第7話 数学者は二つの異なった世界に住んでいる5
一人部屋に戻る途中、数渡は自分が見覚えのある場所にいることに気が付いた。広いロビーのような場所だ。大きく、頑強そうな柱が等間隔に立ち、高い天井を支えている。ロビーの奥は階段を隔てて少し高くなっている。
そこには一体の男性を象った石像がある。マスと一番初めに来た場所だ。数渡が石像に近づいていくと、ふと視界の隅に白いものをとらえた。石像の前に白いブラウスを着た女性が立っている。長く綺麗な亜麻色の髪を持った女性だ。マスは静かに石像を見上げている。声をかけるとゆっくりとこちらを見た。
「起きたのね。」
相変わらずの抑揚のない調子でマスは言った。数渡はマスの言っていることを理解するのに少しの時間を要した。少しの間の後、「起きた」とは自分が昏睡状態から回復したことを言っているのだと数渡は気付いた。
「知ってたんだね。僕が〔数の化身〕にやられて眠ってたこと。」
マスは小さくうなずいた。そういえば自分が眠っているとき、マスは夢に出てきたような気がする。
「ひょっとして、君が助けてくれたのか?」
「〔オーダー〕のコードを抜いたのは私。」
その返事を聞いて、やはりそうだったのかと数渡は思った。
「ありがとう。」
「どうして?」
数渡の言葉に対して、マスは表情を全く変えずに聞き返した。
「だって君のおかげでこうして死なずに済んだ。」
「〔オーダー〕を使用している状態で電源が落ちた時、使用者が死亡する確率は八十九・四パーセント。さらに残りの十・六パーセントのうち何らかの後遺症を残す確率が六十七・八パーセント。つまりあなたが今、健常者として立っていることが出来る確率は三・四パーセント。感謝されることなんて何もないわ。」
数渡はマスの目をしっかり見て言った。
「それでも僕はここに立ってる。マスのおかげで今も生きてるんだ。ありがとう。」
数渡がそう言うと、マスは黙って数渡を見つめ返した。今回は数渡から目を合わせにいったのだが、それでもマスの黒く澄んだ瞳と目が合うといつも胸に迫るものを感じる。マスの瞳からは彼女の感情を読み取ることは出来なかった。一体何を考えているのだろう。数渡は心からマスの事をもっと知りたいと思った。
「私、もう行くわ。」
マスはそう言って踵を返し、階段を下りて行こうとした。
「待って・・・!」
数渡の心の中の叫びが彼の口をついて出た。マスは振り返り、無感情な目を数渡の方に向けた。
「何?」
「えっと、いや、」
数渡は思わずマスを引き留めてしまったが、その先の言葉を考えていなかった。彼はいつもこういう時に碌な言葉が思いつかない。
「君の名前は、なんて言うんだ?マスっていうのは名字だよね。」
マスは無表情な視線を数渡に送り続ける。悪いことを聞いてしまっただろうか。
「マス、とみんなから呼ばれてるわ。」
マスは顔色一つ変えず言う。なるほど、みんなから「マス」と呼ばれてるから、お前も「マス」と呼べってことか。
「僕の名前は言っていたっけ?」
数渡は不毛なものであっても何とか会話を続けようとした。
「知ってるわ。ずっと前から。」
マスの言葉に数渡は耳を疑う。知ってる?ずっと前から?マスは再び踵を返し、階段を下りていく。
「またね、九田君。」
数渡はマスの姿が視界から消えるまで茫然と彼女の方を見ていた。
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