第8話 数学は大胆な者を好む2

 数渡が「〇八一号室」で目を覚ましてから二時間ほどたった頃だった。部屋の扉をノックする音が聞こえた。扉を開けるとそこには明が立っていた。


「やあやあ数渡君。元気にしてたかね?」


「ああ、元気だよ。明も元気そうだね。」


 明の朗らかな声を聞くと、本当に気持ちが明るくなる。今日の明は黒のシャツにベージュのスカートという出で立ちだ。モミレ丈のスカートが上品さを感じさせる。


「急にどうしたの?」


「数渡君に久しぶりに会いたくなっちゃって。これから一緒にご飯でもどう?」


 明は笑顔でそう言った。明は聞いている方が恥ずかしくなるような事を平気で言う。初めて会った頃はその度にどぎまぎさせられたが、今ではもう慣れてしまった。


「いいよ。準備するからちょっと待ってて。」


 四十秒で支度しな、と言う明を置いて部屋の中に引っ込もうとした時、数渡の頭にふと樹神との約束が頭をよぎった。動きを止めた数渡を見て明は不思議そうな顔をする。

「どうしたの?」と尋ねる明に何でもないと答え、数渡は部屋に戻った。


 数渡と明はすっかりお馴染みになったバー付きのレストランで食事をとった。明は今もオーダーで問題を解き続ける生活を送っているそうだ。「昨日は二十体ほど倒してやったよ。」と嬉しそうに語る明を数渡は心底尊敬したが、それはどこか畏怖の念に近いものだった。


 命がけで問題を解くなんて、スリルがあって楽しいじゃないか。


 樹神の言葉が頭をよぎる。ひょっとすると明も〔オーダー〕で問題を解くことを純粋に楽しんでいるのかもしれない、と数渡は思った。そしてそれによって得られる満足感に依存してしまっているのかもしれない。


「ねえ、数渡君。あれから〔オーダー〕で問題は解いてない?」


「解いてないよ。」


数渡は首を横に振って言った。


「うん、だったらよかった。」


 明はこの時だけは真剣な顔をしていた。二人が食事を終え、食後のコーヒーを飲んでいる時だった。数渡、と名を呼ばれて彼は声のする方を見た。数渡は声の主を確認するまでもなく、声を掛けてきたのが誰なのか分かった。案の定、そこに立っていたのは樹神だった。七分袖のシャツに明るめの青をしたデニムパンツを着ていた。自分もそろそろ無地の白シャツに黒いチノパンを卒業したいのだが、みんなは一体どこで服を手に入れているのだろうか。


「こんなところでまた会うなんて奇遇だな。昨日はなかなかに楽しかったぜ。」


「よく言うよ。途中でどっか行っちゃったくせに。」


 数渡がそういうと樹神は悪かったよ、と言った。そういえば昨日の女性はどうなったのだろうか。樹神に訊いてみたい気持ちが湧いたが、明の手前なのでやめておいた。明はコーヒーカップを口に運びながら二人の様子を興味深げに観察していた。樹神は明の方を見て言った。


「はじめまして。おれ、数渡くんの友達の樹神って言います。失礼ですけど、東条明さんですよね?東条さん、〔オーダー〕の部屋でずっと問題解いてるから、すごく頭のいい人なんだろうなって思って、一度お話してみたかったんです。」


