第8話 数学は大胆な者を好む4

 数渡は当てもなく「箱」の中をさまよった。与えられた二時間の間にどこかへ行くつもりは無かったが、自室に戻る気分にもなれなかった。ただ自分の頭の中にかかった靄を晴らすため、何をするでもなく歩き回った。こんなに怒りの感情を他人に抱いたのは初めてだ。樹神の顔、樹神の言葉、それを思い出すだけで心の奥底から黒い感情が湧き上がってきた。数渡は漆黒の廊下を速足で歩き、深呼吸して気持ちを整えた。マラソンをした後に歩きながら呼吸を整えるように。しかし、数渡の中に潜む黒い感情は何度押さえようとしても奥底から湧いて出てきた。別の事を考えようとしてもふとした瞬間に樹神の顔が脳裏に浮かび、樹神の言葉が耳奥で聞こえる。その度に数渡は自分の中から湧いて出てきた黒い感情に飲み込まれるような思いがした。数渡は漆黒の大理石の廊下をひたすら歩き続けた。


 しばらくして、開けた部屋に出た。正方形の形をした部屋で、数渡から見て左手側へと通路がつながっていた。部屋の中央には一体の石像が立っており、それ以外に目につくものは何もない。数渡は石像の近くまで歩いて行ってまじまじと眺めた。ロビーにあるガウス像とは明らかに別の人物を象っている。くっきりした二重瞼と激しく迂曲した長い髪を持っていた。おそらく実際の人物はかつらを被っていたのだろう。数渡はまたしてもこの人物が誰であるか分かりかねた。見たことはある、という感じで名前が出てこない。おそらく名のある数学者なのだろう。


 ああ、〔箱〕の中にはところどころ名のある数学者の石像が置かれてる。


 そう言ったのは樹神だ。数渡は苦々しく思った。再び黒い感情が渦を巻いて上がってくるのを感じた。数渡は石像に背を向け、もと来た道を戻ろうと足を踏み出した。「オーダー」の部屋へ向かうために。その時ふと頭の隅に引っ掛かっていた名前がぽんと浮かび上がった。ライプニッツ。石像の男の名はライプニッツだ。数渡はもう一度石像の方を見る。そこには先ほどと全く変わらぬ様子でライプニッツだろう男の石像が直立していた。かつて数学だけにとどまらず、自然学や心理学などありとあらゆる学問に精通した男だと数渡は記憶している。自分が彼のように知識が豊潤な人間であったならば、こんなに気持ちを乱さずに済んだかもしれない。数渡は再び踵を返し歩き始めた。



「オーダー」のある部屋に入ろうとした時、数渡は不気味な集団とすれ違った。その集団は、全員が顔まですっぽりと白装束に包まれており、パナウェーブだとかクー・クラックス・クランだとかそういったものを数渡に連想させた。数渡が集団を横目で見ながら部屋に入ると、部屋の中の男性に、気になるか、と声を掛けられた。見るとそこに立っていたには樹神だった。


「あいつら死体回収係なんだ。中身は人間じゃないって噂も立ってるぜ。おれは信じてないけどな。」


 樹神は低い声でそう言った。それから少し間を置いて再び数渡に向かって口を開く。

「闘う覚悟は決まったかよ?」

 数渡は樹神の鋭い視線を無視して部屋を見渡した。何人かフルフェースを被って問題を解いている人が見受けられるが、数渡の見える範囲に明の姿はなかった。よし、これでいい。途中で水を差されたらたまったもんじゃない。数渡は樹神を見て大きくうなずいた。


「始めよう。」

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