ。結局彼は今も自分の一枚上手であり続けている。一体、樹神と自分で何が違うというのだろうか?

 

 今のお前はただ逃げてるだけじゃないか


 頭の中に樹神の声が蘇る。逃げている?一体何から?いや違う。そんなのは・・・


「嘘だ。」


数渡はぽつりとつぶやいた。


「お前、今なんて言った?」


樹神が眉をひそめて言う。


「もう一回だ。出題される問題が違うんだから、一回だけじゃ不平等じゃないか。」


 数渡は立ち上がり、叫ぶようにして言った。


「そうだ、難易度に偏りがあったらこんな勝負何の意味も・・・」


 数渡の言葉を遮るように樹神は立ち上がり、自分のルーズリーフを数渡の前に突き出した。数渡はルーズリーフに書かれた樹神の回答に目を通す。絶対値付き関数の定積分の問題。それもかなり複雑な数字の問題だ。この一枚の紙で樹神が言わんとすることは痛いほど伝わった。樹神の解いた絶対値付き関数の定積分の問題は三パターンの場合分けを必要とする。つまり、三つの答えを導き、その答えと条件を照らし合わせなければならない。自分の解いた問題と比べた時、どちらの問題の難易度が高いかは定かではない。だが、どちらの問題を解くことの方が時間を要するかは一目瞭然だった。そして、数渡がそれを認めてしまった時、彼の敗北は揺らがぬものとなった。しかし、数渡の中の闘争心と呼べるものが敗北を受け入れることを許さなかった。数渡は突き出されたルーズリーフと共に樹神の手を薙ぎ払うと、樹神を鋭い眼光でにらみつけた。


「もう一回だ。」


「おいおい往生際が悪いぜ。お前もルールに同意の上での勝負だったじゃないか。数渡、敗北を認めるってことも時には大事なことだぜ。」


 樹神のその言葉に数渡は今まで抑えていた黒い感情が爆発した。気付いた時には樹神の胸倉をつかんでいた。とっさに樹神の目つきが変わる。


「いい加減にしろよ。」


 樹神は凄みのある声で言った。次の瞬間、数渡は樹神の抗いがたい力によって冷え切った大理石の床に押し倒されていた。樹神は茫然としている数渡に背を向けると、何も言わず部屋を出て行った。数渡は床に腰をつけたまま、遠ざかって行くその背中を見ている事しかできなかった。樹神の姿が視界から消えた後も数渡はそのままの姿勢で魂が抜けてしまったかのように宙を見ていた。まるで彼だけが別の世界に置き去りにされてしまったかのように、人々は彼の横を声を掛けることなく、目線を送ることすらなく通り過ぎて行った。数渡を正気に戻したのは一人の女性が彼の名を呼ぶ声だった。その声は教会にとどろく鐘の如く数渡の胸の辺りに響いた。


「数渡君。」


 見るとそこには明が心配そうな顔をして立っていた。


「数渡君、何があったの?」


 明はそういうと数渡に歩み寄った。机の上に置いてあるルーズリーフを一瞥してから、明は床に座り込んだまま動こうとしない数渡の方をもう一度見た。


「〔オーダー〕を使って問題を解いたんだね。」


 数渡は俯いたまま答えなかった。


「どうして、もう〔オーダー〕は使っちゃだめって言ったじゃない。」


 明は数渡を責めるように言った。


「ねえどうして。私は、君に危ない目に遭ってほしくなくて、それで・・・」


明の口調には怒りの中に悲しみが含まれていた。その言葉を聞き終えないうちに、数渡は俯いたまま口を開いた。


「ごめん、明。君の言いつけを守らないで〔オーダー〕を使って、ごめん。だけど、だけど今はほっといてもらえないかな。」


 数渡は心の奥から絞り出すように、俯きながら言った。少し間を置いて、明は数渡の目の前にしゃがみ込んで数渡の手を握った。驚いて数渡が顔を上げると、至近距離で明と目が合った。


「放っておけないよ。」


 明は強い口調で言った。彼女の手は数渡を決して離すまいとするように、強く、優しく握られていた。彼女の目は数渡から決して視線を逸らすまいと決めているように、静かに、美しく据えられていた。


「放っておけないよ。」


 明は数渡に、そして自分で確かめるようにもう一度言った。


「行こう、数渡君」


明はそう言うと、数渡の手を強く引いて彼を立たせた。


「何処へ?」


数渡の問い掛けに対し、明は


「いいから付いて来て」


と言うだけではっきりとは答えなかった。

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