第8話 数学は大胆な者を好む3
「本当に忘れてたのかよ?」
樹神は少し怒りを含んだ声で数渡に言った。
「ああ、言われるまで気が付かなかったよ。でも小学一年生なんて、一体何年前の話だ?別に忘れてたって不思議じゃない。」
樹神はそれでも納得できないという顔をした。マスと別れてからどれくらい経っただろうか。今、二人は樹神の部屋である「三〇〇号室」に居た。樹神は備え付けの冷蔵庫から缶ビールを取り出すと手荒くふたを開けゴクリと飲んだ。
「おれは小一のあの頃から一度として忘れなかったぜ。言ったろ?おれはお前と詩織ちゃんが難しい話で盛り上がってることが悔しかった。だから退院した後、算数やら数学やら必死で勉強した。馬鹿なことだと思ったよ。もう二度と会えないと思ってたんだからな。だけど・・・」
樹神はそこで言葉を切った。だけど先ほど再会してしまった。数渡は頭の中で樹神のセリフの続きを聞いたような気がした。心臓が妙なリズムを刻んだ。樹神の次の言葉はきっと自分の望むものではないだろう、と数渡は思った。樹神は缶ビールを再びグイっと飲むと、壁にもたれかかるようにしながら言った。
「悪いな数渡、あの子は諦めてくれ。」
「それは出来ない。」
数渡は樹神をにらみつけて言った。
「忘れてたくせに。」
樹神は悪態をつくようにそう言った。その言葉に数渡も思わず言い返す。
「昔の事はどうだっていいだろ。僕は今のマスの事が・・・」
「今のマスの事が、なんだよ?大体なにがマスだ。あの子の名前は益田詩織だ。それとも何だ?おれが知らない間にそんなあだ名で呼べるほど親しくなったってのかよ。お前らの様子を見てもそんな風には見えなかったけどな。」
樹神は小ばかにしたような態度でそう言った。さらに無言でにらみつける数渡に不適な笑みを見せる。
「そうだ、勝負しようぜ数渡。」
樹神は言った。その瞬間、数渡はすでに嫌な予感がしていた。
「〔オーダー〕を使った勝負だ。先に問題を解いた方の勝ち。負けた方はきれいさっぱり諦める。どうだ?」
「そんなのはだめだ。そもそも僕は明に〔オーダー〕で問題を解いちゃいけないって言われてる。」
樹神は獲物を追い詰める肉食動物のような目で数渡を見た。
「何だよそれ。じゃあお前諦めろよ。詩織ちゃんの事より明さんの言いつけの方が大事だって言うんだろ?」
「そういうわけじゃない。だけど、もっと他のやり方があるだろ。」
数渡は何とか樹神の策謀から逃れようとした。ここで樹神の安い挑発に乗ってはいけない。だが、目の前の男はなおも狙いを定めた獲物を見るかの如く数渡から視線を外さなかった。数渡は小さい頃から、直感的にこの男が自分よりも何枚か上手であることを知っていた。それは今も変わらない。樹神の策謀にはまれば全て持っていかれてしまうだろう。きっと自分の知らない所でも、樹神は数々の人間から搾取を繰り返してきたに違いない。しかし、だからと言って退くわけにもいかない。
「なあ数渡。お前は今闘う権利を与えられてるんだぜ。説教じみたことが言いたいわけじゃないが、その権利ってのはだれもがもらえるわけじゃない。闘う事すらさせてもらえず諦めろって言われることもあるんだ。今のお前はただ逃げてるだけじゃないか。」
数渡は樹神の言葉にめまいがするような怒りを覚えた。一体この男はどこから目線でものを言っているのだろうか。何か言い返したいと思ったが溢れ出る怒りの塊をうまく言葉にできず、数渡は体を震わせながら樹神をにらみつけた。樹神は数渡から目線を外すと、持っていた空き缶をぐしゃりと握り潰し、ごみ箱へと投げ捨てた。
「おれの部屋から出て行けよ数渡。二時間後に〔オーダー〕の部屋で待ってる。闘う気があるならかかって来いよ。」
数渡はもう一度樹神をにらみつけてから踵を返し「三〇〇号室」を後にした。
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