 数渡は樹神の芝居がかった挨拶を聞いて吹き出しそうになった。 


「はじめまして、樹神君。」


明は笑顔で言うと、立ち上がり、樹神に右手を差し出した。樹神は明の若い女性らしからぬ行動に一瞬たじろいだが


「ご丁寧にどうも」


と言ってその手を握った。


「樹神君、下の名前は?」


「証って言います。」


樹神は数渡の隣の席に座ってから答えた。


「樹神証くんだね。よろしくね、証くん。私の事は気軽に明って呼んで。ところで数渡君とはこっちで知り合ったの?」


「いや、数渡とは幼馴染です。ただ、こいつが引っ越してからは会うどころか連絡も取り合ってなかったんですけどね。」


「へえ、数渡君も引っ越してたんだね。知らなかった。ここで久しぶりに会うなんてすごい偶然だね。」


「オレも驚きましたよ。」


と言って樹神は笑う。二人の会話はそれから数渡と樹神の幼少時代の話へと移った。盛り上がる二人の話を数渡は黙って聞いていた。時々話を振られると、数渡は簡単に返事を返した。明は楽しそうに会話していた。この世界で親しく話せる人が増える事は明も嬉しいのだろう。しかし、数渡の目には明の笑顔はいつもと違うもののように見えた。上辺だけで笑顔を作っていると言うと少々言い過ぎだが、どこかぎこちないというか、戸惑いがあるように数渡には思われた。


「昔、おれ足の骨を折ったことがあったんですけど、こいつよく見舞いに来てくれたんですよ。」


 その一言を聞いて数渡は嫌な予感がした。


「いや、その話は・・・。」


「だけどほんとはおれの隣のベッドの女の子目当てで、そのためにわざわざ病室に通ってたんですよ。ひどくないですか?」


 数渡が止めに入る前に、樹神は早口に言った。明はくすっと笑うと


「数渡君、昔から惚れっぽかったんだね。だってほら、マスにも一目惚れだったんでしょ?」


 数渡は即刻この場を立ち去りたい気持ちに襲われた。湧き上がる羞恥心を押さえることが出来ず、責めるような目で明を見た。


「マス?マスってのは数渡をここに連れてきた女子高生ですか?」


樹神は眉をひそめて聞き返す。


「数渡、やっぱりお前、女子高生にホイホイついてったんじゃないか。」


 もう止めてくれ。数渡は心の中でそう叫んだがなおも二人の容赦ない攻撃は続いた。それから一時間ほどしてからようやく明がそろそろ自分は問題を解きに行くと言った。


「じゃあね、数渡君、証君。また一緒にお食事しようね。」


 そう言って明は席を立った。明が店内から出ていくのを見送ってから樹神は口を開いた。


「ちょっと変わった人だけど、いい人だな。」


「ああ、大事な友達だよ。」


「ふうん、友達ねえ。」


 樹神は少し間を置いてから、再び口を開いた。


「あの人、お前の事が好きなんじゃないの?」


 その言葉を聞いて、数渡は樹神の方を見た。


「何だって?」


「だからさ、明さんはお前の事が好きなんじゃないの?」


 数渡は樹神の言葉を咀嚼するのに時間がかかった。しかし、その言葉をどれだけかみ砕いてみても答えは出なかった。


「分からない。」


数渡は正直に答えた。


「おれにはそんな風に見えただけだ。深く考えるなよ。それにお前はマスって子のことが好きなんだったな。」


「まあ・・・」


「何だよ、はっきりしないな。なあ、そのマスって子にも会わせてくれよ。どんな子かおれも気になる。」


「どこにいるか分からない。部屋の番号も知らないし。」


数渡は肩をすくめて言った。


「その子がよく行きそうな場所とかないのか?」


 樹神はなおも聞いた。数渡はしばらく考えてみた。マスがよく行きそうなところ。彼は頭の中で亜麻色の髪を持ったミステリアスな少女の姿を思い起こした。そしてふと彼女が無感情な瞳でロビーのような場所にある大きな石像を眺めていたことを思い出した。あの場所にマスはいるだろうか。


「一か所だけある。今いるかは分からないけど。ロビーのようなところだ。あそこにある大きな石像をマスはよく見てる。」


「ロビーの石像って言ったら、ガウス像じゃないか?」


「ガウス?」


「ああ、〔箱〕の中にはところどころ名のある数学者の石像が置かれてる。あのロビーは確かガウスだったはずだぜ。」


 数渡は石像の顔をよく思い出してみた。大きめの鼻とくっきりとした目を持っている。深いしわとあごひげが見事に彫り込まれており、服装は分厚いコートのようなものを着ている。世界史の資料集で見た数学者カール・フリードリヒ・ガウスの肖像画と確かによく似ている。


