第7話 数学者は二つの異なった世界に住んでいる4

 話を終えると、樹神は持っていた缶ビールをグイっと飲み干した。数渡は樹神が語り終えた後もしばらく黙っていた。樹神になんという言葉を掛けたらよいのか分からない。


 それに樹神の話で一つ気になることがある。数学は嫌いか、それは数渡がマスに初めて出会った時に彼女に訊かれたことと全く同じ問いだ。一体どういう事だろうか。


「樹神君も〔オーダー〕を使って問題を解いてるのか?」


結局数渡が最初に口にした質問は、樹神が語った過去とは無関係なものだった。


「ああ、おれは数学の問題を解くのは好きだからな。それにおれは勝負事も好きだ。命がけで問題を解くなんてスリルがあって楽しいじゃないか。」


 数渡は樹神の言葉を素直に納得している自分自身に驚いた。命がけで数学の問題を解くことが楽しいなんて、それこそ正気の沙汰ではない。「数の化身」に襲われる感覚はスリルなどという軽々しいものでもない。それなのに一度「空間座標」を抜けてしまえば、その身に宿る痛みなどの感覚は全て消えてしまう。その恐怖すらもきっかけがなければ思い出すことが出来ないほどきれいに消えてしまうのだ。そして問題を解ききった後に感じるのは、底知れぬ満足感だ。それをスリルがあって楽しい、などと言ってしまうことに抵抗はある。だが「オーダー」に少なからず依存性のようなものがあると感じるのもまた事実だ。


「でも数学が好きだなんて羨ましいよ。僕はどうしても数学が好きになれないから。」


 数渡がそういうと樹神は驚いた顔をした。


「何言ってんだよ、数渡。お前小さいころあんなに算数好きだったじゃないか。よく分かんない算数の話をいつもおれにしてたの覚えてないのか?」


 数渡は驚いて樹神を見返す。算数の話?僕が樹神君に?


「覚えてない。」


 数渡は白状した。樹神の言う算数の話というのは、自分が父から教わった話だろうか。もしかしたらその話を父の真似をして樹神に話していたのかもしれない。


「じゃあお前、おれが入院してた時、隣に居た女の子の事も覚えてないのかよ。」


 数渡はその言葉を聞いて稲妻に打たれたような気がした。数日前に病室のベッドの上で思い出された光景が蘇る。一人の女の子がベッドの上で本を読んでいる。セミの声と一緒に開け放たれた窓から入って来る風が、肩まで伸びた黒く美しい髪を優しく揺らしている。季節は夏だった。窓から見える空はどこまでも青く、一筋の飛行機雲がまっすぐに跡を残していた。ここまではっきりと情景を思い出せるのに、どうしてか女の子の顔だけは思い出すことができなかった。


「覚えて、ない。」


 数渡はぎこちなく言った。


「嘘つけよ。」


樹神はすかさず言った。


「お前あんなにあの子にべた惚れだったじゃないか。なんならおれの見舞いとか言ってほんとはあの子に会いに来てたんだろ?」


 数渡は自分の体温が急に上がるのを感じた。全て樹神はお見通しだったのだ。今更言い訳の余地はない。過去に犯した罪を責められているようで数渡は樹神から目をそらした。


「いや実を言うと、ガキの頃はおれもその子に気が合ったんだけどな。」


 樹神は秘密を暴露するように言ったが、数渡はそのことを当時から感づいていた。そうでなければ病室で女の子としゃべったことをあんなに嬉しそうに自分に話したりしないだろう、と当時を思い出して数渡は思う。

 

「それで、その女の子と算数の話が一体何の関係があるんだ?」


「何だ、それも覚えてないのか?お前、あの女の子と算数の話でよく盛り上がってたじゃないか。三角とか四角とか貝がどうとか。あの頃おれは勉強が嫌いだったからな。お前らを病室において下の階にテレビを見に行ったんだよ。正直言うとあの時ちょっと悔しかったんだぜ。おれもあの子と話したことはあったけど、大体はあの子の妹の話ばっかりでそんな盛り上がらなかったしさ。」


