第8話 数学は大胆な者を好む1

 それは数渡が小学校に入った年の晩秋の事だ。だんだんと空気が冷たくなり始め、数渡の家に足を運ぶ塾生たちの姿は白いブラウスから紺色の学生服へと変わっていった。数渡の暮らす家は、父が営む算数、数学を専門とする塾と隣接しており、自由に家と教室とを行き来することが出来た。数渡は子供ながらに教室から発せられる、というより塾生たちから発せられる空気感が以前よりピリピリしてきたことを感じ取っていた。「じゅけん」というものが近づいているからだと父は教えてくれた。塾生たちは数渡に優しかった。


「カズ」「カズ君」と数渡の事を呼び、勉強の合間に遊んでくれた。塾生のほとんどは数渡とは歳の離れた中学生や高校生だったがその中に一人小学生が交じっていた。


 小学六年生の女の子でいつも高校生たちと一緒に問題を解いていた。数渡にとっては一番年の近い塾生だったので、出来たら仲良くなりたいと考えていたのだが結局それは叶わなかった。彼女はいつも勉強に集中していて、周りとあまり関わろうとしなかった。その上長く伸びた黒髪が目元を隠し、陰気な雰囲気を出していた。


 その日は季節外れの嵐が近づいており、雲行きがかなり怪しかった。外で遊ぶことが出来ない数渡は、学生たちの邪魔にならないように、教室の一番後ろの席で学校から出された宿題をやった。授業が始まると、父がホワイトボードの前に立ち教鞭を振る。学生の数は二十人にも満たなかったが、その全員から父は慕われているという印象があった。父の教鞭は常に真剣だったが、時に冗談で生徒を笑わせることもあった。そんな父の姿を数渡は誇りに思った。授業が終わり生徒たちと教室の外に出ると、数渡はもう一人の講師と鉢合わせた。


「数渡君、宿題かい?えらいね。」


 男は藤岡という名前で、父の塾でアルバイトをしていた。父は高校生レベルのコースを、藤岡は中学生レベルのコースを担当していた。歳は二十二歳で近くの大学に通っているそうだ。身長はそれほど高くなく、髪は無造作に伸ばされている。その目はいつもどこか自信なさげだった。


「わあ、不審者!カズ君に話しかけないでよ。」


 一緒に教室を出てきた女子高生集団の一人がそう言うと、周りがクスクス笑った。


「こら、下らない事言うなよ。」


 藤岡は挙動不審気味に言う。その時、教室の中から藤岡を呼ぶ父の声がした。


「藤岡先生、今日はこの後新しく入塾する親子と会う事になっています。先生も一緒にご挨拶していただけますか?」


 それから父は数渡の方を見て言った。


「そうだ数渡。その子は数渡と同い年の女の子だそうだよ。数渡も会ってみるかね?」


「同い年って小学一年生ですか?」


驚いて藤岡が聞き返す。


「ああ、そうだ。中学生コースに入塾希望だそうだ。いやはや最近の小学生はレベルが高いね。」


「そういえば先生のクラスにも居ますもんね。小6で高校生コースを受講してる化け物みたいな子が。」


「化け物だなんて。言葉を選びたまえよ。」


 そんな会話を聞いている折、数渡は父の携帯がポケットの中で揺れている事に気が付いた。父に伝えようと思ったが、それは塾の入口の扉がガラガラと開く音によって阻まれた。外の強い風が建物の中に入って来る。


「すみません。」


 見ると三十代前半ぐらいの女性が二人の小さな女の子を連れて入口の前に立っていた。片方の女の子はまだ小学校にも上がっていないのだろう。母親と思しき女性のロングスカートの裾をつかみ、体をぴったりと密着させていた。もう一人の女の子は初めて会う男性二人に恐れることもなく、母親の前に堂々と立っていた。その女の子の顔を見て、数渡ははっとした。夏に何度も病室で見た顔だ。


「来月から入塾予定の益田と申します。」


「益田さん、お待ちしておりました。こんな日にわざわざご足労いただいて、ありがとうございます。お寒いでしょう。どうぞ中へお入りください。」


 父に促されて、母親は二人の娘を連れて中へ入ろうとした。その時だった。ずっと母親にくっついていた妹の方の女の子が急に大きな声を出して泣き始めた。どうやら知らない大人のいる建物の中に入るのが怖いようだ。母親が慌ててあやそうとするが、なかなか泣き止まない。すると今度は姉の方の女の子が妹に駆け寄っていった。妹の頭をそっと撫でながら言う。


「よしよし、だいじょーぶだから泣かないで。おねえちゃんといっしょに行こ。」


 妹はだんだんと落ち着いていった。すすり泣きながらも、片方の手で母親のスカートの裾をつかみ、もう片方で姉の手をしっかりと握って敷居をまたいだ。妹は土足を脱ぐ時でさえ、母親のスカートを離さなかった。一方の姉はというと妹の手から解放されると、さっさと靴を脱いで中に入って来た。彼女は父と藤岡にこんにちは、と挨拶すると数渡の目の前に来た。その顔には微笑が浮かんでいる。数渡は驚きとうれしさで言葉が出なかった。まさか、また会えるなんて!


「久しぶり、九田くん。わたしのお願いおぼえてる?」

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