 数渡は樹神と共にロビーへと向かった。まさかいないだろうと数渡は思っていたが、その予想は裏切られた。白いブラウスを着たマスを含め、ロビーは昨日訪れた時と何一つ変わっていないように数渡には思われた。そのしんとした荘厳たる空気は、まるで何千、何万年も昔から変化するという事を忘れてしまったかのように思われる。


 そこにたたずむマスの姿は、驚くほどその場の空気に馴染んでいて、声を掛ける事さえもはばかられた。マスは二人の足音が近づいて来ると、石像から視線をゆっくりと数渡たちの方へ移した。


「九田君。」


 例によって抑揚のない声でマスは言った。マスに名前を呼ばれ、数渡はどきりとする。視線が合いそうになり、思わず目を背ける。


「マス、友達が君に会いたいって言うから連れてきたんだ。」


 数渡の言葉を聞いて、マスは樹神へと目線を移す。しかし、彼女は何も言う事はしなかった。対する樹神の反応を見て、数渡は不思議に思った。樹神は激しく動揺していた。目を大きく見開いてマスを見ている。その口は何か言いたげだが、肝心の一言目が出てこないようで、唇を大きく震わせていた。


「樹神君、大丈夫?」


 数渡は樹神に声を掛けた。一体どうしたというのか?


「嘘だろ?」


 樹神はやっとの思いで言葉を絞りだした。マスは依然として樹神の事を無感情に見ている。


「シオリ・・・ちゃん?」


 樹神の言葉に数渡は耳を疑った。シオリちゃん?数渡は長らくその名前を耳にする事がなかった。そしてもう一生その名前を耳にする事はないと思っていた。


「おれのこと覚えてるか?小学一年生の時におんなじ病院に入院してた、樹神証だよ。短い間だったけど、シオリちゃんの妹の事とかいろいろしゃべったの覚えてないかな?」


 樹神は必死で質問を重ねるが、マスは黙ったままだった。まるで二人の間に見えない壁が張られていて、樹神の言葉は一つとしてマスに届いていないようだ。


 数渡は幼いころの記憶の中にいた。小学一年生の夏、暑い日差しとセミの声が降りしきる中、何度も足を運んだ病院。病室の前の表札には「樹神証」の名前の隣に「益田詩織」と書かれていた。


 扉を開けると、窓に映った果てしない青空と一筋の真っ白な飛行機雲を背景に、一人本を読む少女の姿があった。開けられた窓からセミの声と一緒に入ってくる涼しい風が彼女の肩まで伸びた黒くまっすぐな髪を優しく撫でる。黒髪の合間から見える顔つきは驚くほど端正で、その瞳は黒く澄み切っている。それなのにベッドで上体を起こして本を読むその姿はどこかはかなげで、吹いたら消えてしまうろうそくの灯のように弱弱しく見えた。少女は入口でたたずむ数渡に気づき、ゆっくりと顔を上げた。その顔には微笑みが浮かんでいる。


「こんにちはクダくん。コダマくんさっきね。リハビリ行ったよ。」


「じゃあちょっとここでまっててもいい?」


「いいよ。」


 少女の返事を聞くと、数渡は病室に入り彼女の近くの椅子に腰を下ろした。


「ねえ、何の本よんでるの?」


「スウガクの本。」


「スウガク?知ってる。お父さんがおしえてるやつだ。学校でいまやってるのは算数だけど、おっきくなったらスウガクやるってお父さん言ってた。」


「クダ君のお父さんスウガクの先生なの?いいな。」


「そーだよ。お父さん、あたまいいしカッコいいんだよ。でもいっつも家でおしえてるのはね。すっごくむずかしいんだよ。」


 少女はふふっと笑うと


「クダ君は、」


と綺麗な声で言った。


「数学、嫌いなの?」



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