 数渡はそれを聞いても少しもピンとこなかった。自分は当時樹神の事を羨ましいと思っていたが、自分が記憶すらしていない所で、樹神もまた自分の事を羨ましいと思っていたのだ。しかし、どれだけ奥底の記憶をたどっても、思い出せるのは夏の病室の風景と、そこで本を読んでいる黒髪で顔が隠れた女の子の姿だけだった。まるで何者かに記憶の糸を途中でプツリと切られてしまったかのように、それ以上の事は何も思い出せない。


「まあ大分昔の話だからな。忘れてたって無理もない。それより数渡、今日はこれからどうするんだ?何か予定があるのか?」 


 数渡が首を横に振って何もないと伝えると、樹神はにやりと笑って、


「じゃあ遊びに行こうぜ。」


と言った。


 ガコーン、という大きな音を立てて、ボールは全てのピンをなぎ倒した。


「よし、ストライク!」


 樹神はガッツポーズをすると、数渡にハイタッチを求めた。数渡はそれに答えながら、大したものだと思った。樹神は部屋を出てから新たに3本もの缶ビールを開けていた。随分酔いが回ってきているはずなのに、樹神の投球は一向に衰える様子がない。一方の数渡はというと一向に調子が振るわなかった。どうしてもピンが一本二本残ってしまう。今回の投球も真ん中のピンを一本残す形となって終わった。しかし「箱」の中にボーリング場まであるとは驚きだ。しかもなかなかに広い。二十レーンはあるだろうか。近くで年配の男性が華麗にストライクをきめていた。樹神は余裕の表情でスペアを決めて戻ってきた。これで樹神は少なくとも二十点がスコアに追加されたことになる。次の投球次第でもっと点が伸びるだろう。数渡はいつの間にか樹神に対抗心を燃やしていた。


 とにかくスペアだけでも取らなければ。数渡はその一投を投げた時気付いた。自分の手首が少しばかり右にずれてしまっている。そこで彼は次の投球でボールが離れるときの手首の角度をレーンに対し平行になるように気を付けて投げた。ボールはまっすぐに転がっていき、残すピンを全て倒した。出来てしまえば簡単だった。何を今まで躍起になっていたのだろうか。次の投球も同じ要領でやると、あっさりとストライクが出た。


「はは、やるじゃないか数渡。」


 樹神はそう言いながらも、一ゲーム目は樹神の見事なダブルストライクで幕を閉じた。得点の表示板が次のゲームのスコア票へと更新されると、樹神はにやりと笑って言った。


「勝負しようぜ、数渡。おれが勝ったら、お前がいつも一緒にいる女の子、紹介してくれよ。」


「いつも一緒にいる女の子?ああ、明の事か。明は僕らより年上だけどね。」


 樹神はそれを聞いて少し驚いた顔をした。


「そうなのか?いくつなんだ?」


「二十一歳」


「二十一歳?そいつは驚きだ。お前とその明さんは付き合ってるわけじゃないんだよな?」


 数渡は首を横に振って違うと答えた。


「だったらいいじゃないか。今度おれに紹介してくれよ。」


「僕が勝ったら?」


 数渡がそう尋ねると樹神は少し考えるようにした。最初から自分が負けることなど想定していなかったようだ。


「お前が勝ったら小学校の時、おれの見舞いとか言って女の子に会いに来てたこと、忘れてやるよ。」


「いや、それ昔の話すぎるだろ。」


 数渡が不満の表情を全面に出して言うと、樹神はまた腕を組んで考えるようにした。


「うーん、じゃあゲーム中に考えとくよ。始めようぜ。」


 そうは言っても樹神は結局考えていなかったようだし、結果的に考える必要もなかった。数渡は最後僅差のところまで樹神を追い詰めたが、結局惜敗という形で終わった。ただの遊びのはずだったのに、数渡は負けたことが大層悔しく感じた。


 一方の樹神はというと、別の場所に目線が釘付けになっていた。樹神の目線をたどっていくとそこにはボーリング場の奥にあるクラブハウスへと入っていく一人の女性の姿があった。顔は良く見えなかったが、背は高く、スタイルも良かった。樹神は数渡の方を向くと早口に言った。


「おれちょっと抜けるわ。また今度明さん紹介してくれよな。」


 樹神は数渡の肩を軽く叩いてじゃあな、と言うと女性の方へ足早に歩いて行った。後に残された数渡は遠のいていく樹神の背中を見送った。旧友は昔と随分変わってしまったようだ。

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